十余年昔のこと、ボクの指揮するコーラスに、中学時代の恩師、I先生の参加されたことがあった。
あるコンサートの打ち上げの席で、先生に愛ある苦言を呈されたことを、よく思い出す。
「福島君、君の指導は立派だけれど、もっと参加している人にレベルを合わさないとね。それが本当のプロの指導者だよ」
さらには、「もっと団員を褒めなさい」とも。
後者については、確かにそうに違いなく、未だになかなか出来ない自分を恨んだりするのだが、前者については当時から異論があった。
それは、教師と音楽家の目的の違いからくるのだと思う。
I先生はとても教え方も柔らかで、ユーモアもあり、素晴らしい先生だった。
その年々、その土地の生徒たちのレベルに合わせ、彼らの力が1ランク伸びるようなご指導によって、幸せな結果を生んでいたのだと思う。
しかし、音楽家であるボクの場合、そういうわけにはいかない。
そもそも、バッハやベートーヴェンの音楽は、日常の音楽ではない。
精神的にも、技術的にも崇高で、元来、音楽教育を受けたことのない集団のレベルが素で挑むべき相手ではないのだ。
ゆえに、団員を鞭打ったり、首根っこを捉まえたり、高下駄を履かせたりしながら、なんとか一歩でもその頂きに向かう以外に道はないのである。
(しかし、もちろん、ヘリコプターやロープウェイを使うのは御法度)
ピッチが甚だしく不正確な団員の揃ってしまった合唱団があるとしても、そのレベルに自分を合わすことは到底出来ないだろう。
彼らを1合目から2合目まで安全に登らせることは教師にとっては歓びかも知れないが、指揮者は彼らの尻を蹴り上げたり、ロープで引き摺ってでも5合目、7合目、9合目へと全体のレベルを引き上げねばならぬ。
たとえ、人に憎まれようとも、音楽を裏切ることはできない。
もし、お互いのどちらかが限界を覚え、理想の追求を断念したときは、そのコーラスとの関係が終わるときなのだと思う。
しかし、妥協知らずで知られたボクも、ひどく疲れているときなど、「もう諦めるべきだろうか?」と弱気の起こることもある。
いつの間にか、元気にバリバリ働ける残りの年数を指折り数えられるような歳になっていたのだ。
これからは、もっともっと「創造的、刺激的なレッスンと本番」の望める仕事を増やしていかねばなるまい。