アムステルダム最後の夜には、コンセルトヘボウ大ホールにて、アルカディ・ヴォロドスのピアノ・リサイタルを聴いた。もともとは、マレイ・ペライアのリサイタルが予定されていて、それを目当てにチケットを購入していたものであるが、ペライアの体調不良によるツアー・キャンセルは周知の通り。
ペライアとハイティンク、コンセルトヘボウ昼夜の主役2人ともが降板してしまうとは、6月10日は何という日曜日であろうか?
プログラムはシューベルトの後期ソナタ2曲、即ちイ長調D.959と変ロ長調D.960というタフなもの。代演指揮者によるマーラーを避けた理由は、実はこの連続するプログラムの重たさにもあったのだ。
今宵の座席はここ、前から10列目のやや下手寄り。ピアノ椅子でなく、舞台上の聴衆と同じパイプ椅子を採用するとはユニークだ。
前半のイ長調が始まるも、音がよく聴こえてこない。やはり、ステージが高過ぎて音が頭上を抜けていってしまうのか? さらに、斜め後ろの席に絶えず雑音を出す男性がいて、無念なことにどうにも集中できないうちに終わってしまった。
そこで、後半はバルコンに移動。
なるほど、そうか。この音の良い席で聴いてはじめて、平戸間でよく聴こえないワケが分かった。
ヴォロドスの音の領域は、一見熊のような巨躯とは対照的に、ピアノからピアニシシモにあるのだ。その弱音には様々な段階とニュアンスがあり、そこで勝負している。全演奏時間の7割以上が弱音という印象で、これでは音響的に不利な座席に音が届かないのも無理はない。
その静謐さは、シューベルト晩年の深遠な作品に相応しいには違いないが、何か足りない。恐らくメゾ・フォルテからフォルティシモにかけての強い音に、色付けや重量感といった魅力が乏しいからであろう。ピアノ以下の表現の多彩さに対し、メゾ・フォルテ以上になると絵の具の種類がガクッと少なくなるのはどういうわけか?
細やかな変化球が生きるのも力強い豪速球あってこそ。ヴォロドスが、もっと強音を磨くなら、あのピアニシシモがさらに効果的となるだろう。
小ホールとの容積の差が大きいので、単純に比較できない(さらに即興曲とソナタでは作品の重さが異なる)が、シューベルト作品を見つめる眼差しの深さに於いてルカ・オクロスを懐かしく感じたし、表現そのものもギリギリを狙うライブの醍醐味があったようにも思える。
追記
平戸間後方で聴いた知人は、音量について、わたしとは違う印象を持った模様。コンセルトヘボウというホール、まだまだ奥が深い。
では、日中何をしていたかを白状すると、普通に観光をしていた。アムステルダムに滞在すること11日。宿からコンセルトヘボウや美術館、そしてスーパーマーケットの往復ばかりで所謂観光をしていなかったのだ。
そこで、現地在住Ritzさんのお誘いに乗って、アムステルダム郊外の風車の村ザーンセ・スカンスを訪ねたという次第。
水が近い!
オランダの国土の4分の1が海抜ゼロメートル以下ということを肌で実感。
心地よい風を受け、ミルクの新鮮さの際立つソフトクリームを舐めながら、如何にもオランダという風景を堪能できたことは、大いなるリフレッシュとなった。Ritzさん、有り難う!