福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

シン・ゴジラでなく竹久夢二

2016-08-31 00:31:17 | 美術



お昼過ぎの新幹線までの時間、後楽園に近い夢二郷土美術館を訪ねることとした。シン・ゴジラをもう一度観てもよかったのだが、どうせなら別の音響のよい施設を選んでのこととしたい。
画家・竹久夢二については、実のところ、知識も思い入れも薄く、「あの情緒的な美人画の作者」くらいの認識しか持ち合わせていなかった。むしろ、大好きな日本歌曲、小松耕輔作曲「母」の詩人として親しみを感じていた。

  母

 ふるさとの 山の明け暮れ
 みどりのかげにたちぬれて
 いつまでも われ待ちたもう
 母は かなしも

 幾山河 とおくさかりぬ
 ふるさとの みどりのかどに
 いまもなお われ待つらむか
 母は とおしも

この佳曲を愛するあまり、簡素なハーモニー付けをして女声コーラスで演奏したことも、かつてはよくあったものだ(スコアは見ていないが、青島広志による編曲もあるらしい)

美しい詩の中で、母が夢二を待ちつづけた故郷が、旧岡山県邑久郡(現・瀬戸内市)であったということを知ると感慨もひとしお。久しぶりに指揮したくなった。



夢二郷土美術館 http://yumeji-art-museum.com

シン・ゴジラはさておき、夢二郷土美術館を訪ねた直接の動機は、油絵である。わたしの中で夢二と油絵というものが結びつかず、いったいどんなものかとこの目で確かめておきたかったのである。

ただいま展示中の目玉は、ロサンゼルスから里帰りしたという幻の「西海岸の裸婦」。

日系人写真家・宮武東洋(1895-1979)に送られたものが大切に保管されていたのだという。

48歳にして初の洋行。大きな期待と意欲をもって訪ねたアメリカが、大恐慌のまっただ中という不幸。展覧会は注目も浴びず、作品も売れず、苦しい日々を過ごした中、描かれた一枚の油彩画だ。
しかし、夢二に詳しいとはいえないわたしから見ても、ここに新しい何かの生まれつつあるのを感じる。異文化との出会いが、夢二の魂に大きな化学変化を起こさせたに違いない。

その後の竹久夢二がドイツ・チェコ・オーストリア・フランス・スイスに旅したことことや、その苦労がもとで体調を崩し結核を患い、50歳の誕生日目前という若さで亡くなったこともはじめて知った。

風景画、静物画、挿絵など、目を見張る作品も多く、「竹久夢二、美人画のみにあ非ず」を実感できたのは嬉しい収穫だ。

数奇な女性遍歴も含め、もっと夢二のことを知りたいと思わせたばかりでなく、自分もまた内なる音楽を変えるような大きな冒険をせねばならない、と感じさせた夢二郷土美術館への訪問であった。

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日本人音楽家として最上の円熟! 小澤征爾&サイトウキネンのベートーヴェン「7番」(その3)

2016-08-29 16:54:02 | コンサート
♪シン・ゴジラ二度目の鑑賞を終えて、元気が湧いてきたので、予定より早くもアップします。
唯一残念なのは、エンドロールで流れる伊福部昭の名曲を聴かずに席を立つ客の多いこと。我が目を疑うほど。岡山では伊福部昭流行ってないのかなぁ(笑)?

♪その1、その2からお読み頂けると幸いです。

  ・・・・・・・・・・・・・・

 フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの生演奏を知る遠山一行先生にあって、当時40代後半の小澤征爾が彼らの域に遠いことは実感されていたに違いないが、その後の円熟、成熟には、「日本の音楽界のため」にも期待しておられたのかも知れない。
 とまれ、わたしは、今回、二回のベートーヴェン7番に触れて、小澤征爾は「巨匠」と呼ぶにふさわしい境地に至ったのではないかと思った。そして、「ああ、この美しい演奏を遠山先生に聴いて頂きたかった」と激しく思ったのである。



 予めお断りしておきたいのは、わたしはここで、セイジ・オザワ松本フェスティバルの在り方や小澤征爾その人の政治手法、錬金術について一切触れるつもりはない、ということ。たしかに、サイトウキネン・オーケストラの管楽器セクションにあれほど多くの外国人プレイヤーが乗っていることは、桐朋学園の祖のひとり、斎藤秀雄という人の功績を記念する、或いは偲び、感謝するというオーケストラ本来の趣旨を考えるなら不明である。日本には優れたプレイヤーは多くいるし、外国人プレイヤーのギャラ、旅費、宿泊費がどれほど音楽祭の経営を圧迫しているかは想像したくもない。ある意味、外国への日本円の流失であるとも言えるし、小澤征爾に運営への思いやりが足りないのではと疑いたくもなる。
 しかし、その是非への考察は、適任に譲るとし、ここでは、小澤征爾の音楽そのものについてのみ話をつづけることとしよう。



 ひとくちに巨匠と言っても、対極的なトスカニーニとフルトヴェングラーを並べるまでもなく、その在り方は様々である。そのふたつとない個性や秀でた能力を高め、深めた存在を巨匠と呼ぶのであるから、同じ形はそうそうあるものではない。
 クレンペラーは肉体の自由を失った晩年にテンポを極限まで遅くし、仰ぎみるように巨大な造型の音楽を創造した。
 ベームも晩年に至るにつれ、テンポが遅くなり、たとえば深沈たる味わいのモーツァルトやベートーヴェンの名演を遺した。我らが朝比奈隆も出来不出来はあったが、ときに大宇宙を感じさせる崇高なブルックナーに到達した。
 しかし、小澤征爾はいずれとも違った。ブラームスのシンフォニーすら振り通せないほどに体力を消耗させながら、その音楽はどこまでも軽やかで自由なのである。もちろん、10年前よりはテンポが遅くなった、ということはあるかも知れないけれど、むしろ、本質的にはますます「軽み」が極まったのではなかろうか?

 あのウィーン・フィルとのニューイヤー・コンサートで見せた煩わしいばかりの「振りすぎ」は陰を潜め、否、もうそんな体力もないのかも知れないが、楽員を信頼した自主性に溢れた生き生きとした音楽がそこに現出した。もはや精神が肉体から遊離したような「解脱」の境地ではないか? とすら思った。

 そして、そのオーケストラによって奏でられたフレーズは、多くの孫の代を含むとは言え、まさに齋藤秀雄によって創始された桐朋学園メソッドによる統一感に彩られていたのである。さらには、奏者たちの小澤征爾との一期一会を味わい尽くすような切実な気持ちが客席に伝わってきたのだから堪らない。これこそ、「サイトウキネン」の名にふさわしいパフォーマンスであっただろう。

 実をいうと、わたしは、桐朋学園在学中より、桐朋学園オーケストラのサウンドには違和感を覚えることが多くあった。西洋音楽の伝統のない日本において、その語法を解析し、体系化し、それを急いで身につけるべく行われた教育の大きな成果がそこに鳴っていた筈だが、それは自分が子供の頃から聴いてきたクナッパーツブッシュ、ワルター、シューリヒトなどの音楽とは決定的に違うものであった。違ってもよいのだが、どこか、純粋培養的な不自然さが心に馴染まなかったのかも知れない。
 しかし、このたび、耳にし、全身で感じたサイトウキネン・オーケストラの音楽は、どこまでも自然であった。もはや研究や勉強の成果ではなく、日本という風土に根を下ろしたひとつの個性ある西洋音楽となっていたからである。これこそ齋藤秀雄が目指し、遠山一行先生が待っていた音楽ではなかったか?

 その意味で、外国から招いた管楽器プレイヤーたちの音が、この「サイトウキネン」サウンドに馴染んでいないのは当たり前のことであった。技術的にも精神的にも一体化していた弦楽セクションから奏法や音色が浮き上がってしまっていることが度々あった。それに気づいたのは、わたしひとりではあるまい。
 ここで興味深いのは、ファビオ・ルイージの指揮したステージでは、このような弦と管の方向性の違いはなく、みごとな統一感を見せていたこと。それはそれで素晴らしいことなのだが、小澤征爾が振らなければ「サイトウキネン」とはならない、ということの証左とも言えるのではないか。



 セイジオザワ松本フェスティバルに於ける小澤征爾。できることなら来年も聴きたい。マエストロにはどうかお体を労り、もう少し長いプログラムを振れるまでに回復して欲しい。今回鳴り響いた肉体を超越したベートーヴェンのその先、前人未踏の境地を示してほしいと願わずにはいられない。



♪中野雄さん(初日)、山崎浩太郎さん(2日目)とロビーで歓談できたのも何よりの思い出となりました。
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小澤征爾のつづき ほぼ書き終わる

2016-08-29 11:44:08 | コンサート


久し振りに纏まった時間ができたので、松本に於ける小澤征爾のつづきをほぼ書き終えることができた。

ほぼ、というのは、ポメラに書いた文章をスマホに転送して、それから編集しなくてはならないからである。

ポメラの文章をQRコード化し、それを一旦メールとしてスマホに送るのであるが、QRコードにできる文字数には制約があって、ひとつの文章が何分割かされてしまうのである。

今回の文章も文字数は不明(新しい機種だと表示されるのか?)ながら8分割となってしまうので、これからもうひと仕事が待っているということである。



上の写真(最初のページ)と較べて欲しい。
最終ページにきて文字数が少ないとQRコードも単純な図形となる。なんだか面白い。

午後はシン・ゴジラ二回目の鑑賞、夜はコーラス・レッスンとなるので、アップできるのは明日かな? 気が向けば、早まるかもしれない。

追記
その後、もう少し楽なアップ方法を発見しました。QRコードを連続して読み込みながら文章を繋げ、そのままブログにアップする術を発見しました。
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ブルックナー: ミサ曲第2番ホ短調 オルガン・バージョン

2016-08-28 11:14:54 | コーラス、オーケストラ


本日は、これより大阪フィル合唱団とのブルックナー「ホ短調ミサ」稽古。約4時間にも及ぶレッスンとなりますが、ブルックナーに浸っているときほどの至福はないので、団員はともかく、自分にはいくら長くてもよいですね(笑)。

さて、今回は、オリジナルのウィンド・アンサンブルにはよらず、Prof.P. Goller(V.ゴラー教授)によるオルガン編曲版での演奏となります。このバージョンは、1917年にユニバーサル・エディションより刊行されました。

例によって、ホ短調ミサには、1866年の第1稿(交響曲第1番の頃)、1882年の第2稿(交響曲第6番の7番の間)が存在するのですが、このゴラー版は、困ったことに、この2つの折衷版なのです。数ヶ所に小節数の違いがあります。また、管楽器とオルガンの特性の違いによりオリジナルより動きの少ないアレンジとなっています。

ヴォーカル・スコアは、第2稿を用いますので、オルガン・パートをこちらに合わす必要がありますが、差異は大きなものではなく、問題はありません。

ミサ曲第3番は時々演奏され、ボクも朝比奈先生とホルスト・シュタイン指揮で歌った経験はありますが、第2番の実演は聴いたことがありません。

どんな響きとなるか楽しみなところ。

大阪クラシック初日
福島章恭指揮 大阪フィルハーモニー合唱団

日時・9月11日(日)13:00
会場・大阪市役所正面玄関ホール
オルガン・桑山彩子

無料公演です。
開場前にお並び頂くのは恐縮ですが、多くの方にお聴き頂けるのは幸いです。
皆様のご来場をお待ちしております。

※小澤征爾のつづき、今しばらくお待ちください。目の前の仕事と休養優先ということでご容赦のほど。
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長岡アマデウス合唱団発足!

2016-08-26 15:18:59 | コーラス、オーケストラ


ところで、去る8月17日(水)には長岡アマデウス合唱団が発足し、24日(水)には第2回目のレッスンが行われました。



演目は、モーツァルト「レクイエム」。
長岡リリックホール開館20周年を記念する市民公募型企画のひとつ。

来年3月5日(日)の本番に向け、25回ほどの練習を積んで臨みます。募集90名のところ、集まった団員は103名。

今回は、長岡リリックホール側からも「参加するだけでなく、高いクオリティを目指してください」との心強い声援を受け、この手の企画としては驚異的な出席率にて、熱気溢れるレッスンが展開されております。

コンサートホールでレッスン、しかもピアノはスタインウェイ(小山恵さん)とは贅沢の極み!

日時・2017年3月5日(日) 14:00開演
会場・長岡リリックホール

独唱にも信頼できる4人が集まってくれました。どんなに素敵なレコルダーレ、ベネディクトゥスとなるでしょうか?

ソプラノ: 高橋絵理
メゾ・ソプラノ: 山下牧子
テノール: 大槻孝志
バリトン: 山下浩司

前プロは、おなじくモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。純粋なオーケストラ作品を振るのは、あのブルックナー8番以来となります。

コンサートマスターに敬愛する崔文洙さんを迎える祝祭オーケストラとの共演も大いに楽しみなところ。




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無念の電池切れ

2016-08-26 14:47:27 | 日記


東京に向かう新幹線車中、小澤征爾の続編を執筆していたところ、我がポメラ DM20Yが無念の電池切れ。
けっこう筆が乗ってたので惜しい。

eneloopを持参すべきだった。
最近の機種ならUSB給電できるのかな?

というわけで、読書タイムに切り替えていこう。
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日本人音楽家として最上の円熟! 小澤征爾&サイトウキネンのベートーヴェン「7番」(その2)

2016-08-25 10:34:54 | コンサート

 8月22日は、サイトウキネン・オーケストラAプログラム、即ち、前半にファビオ・ルイージがオネゲル:交響曲第3番「典礼風」を振り、後半を小澤征爾がベートーヴェン:交響曲第7番を振るというコンサートの第2夜である。周知の通り、いま、小澤征爾はひとつのコンサートを振り通すだけの体力を持ち合わせていない。それどころか、当初発表されていたブラームスの第4交響曲ですら負担が大きいということでベートーヴェンに変更になったほどである。初日であった18日のコンサートにも「果たして登場できるか?」との心配の声もあったと聞く。

 コンサート前半のオネゲルは、第二次世界大戦の悲惨が描かれ、平和への痛切な祈りの込められた作品だが、この作品がいま選ばれた意味は小さくなかろう。
 ファビオ・ルイージの指揮は、そうした凄惨と祈りを余すことなく描ききる。応えるオーケストラの音楽性、能力、共感は申し分なく、オネゲルが書き上
げた精緻な音の設計図が透けるように見えるばかりでなく、そこに熱い血が通っていた。

 いよいよ後半。小澤征爾は、初日と同じくオーケストラの楽員と一緒に登場する。指揮台には背もたれのないピアノ椅子風のベンチが置かれ、さらに指揮台の右手、ヴィオラ・セクションの前にパイプ椅子が置かれているのは、演奏前のチューニングの間、そして楽章間に小澤が休むためのものである。
 演奏の美しさ、神々しさはどうだったであろう。
 第1楽章序奏から、その音の軽やかさ、自由さは現実離れしており、小澤征爾はすでに解脱の境地になるのではと思わせた。肉体が不自由になったからこその精神の無限なる自由とでも呼ぶべきなのか。

 二十余年昔の我が桐朋学園時代、遠山一行先生がその講義の中で仰られた言葉を思い出す。
「小澤征爾が巨匠と呼ばれる指揮者になるか否か、それは我が国の音楽界の将来にとって、きわめて重要なことです」(つづく)
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先手必勝!? 1日前倒しでの松本入り

2016-08-21 22:54:52 | コンサート


さて、小澤征爾のベートーヴェンについて、つづき(その2)を書く暇もなく、東京~厚木~大阪~厚木とコーラスのレッスンを渡り歩いております。

今宵は帰宅する予定だったのですが、台風の進路を見越して、1日前倒しで松本に入りました。

明日、小澤征爾による2回目のベートーヴェン7番を聴きます。前回は1階席20列目左寄り、今回は2階席6列目左寄りということで、演奏の違いはもちろん、座席の違いによる音響の違いにも興味津々です。

鉄道の運行情報をみると、明日は午前9時以降の「あずさ」「スーパーあずさ」は運休が決定。この松本入り前倒しは英断だったかも知れません。

数年前、台風によって、品川駅に7時間足止めだった苦い経験が生きました。激しい風雨に電車は無力であることを覚りましたので。





あずさの車窓より美しい空(大月駅の手前)も眺められたのもラッキーでした。

明日、東京方面よりこちらにお見えになる方のためには、早朝の電車の動くことをお祈りしております。

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日本人音楽家として最上の円熟! 小澤征爾&サイトウキネンのベートーヴェン「7番」(その1)

2016-08-19 02:32:37 | コンサート


「おや、どうしてここにいらっしゃるの?」
中野雄さんが、目を丸くして驚かれた。サイトウキネン・オーケストラAプログラムの前半、ファビオ・ルイジ指揮のオネゲル「典礼風」を終え、小澤征爾指揮のベートーヴェン「7番」を待つキッセイ文化ホールのロビーでのことである。

文春新書「クラシックCDの名盤」シリーズで、小澤征爾を評価してこなかったわたしが、ここに居ることをよほど不思議に思われたようだ。

たしかに、ウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートの頃やサイトウキネン初期の我が小澤征爾評は、主に呼吸の浅さによって極めて低いものであったし、たまたまウィーン滞在中に聴いたウィーン国立歌劇場公演も音楽が几帳面すぎて感動には遠いものであった。

しかし、昨年、テレビで観たベートーヴェン「合唱幻想曲」は、わが小澤征爾像を覆すものであった。これは、是非とも生で体験せねばならない、と思ったのである。

♪・・と、ここまで書いたけれど、リオ・オリンピック、女子バドミントン・ダブルス観戦に集中するため、つづきは明日以降に譲ります。
♪祝! タカマツ・ペア金メダル獲得。絶体絶命を跳ね返す精神力に脱帽です。

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マエストロとの思い出がまたひとつ ~ テレビ放映も有り!

2016-08-12 23:31:17 | コーラス、オーケストラ

井上道義先生のブログに、先月の大阪フィル第500回定期演奏会の記事が載りましたので、ここに転載します。

井上先生とは、富士市でのベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」にはじまり、札幌、兵庫での「ミサ・ソレムニス」、

倉敷でのハイドン「四季」や、愛知マーラー音楽祭での「千人の交響曲」など、数々の美しい思い出がありますが、

今回のバカロフ「ミサ・タンゴ」も、終生忘れることのできない演奏会となったと思われます。

来る9月18日(日)21時には、NHK Eテレの「クラシック音楽館」にて、演奏会丸ごとが放映される予定。

全日本合唱コンクール中国大会当日のため、その時間帯は帰宅途中かな・・・。

あとで録画にて観ることとなりますが、大いに楽しみであります。

追記

ただひとつ。大阪=ラテン系というのは、マエストロの思い込みのような気がしてならない(笑)。

【道義より】
大阪フィル 第500回定期演奏会
2016.07.22 大阪 フェスティバルホール

 
お盆の時期の今まで時間がなかったがやっと書きます。
 
ミサタンゴは以前グリーンエコーで振り新日でも振りましたが、今回はソリストに、母国語の人を呼び(CDはドミンゴがテナー用に出来ていない楽譜をうまい事変更したものが出ているが)バリトンはベネズエラ、メゾはスペインから来てもらった。(このコンサートのためだけに!)
 
大きなホールであるからこれはもう絶対に必要、そしてメロンガや、タンゴ、言葉などか体に染みついていないと面白くならない作品だから。
 
合唱は、福島君が(自分はダンスが出来ない...そういうの弱いんだなあ・・・と言いながら)コーラスを彼流の変わった方法で、本当に素晴らしい次元まで持ち上げてくれた。
 
何せ井上は今や声が自由に出ない指揮者になってしまっているから本当に悔しい、かゆい背中に手が届かない状態での公演。
おかげでよくいってくれた。
 
大阪=ラテン圏!が証明された演奏!!
 
エロイカはアンサンブル金沢でやる事もあるが、明らかにその時とは別な人格をモデル(相手)にしてのアポロ像の彫刻の趣き。
 
やり甲斐があったが、管楽器奏者にアシを吹く場所の指定など細かくしたが、幸い彼らは気持ちよくやってくれたように思う。フェスティバルホールでのエロイカやベートーベンはコンサートグランドピアノでのピアノ演奏と同じで作曲の時代の響きをほんの少し思い起こすことさえあるものの、基本は「大きなもの」「圧倒的なもの」への志向を、明確に出したつもりだ。
 
あの演奏はCDにしても意味がないかもしれない。
500回を第一回の初めから聞いていたファンのお客さんも来ていたあの日のフェスティバルホールでの一期一会あったからこそ、舞い降りたと思う時間だった。
 
 
終わってからの平松でのタンゴパーティーは僕からの今までの思い出の感謝のしるし!昔のメンバーもたくさん来てくれて再会をし、楽しく踊ったのだった。
 
 
僕が将来昇天したときにこの三点セットはきっと憶えていてくれる。
 
 
http://www.michiyoshi-inoue.com/2016/07/_500_1.html#blog

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