福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

アルカディ・ヴォロドス シューベルトの夕べ

2018-06-10 23:04:07 | コンサート


アムステルダム最後の夜には、コンセルトヘボウ大ホールにて、アルカディ・ヴォロドスのピアノ・リサイタルを聴いた。もともとは、マレイ・ペライアのリサイタルが予定されていて、それを目当てにチケットを購入していたものであるが、ペライアの体調不良によるツアー・キャンセルは周知の通り。

ペライアとハイティンク、コンセルトヘボウ昼夜の主役2人ともが降板してしまうとは、6月10日は何という日曜日であろうか?

プログラムはシューベルトの後期ソナタ2曲、即ちイ長調D.959と変ロ長調D.960というタフなもの。代演指揮者によるマーラーを避けた理由は、実はこの連続するプログラムの重たさにもあったのだ。



今宵の座席はここ、前から10列目のやや下手寄り。ピアノ椅子でなく、舞台上の聴衆と同じパイプ椅子を採用するとはユニークだ。

前半のイ長調が始まるも、音がよく聴こえてこない。やはり、ステージが高過ぎて音が頭上を抜けていってしまうのか? さらに、斜め後ろの席に絶えず雑音を出す男性がいて、無念なことにどうにも集中できないうちに終わってしまった。



そこで、後半はバルコンに移動。
なるほど、そうか。この音の良い席で聴いてはじめて、平戸間でよく聴こえないワケが分かった。

ヴォロドスの音の領域は、一見熊のような巨躯とは対照的に、ピアノからピアニシシモにあるのだ。その弱音には様々な段階とニュアンスがあり、そこで勝負している。全演奏時間の7割以上が弱音という印象で、これでは音響的に不利な座席に音が届かないのも無理はない。

その静謐さは、シューベルト晩年の深遠な作品に相応しいには違いないが、何か足りない。恐らくメゾ・フォルテからフォルティシモにかけての強い音に、色付けや重量感といった魅力が乏しいからであろう。ピアノ以下の表現の多彩さに対し、メゾ・フォルテ以上になると絵の具の種類がガクッと少なくなるのはどういうわけか?
細やかな変化球が生きるのも力強い豪速球あってこそ。ヴォロドスが、もっと強音を磨くなら、あのピアニシシモがさらに効果的となるだろう。

小ホールとの容積の差が大きいので、単純に比較できない(さらに即興曲とソナタでは作品の重さが異なる)が、シューベルト作品を見つめる眼差しの深さに於いてルカ・オクロスを懐かしく感じたし、表現そのものもギリギリを狙うライブの醍醐味があったようにも思える。

追記
平戸間後方で聴いた知人は、音量について、わたしとは違う印象を持った模様。コンセルトヘボウというホール、まだまだ奥が深い。





では、日中何をしていたかを白状すると、普通に観光をしていた。アムステルダムに滞在すること11日。宿からコンセルトヘボウや美術館、そしてスーパーマーケットの往復ばかりで所謂観光をしていなかったのだ。

そこで、現地在住Ritzさんのお誘いに乗って、アムステルダム郊外の風車の村ザーンセ・スカンスを訪ねたという次第。



水が近い!
オランダの国土の4分の1が海抜ゼロメートル以下ということを肌で実感。
心地よい風を受け、ミルクの新鮮さの際立つソフトクリームを舐めながら、如何にもオランダという風景を堪能できたことは、大いなるリフレッシュとなった。Ritzさん、有り難う!




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ハイティンクさんの降板決定

2018-06-10 12:56:54 | コンサート
開演約2時間前になって、RCOよりハイティンクさんの降板と代演指揮者が発表されました。

残念なことですが、ハイティンクさんのお身体を考えると致し方ありません。

今はただマエストロの一日も早いご快復をお祈り致します。

Kerem Hasan conducts Mahler 9 – RCO


KEREM HASANが、どのような指揮者かはわかりませんが、わたしとしては、8日に聴いた崇高なマーラー9に、いかなるものも上塗りしたくないので聴きにはゆかないつもりです。

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ハイティンクさんのご無事とご快復を祈ります

2018-06-09 01:30:44 | コンサート
ロイヤル・コンセルトヘボウ管より正式な発表があったのでお伝えします。
ハイティンクさん、感動的マーラー9のカーテンコール中、ステージ上で前のめりに転倒され、暫く立ち上がることの出来ない状況でした。全聴衆による熱狂的スタンディングオベーションが、一転、血も凍るような沈黙と化しました。最後には抱きかかえられながらご自身で歩いて退場され、意識もはっきりされているように見えました。
関係者によると、疾患によるものではなく、足元の何かに躓いた模様とのこと。バタンと物凄い音がしたので、当たりどころが心配ではあります(わたしの座席からは確認できませんでしたが、お顔にお怪我をされたという情報もあり)。
今はただ、マエストロのご無事とご快復をお祈りするばかりです。

@RCOamsterdamさんのツイート: https://twitter.com/RCOamsterdam/status/1005212139320209411?s=09

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ハイティンク指揮RCO マーラー9番

2018-06-08 22:34:44 | コンサート


本日6月8日(金)は、昨夜につづくハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管によるマーラー「9番」。

それはそれは美しく、ひとりの指揮者とオーケストラが行き着いた美の極致と呼べる演奏ではありましたが、故あって、いまは書けません。

6月10日(日)の3公演目、再びマエストロの棒で、マーラーを聴けることをお祈りしているところです。
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ラトル&ベルリン・フィル ブルックナー9番を聴く

2018-06-05 22:27:14 | コンサート


アムステルダム滞在中に、たまたまベルリン・フィルがやってくる、しかも、演目がブルックナーの「9番」終楽章付きというのは、本来ラッキーなことの筈である。事実、これを知ったときには狂喜し、大いなる期待をもって、コンセルトヘボウとしては最高ランクのバルコン中央2列目の席を手配した。





朝から高鳴っていた気持ちは、夕方4時頃、楽器搬入の場面との遭遇で極に達し、あとは20時15分の開演時間に向け心身のコンディションを整えつつ臨んだものである。

しかし、今宵のブルックナー演奏への失望は、東京で聴いたヤニック・ネゼ=セガン&フィラデルフィア管による「4番」に匹敵するものであった。心が冷えてしまうのに僅か5分すらも必要なかった。

一言で申すなら、神聖なる教会のミサの最中にメタルバンドのギタリストがやってきて、ディストーション全開のプレイを繰り広げるというようなブルックナーだった。なにもエレキギターが悪いというのではなく、限りなく場違いな演奏だったと言いたいのである。

ここに、造物主への畏れや感謝もなく、永遠への憧れも祈りもない。大宇宙の鼓動や自然の美しさや厳しさがある筈もない。ただ、演奏家たちの自我ばかりが目立つばかり。もはや、ブルックナーとは言えない、ただの連続する音響があるばかり。

ベルリン・フィルの弦楽セクションは、プルトの頭から尻まで、すべてのプレイヤーが全力で弓を奮う。その姿は壮観であるし、後ろのプルトにゆくほどボーイングの小さくなる傾向にある我が国の一部のオーケストラに較べると、遥かに気持ちのよいものだし、ある意味で見習うべきものだ。

しかし、そこに鳴る音が美しいかというとそうではない。ロイヤル・コンセルトヘボウ管、シュターツカペレ・ドレスデン、ウィーン・フィルらを見れば分かるように、適切な脱力があってこそ、楽器は美しく鳴るのであり、あそこまで常に全力だと、音がギスギスして美しくないのだ。

これは音楽に限ることのない真理だ。イチローのバッティングや大谷のピッチングを見るならば、最上のパフォーマンスを得るための脱力の大事さが分かるだろう。

ベルリン・フィルのメンバーは、能力が高いばかりに、その能力の奴隷となっているようにみえた。俺たちはこんなに弾けるんだぜ、という風に楽器を鳴らしまくるうちに、目の前の楽譜が、ブルックナーでもストラヴィンスキーでも誰でもよくなってしまうのだろう。

すべては、ラトルの責任なのだと思う。まるでノーガードのブルックナーの顔面に、容赦なくパンチを打ちまくるような指揮ぶりで、大小の頂に向かっては扇情的なアッチェレランドを仕掛け、天国への階段となるべき崇高なゼクエンツでは拳を突き出しては、暴力的なフォルテで音楽を踏みにじる。

予想通り、終演後の聴衆は総スタンディングオベーション。熱狂的なブラヴォーの嵐の中、足早にホールを後にしたわたしの耳に、天国より宇野先生の声が聞こえる気がした。

「君、ラトルのブルックナーなんか、聴く方が悪いよ」。






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新星ルカ・オクロス オランダ・デビュー・リサイタル

2018-06-05 11:00:23 | コンサート


順序は前後するが、6月3日(日)の午後にはコンセルトヘボウ小ホールにて、ルカ・オクロスのピアノ・リサイタルを聴いた。トビリシ生まれの26歳。ワールド・ツアーの一環で、この日がオランダへのデビューだ。

オクロスへの予備知識は全くなかった。ただ他に予定がなにもなかったので出掛けてみたところ、思わぬ豊穣が待ち受けていたというわけだ。いやあ、本当に幸せな時間だった。

シューベルト:4つの即興曲D.899

ショパン: バラード第4番

ラフマニノフ: 6つの楽興の時op.16

リスト: ハンガリー狂詩曲第2番

少なくとも、ショパンを除く3つの作品をもって、第16回ルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールに臨んだことが、同コンクールのYouTube動画サイトにて確認できる。オクロスにとっても、研鑽を積んだ自信のあるプログラムというかことになろう。残念なことに、ファイナリストには残れなかったようだが、その演奏は人々の記憶に残り、世界的にファンが急増したとのこと。一見、華奢な体躯。嵐の二宮和也にも似た「はにかみ」が、女性ファンの心を掴むのかも知れない。

オクロスは、各作品の演奏前、ピアノ椅子に腰掛けたまま、作曲家のこと、作品のこと、或いは作品への想いを語る。
例えば、シューベルトに於いては、彼の短い生涯の晩年の作品であること、尊敬するベートーヴェンが亡くなって大きな悲しみに襲われていたこと、ここに聴かれる軽さや明るさは、シューベルトにとっての仮面であること。
また、ラフマニノフに於いては、オクロスが、6曲それぞれに「思い出」「愛」「大きな喪失」「勝利」など(我が記憶力が悪く、あと2つを思い出せないのが無念)など、名付けている、など。



シューベルトでは、まず音色の美しさに惹かれた。そして、オクロスの眼差しは、シューベルトの死への恐怖、生への執着、夢への逃避などに向かい、見せ掛けの演奏効果など一切眼中にない。特に明と暗、その狭間を行き来する第1番、感傷なき美しい夢である第3番の演奏が印象に残った。
コンクールの動画も十二分な名演だが、あれから1年経ち、その音楽は益々深化していた。いまは、こんなものではない。
(Luka Okrosで検索できるので、是非とも視聴してみて欲しい)



シューベルトで内面的な演奏を繰り広げたオクロスも、リストのハンガリー狂詩曲では、超絶的なヴィルトゥオジティを披露し、聴衆を湧かせた。内だけでなく外にも、幅広い音楽性を抱いているところが、オクロスの魅力でもある。

今現在、日本でどれほどの知名度があるのか分からないけれど、今後、人気の沸騰するような気もする。今、ここに聴けたことは大きな歓びである。

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ターフェル& グローヴス「ファウストの劫罰」

2018-06-04 22:48:33 | コンサート


連夜のコンセルトヘボウ通い。
今宵の演目は、ベルリオーズ「ファウストの劫罰」、マルク・スーストロ指揮 マルメ・フィルによる演奏だ。

呼び物は、何と言っても、メフィストフェレスを歌う名歌手サー・ブリン・ターフェルで、地元のポスターには、彼の顔写真と名前のみ、オーケストラや合唱団はおろか、共演歌手や指揮者の名前まで記載されていないという徹底の仕方である。



ターフェルはメフィストフェレスの役が身体に入りきっていて、もはや歌唱という枠を超えた名演、ファウストを歌うポール・グローヴスもそのターフェルと全く互角に渡り合っていたのだから見事というほかない。

一方、メゾ・ソプラノのソフィー・コッホは、声、容姿ともに薄幸のマルグリートに相応しいものなのに、ピッチ感が男声陣と合わなかった(常に低め)ことが悔やまれる。

マルメ・フィルは、例えばスウェーデン放送合唱団と同種の透明感を持ったオーケストラで技術的にも上手い。余りにも美しい響きが連続するので、時折、雑味も欲しくなる、といえば贅沢だろうか?
ライプツィヒ放送(MDR)合唱団を起用したというのは、ライプツィヒの酒場の場面があるからだろうか? こちらも、オーケストラに引けをとらない透明なハーモニーで、特に賛美歌系のナンバーが印象に残った。



問題は、指揮のマルク・スーストロだ。棒がブルブル震えるばかりで拍が分からないため、少し込み入った場面になると、アンサンブルがガタついてしまう。縦の線が合わなくても気にならないという魅惑があればよいのだが、それもない。
もっとも罪深いのは、オーケストラをガンガン鳴らしすぎて、フォルテ以上になるとコーラスが全く聴こえなくなることだ。耳を塞ぎなくなるほど無意味な大音量であったし、声とのバランスに無頓着にもほどがある。プロフィールにロザンタールに師事したとあったので期待していたのだが、私には残念な結果となった。

さて、にもかかわらず、終演後の聴衆の熱狂は凄まじいものだった。否、確かに全体的には水準以上の素敵なパフォーマンスだった。何しろファウストとメフィストフェレスが抜群に良かったのだから。それしても、少々騒ぎすぎだ。アムステルダムの聴衆は簡単にスタンディングオベーションをし過ぎることを改めて感じた次第。褒めて伸ばす方針なのか?



宿に戻るためコンセルトヘボウの裏手に回るとトラックが! マルメ・フィルのツアー・トラックだ。こんなに長~い荷台、日本のオケには採用できそうにないな。



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凄絶なるエクスタシーの極致 マルクス・シュテンツ指揮「エレクトラ」

2018-06-02 17:43:48 | コンサート


終演とともに地鳴りのようにコンセルトヘボウの床が震えた。
ホールは興奮の坩堝。満員の聴衆が一斉に立ち上がり、ブラヴォーの大合唱。今年1月の訪問とここ数日の滞在で、アムステルダムの聴衆は、そこそこの演奏にもスタンディングオベーションを送る習慣があることに気付いていたところだが、今日のスタンディングは決して儀礼的なものではなく、魂の底からの感動が成せる業であった。

立役者は3人の女声歌手、すなわちエレクトラのエレーナ・パンクラトローヴァ、クリソテミスのアスミク・グリゴリアン、クリュテムネストラのダリア・シェヒターであることに間違いはない。

特に凄かったのは、クリソテミスのグリゴリアンである。シュトラウスとしても最大級の編成によるオーケストラ(しかも、ピットでなくステージ上)をものともせず、突き抜け、響きわたる驚異の声。復讐に燃えるエレクトラとは違い、普通の女性として生きたいと願う健気な想いが聴こえるのだ。彼女の声を浴びながら、何度も脳天から背中に電気が走った。こんな経験は何年ぶりだろう。

エレクトラのパンクラトローヴァは、昨年のバイエルン国立歌劇場来日公演に於ける「タンホイザー」ヴェーヌスの優れた歌唱が記憶に新しい。今回も譜面を置かず、父アガメムノンを殺した母クリテムネストラとその情父エギストへの常軌を逸した復讐心の塊と化した。全篇ほぼ歌い通しのこのタフな役に於いて、疲れを見せないどころか、尻上がりに声の調子を上げるという強靱さに恐れ入る。

一方、クリュテムネストラのシェヒターは性格俳優と呼べるほどの芝居の上手さが光った。夫を殺した後ろめたさ、息子オレストに殺されるのではという恐怖、オレストの死の情報に邪悪な歓喜の雄叫びを上げる場面など、多くの聴衆の心を凍らせてしまうほど。

そして、シェヒターとパンクラトローヴァの凄絶なる鍔迫り合いを目の当たりにするにつけ、エレクトラには紛れもなくクリテムネストラの血が流れていることを実感させるのだ。なんと恐ろしいことだろう。

一方、男声陣はやや弱かった。オレストのセメレディの声は悪くないのだが、目の前に居る女が実の姉エレクトラだと分かったときの「エレクトラ! エレクトラ! エレクトラ!」の声に、俄かに高まりゆく情感や魂の震えるような歓びが感じられないのは惜しい。

エギストのピフカに至っては、まるで村の小学校の校長先生か? というような場違いな雰囲気での登場で、エギストの持つ狡猾さ、残忍さ、小人物さを全く感じさせなかった。

しかし、エレクトラは圧倒的に女声のオペラ。主要女声3人に重点を置き、出番の少ないエギストへの予算の配分が少なくなるのもやむを得ないのかも知れない。

マルクス・シュテンツの指揮は格別に素晴らしいものだった。全身から音楽が溢れ、音楽に生命の息吹を与え、オーケストラと聴衆を忘我の境地へと誘った。

統率力、バランス感覚ともに申し分なく、読響、新日フィル、N響などへの客演が評判であったことが頷ける。今後、注目していきたい指揮者である。取りあえず、大阪フィル事務所に推薦しておこう(笑)。

リヒャルト・シュトラウス
楽劇「エレクトラ」(全1幕、演奏会形式)

オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団
Radio Filharmonisch Orkest

オランダ放送合唱団
Groot Omroepkoor

指揮 Dirigent
マルクス・シュテンツ
Markus Stenz

メゾ・ソプラノ/クリュテムネストラ
Mezzosopraan, Klytämnestra
ダリア・シェヒター
Dalia Schaechter

ソプラノ/エレクトラ
Sopraan, Elektra
エレーナ・パンクラトローヴァ
Elena Pankratova

ソプラノ/クリソテミス
Sopraan, Chrisothemis
アスミク・グリゴリアン
Asmik Grigorian

バス/オレスト
Bas, Orest
カロリー・セメレディ
Károly Szemerédy

テノール/エギスト
Tenor, Aegisth
トーマス・ピフカ
Thomas Piffka

ほか

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カピュソン、コセ、ハーゲンによる弦楽トリオを聴く

2018-06-01 23:20:05 | コンサート


今宵は、コンセルトヘボウ小ホールにてRenaud Capuçon、Gérard Caussé、Clemens Hagenによる弦楽トリオを聴く。

バルコン最後列のこんな椅子席にて。まるで観光バスの補助椅子だ。一般の座席より尻が痛くならず、左右と後ろに人が居ないので気楽である。音も抜群に良い上、最前列に較べ約20ユーロも安いので、言うことなし。ほかの演奏会もここを買えばよかったなぁ。




プログラムは、ベートーヴェンの作品9-3とモーツァルトのディヴェルティメント変ホ長調 K.563。

ヴィオラ界の重鎮ジェラール・コセは御歳70とは思えない闊達な演奏。弓の運びの自在さは弦楽器を弾けない私にも伝わる。自由と愛に溢れた魅惑的な演奏ぶり。一時的なのか慢性的なのか、脚を傷めているようで松葉杖なしには自力で歩けず、着席してから係より楽器を受け取っていた。

チェロはハーゲン四重奏団のクレメンス・ハーゲン。まだ51歳とは思えない熟達の味わい。楽器が朗々と鳴り響き、音楽の土台を築く。

それに較べ、ヴァイオリンのルノー・カピュソンは、その華々しい経歴とは裏腹に、演奏に精彩を欠いた。
というのも、インスピレーションに溢れたコセとハーゲンが内面から湧き上がる音楽を奏でているときに、ただ表面的に形だけをつくっていたからだ。モーツァルトならではの目眩く転調の際にも、選ぶ音色を間違えてしまう。直感力や泉のように湧き出るものがない、というのは悲しい。

昨日(5月31日)聴いたグスターヴォ・ヒメノ&ロイヤル・コンセルトヘボウ管の感想は無精をして書いていない。いろいろ思うところはあったのだが・・・。


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