福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

無事、帰宅致しました!

2019-06-27 13:51:43 | コーラス、オーケストラ


昨日は羽田より9月8日(日)に定期演奏会を控えた長岡混声合唱団に直行。熱いレッスンを経て、ただいま無事帰宅しました。

以下、この演奏会をマネージメントしてくださったエムセックインターナショナルさんの岩本様のFacebook記事を転載し、旅の概要のご報告と致します。ちなみに、わたしは、このツアーよりも4日早くベルリン入りし、4日長くハンブルクに滞在致しました。

ベルリン・フィルハーモニーでの素晴らしい本番はもちろん、意義深い旅となりました。お世話になった関係者の皆様、また、長き留守をお許しくださった各合唱団の皆様、有り難うございました。



『8日間のドイツ(ベルリン、ハンブルク)ツアー添乗を終え、今朝無事に帰国しました。

6/18にベルリンフィルハーモニーホールで開催したブラームス 「ドイツ・レクイエム」特別平和記念コンサートは、満員の観客からのスタンディングオベーションを受け、大成功にて終演しました。
これまでに国内練習会、実に47回!
長い時間を共有させて頂きましたヴェリタス・クワイヤ・ジャパンの皆様と、その集大成を2月の東京サントリーホールでの本番に続き、ベルリンの地でも発揮することができ、とても感慨深い感動的な舞台となりました。

指揮者の福島章恭先生をはじめ、名古屋でご指導頂き、ツアーにもご同行下さいました中村貴志先生、大阪でご指導下さいました眞木喜規先生、北爪かおり先生、ピアニスト小沢さち先生、Veritas Choir Japan の皆様、現地でお手伝い頂きました合唱団の皆様、応援でご参加下さいました皆様、素晴らしいソリストにベルリン交響楽団メンバー、現地でサポート下さった寺崎様、ガイドさんやスタッフの皆様、全ての関係者の皆様に心からの感謝と御礼を申し上げます。
ベルリンでの本番の後は、ブラームス生誕地ハンブルクに2日間滞在し、リューベックにも足を伸ばし、皆様と楽しい時間を共有させて頂きました。

ツアー中の集合写真をアップさせて頂きますので、ご自由にシェア下さい。

また皆様とお会いできる日を楽しみにしております🎵
ありがとうございました💕』

















さらばハンブルク! また逢う日まで

2019-06-25 11:00:19 | コーラス、オーケストラ


ハンブルク最後の朝餉。
このおばちゃんの焼いてくれたオムレツが絶妙の美味でした。

今後、エルプフィルハーモニーのチケットが正規のルートで確実に取れるようになって、ジョン・ノイマイヤーのバレエ公演があって、さらにライスハレで良い演奏会のあるならば、是非とも再訪したい街。
ショッピング街は、洋服屋ばかりで、あまり楽しめず、当てにしていた楽譜店は閉業。ただ一軒のレコード屋は、品揃えは少ない(メインがロック、ジャズ)ものの、ドイツ・グラモフォン初期盤が格安など当たりでした。





今回、エムセック・インターナショナルの取ってくださったクラウン・プラザ・ハンブルク、エントランス階が工事中なのは残念でしたが、部屋、朝食ともに満足。次に訪れる機会のあることを切に祈ります。



これよりミュンヘン経由で羽田へ。
空港カウンターががら空き、ひとりの待ちもなかったため、ボーディングタイムの2時間も前に搭乗口に到着。免税店で余分な買い物しないよう、大人しくしているところ。

シャルル・デュトワ ドイツ復帰公演「兵士の物語」

2019-06-24 23:06:40 | コンサート


ハンブルク最後の夜は、再びライスハレへ。
マルタ・アルゲリッチ音楽祭よりデュトワ指揮のストラヴィンスキー「兵士の物語」を聴くため。休憩前には、アルゲリッチによるバッハのパルティータ2番というのは嬉しいカップリング。



結論から言うと、前半アルゲリッチのバッハが神品だった。1曲目シンフォニア、グラーヴェ・アダージョは、まるで、ロ短調ミサ、キリエの冒頭のように峻厳にそそり立つ音。つづくアンダンテは、上行音型がまさに天を駆け昇る。
アルゲリッチは、まるで孤高の聖女のようであった。昨夜のプロコフィエフで、カンブルランのつくる枠の内外を行き来していたとするなら、今宵のアルゲリッチの魂は、もはや天上世界にあったと言ってよいだろう。
融通無碍のロンドーから躍動する終曲カプリッチョへ移行する際の間のよさなど、まさに天才の業であった。



後半の「兵士の物語」は、シャルル・デュトワが指揮をし、アルゲリッチとの娘アニー・デュトワが語りを務めるという趣向。兵士と悪魔の1人2役は、ルイージ・マイオ。

ルイージ・マイオは、たいへんな達者な役者だが、フランス語の上演で字幕がなかったせいか、客の反応は(哀れなわたしを含め)今ひとつ。途中退席する客も10人以上はあったか?

アニー・デュトワは決して器用な役者とは言えなかったが、それよりも問題は、2人がマイクを利用していたこと。舞台間口の上方ど真ん中に吊されたPAスピーカーは、恐らくは会場のアナウンス用のもので芝居に使うには質的に物足りない。2人が舞台のどこに居ても、いつも同じ場所から聞こえてくるため遠近感が生まれないし、如何にも電気的に増幅されたという台詞が、しかも大きめのボリュームで耳に痛く響いたのだ。

ライスハレはそんなに広い空間的ではないし、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのような巨大なオーケストラと対峙するでもなし、さらには音楽なしの台詞だけの時間が長いので、マイクは不要だったのではないだろうか?

ルイージ・マイオの声は間違いなく立派だったことから、アニー・デュトワの発声をカバーするための措置なのか? 或いは、音楽ホールの豊かな残響に台詞の明晰さが奪われることを避けたのか? その2つくらいしか、わたしには思いつかない。

肝心の音楽は、もちろん良かったけれど、ヴァイオリン、コントラバス、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーン、打楽器という7人だけの室内楽編成ゆえ、大フィルとの「サロメ」や幻想交響曲で見せた「デュトワならでは」というゾクゾクする瞬間には出逢えなかったのは仕方なかろう。

なお、第2部後半、3つの舞曲でバレエを披露したのは、YUKI KISHIMOTOという日本人ダンサー(お名前の漢字が分からずスミマセン)。これが見事。その健康的なエロスで観客の心を惹き付けていたことは嬉しかった。



ところで、本公演はシャルル・デュトワのドイツ復帰演奏会、しかも、旧夫婦とその娘の共演ということで、もっと注目を浴びてもよい筈だが、客席には空席が目立った。2階席だけ見ても3分の1も入っていなかったのでは? 宣伝が足りていないのか? マスコミが敢えて採り上げないのか? 音楽を聴く市民の絶対数が少ないのか? 或いはほかの要因か? 
エルプフィルハーモニーの連日の狂ったような盛況を思うと淋しいことである。



ところで、曲が終わると、わたしの左方向から「ブラヴォー」と女性の声が上がった。なんとアルゲリッチそのひと。どうやら、わたしの4つか5つ隣の座席に居たらしい。うーん、あと数席左の座席を買っておくんだった(笑)。

まあ、PA含め、いろいろ不服のある公演だったが、アルゲリッチがあんなに歓んでいたなら、それで良しとするか。

アルゲリッチ&カンブルランのプロコフィエフ第3!

2019-06-24 10:10:56 | コンサート
エルプフィルハーモニー前のタクシー乗り場に急いだものの、目の前で2台が行ってしまった。しかし、徒歩+バスよりは早かろうと佇んでいると、5分ほど待ってようやくタクシーの影が! いざ、乗ろうと手を上げると、たった今、やってきた二人組ご婦人が、図々しくも割って入ってきて乗り込もうとしたので、心ならずも蹴散らしたことは既に書いたとおり(笑)。まったく油断がならない(先にグイッとタクシーのドアノブを掴んだだけ。念のため)。



ヨハネス・ブラームス・プラッツに建つライスハレは、所謂ヨーロッパの伝統的な音楽ホール。現代の科学と技術の粋を尽くしたエルプフィルハーモニーを生涯最高のホールと讃えたばかりの口で言うのも変だが、こういう昔ながらの木のホールに入るとホッとするのも事実である。



マルタ・アルゲリッチ音楽祭からの1公演で、カンブルラン指揮ハンブルク響によるヴェーベルンのパッサカリア、アルゲリッチ独奏によるプロコフィエフの第3協奏曲、休憩を挟んでチャイコフスキーの第5という魅惑のプログラムだ。



座席はここ。
背もたれに背を付けると、舞台の上手半分は見えなくなる。やや身を乗り出しても3分の1は隠れる。当地では、身を乗り出す御仁が少なくなく、わたしの両隣が豪快に身を乗り出してくれたので、わたしも控え目に乗り出して聴くのに躊躇はなかった。時々、右隣の男性が、メロディーを一緒に歌い出すのには辟易したが(笑)。

第1曲、極上のヴェーベルンを耳にして、ああ、間に合って本当によかった、と思った。

なんという精緻にして、魅惑の音楽であり、演奏であったか。それでいて、頭で考えた冷たい音楽とは無縁。ケント・ナガノの力に任せた演奏の後だけに、わたしには、その優美さ、高貴さが際立って聴こえた。そう、音楽には気品というものが必要なのだ。どんなに激しいときも、どんなに弾けるときも、どんな苦渋のときにも下品であってはならない。

カンブルランは何度か聴いていてもおかしくない存在なのだが、ついに日本で聴く機会を持っていない。どうもわたしの日程と読響のコンサート・スケジュールの相性が悪いらしく、ワーグナー「トリスタン」もメシアン「アッシジの聖フランシスコ」も涙を呑んだのだ。しかし、このヴェーベルンによる出逢いは最高だった。

つづいては、アルゲリッチとのプロコフィエフ。恥ずかしながら、生のアルゲリッチは40年近く昔(正しくはあとから調べます)、小澤征爾指揮の新日フィル定期でチャイコフスキーの第1協奏曲を聴いて以来。あのときは、ボヤボヤしないで着いて来なさいよ、とばかり自由奔放なアルゲリッチに、指揮もオーケストラも翻弄されっぱなしだったのを微笑ましく思い出す。

今回のアルゲリッチも自由ではあるのだけど、その加減が絶妙であった。つまり、カンブルランの描く枠の内でもなく外でもなく、ギリギリの線を出たり入ったり、そのスリリングさが堪らない。技巧は冴え渡り、音色も輝かしく、パッションも一流となれば、終演後の聴衆の熱狂も頷けよう。拍手、歓声、足踏みなど、ライスハレに地鳴りが起こったような騒ぎ。因みに第1楽章終了時にも拍手はあったが、それは聴衆がマナーを知らないというより、コーダ以降の目眩く鮮やかさと興奮に思わず拍手してしまった、という極めて自然な流れに感じられた。



チャイコフスキーの第5も素晴らしいものであった。カンブルランの醸し出す高貴の香りがチャイコフスキーによく似合うのだ。どこまでもコントロールされながら自由を失わないオーケストラ。歌心も満点だ。第1楽章こそ、もう少し緩急を付けた方が効果的ではないかと思う場面もインテンポで通り抜けたが、第2楽章以降はルバートの悉くが自然で美しく、フィナーレのコーダの輝かしさも申し分なし。



6月23日(日)に聴いたハンブルクの3つのオーケストラでは、NDRエルプフィルの実力が頭抜けているのは明白だが、ハンブルク響も相当に高いレベルにあった。とにかく音楽的。残念ながらケント・ナガノ率いるハンブルク・フィルはかなり遅れをとる。

もしかすると、そこがエルプフィルハーモニーというホールの恐ろしいところかも知れない。良いものはそのままに、悪いものもそのままに客席に伝える、という・・。

さて、ただいま6月24日午前10時過ぎ。今宵、マルタ・アルゲリッチ音楽祭よりシャルル・デュトワ指揮のストラヴィンスキー「兵士の物語」他が、我がドイツ・レクイエム旅の締めとなる。開演まで10時間弱、荷造りや買い物などしながら、ノンビリ過ごすとしよう。

第2ラウンド ケント・ナガノのブルックナー9番

2019-06-24 02:04:27 | コンサート
エッシェンバッハ&エルプフィルの終演が13時半頃。ケント・ナガノ&ハンブルク・フィル開演まで2時間半、何をしよう? 



まずは運河沿いのベンチに座ってノンビリ釣人を眺める。風が気持ちよく、このまま15時くらいまでノンビリ過ごしても良かったのだが、ハンブルク響終演後、タクシー乗り場に行列が出来ていたときのため、バス停まで下見に行くことにした。Googleマップによると950メートル、徒歩14分とある。もし道に迷ったりしたら命取りだ。





しかし、これが心楽しい散歩だった。運河そのものも美しいし、こんな橋を渡るのだって嬉しい。





ひとりの幸せ。もし誰か知人に声を掛けられ、現実に引き戻されたら台無しだ。万一、知ってる顔を見掛けたら、物影に隠れて過ぎるのを待つか、急いで人混みに紛れることにしよう。





バス停までは普通に歩いて10分、急げば1~2分詰められるかな? 途中、ニコライ教会にも挨拶できて良かった。

さて、エルプフィルハーモニーに戻ると、入口からホールロビーまで、スマホで動画撮影。このblogには動画が直に貼れない仕組みになっているので、興味のある方はFacebookを覗いて欲しい。







小腹が空いていたので、エルプフィル内のカフェで地元のケーキから林檎ケーキを選んで食べる。余分な味付けのないシンプルさを舌が喜び、十分に昼食変わりになるサイズでお腹も満足。



と、前置きを長々と書いているのには理由がある。

演奏が良くなかったのだ。
否、前半のメシアン「世の終わりのための四重奏曲」(ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ピアノのための)は、瞑想的な美に貫かれ、素晴らしかった。チェロがヴィブラートに頼り過ぎなければなお良かったけど、60分弱という長丁場、4人の奏者は時間と空間を完全に支配、まったく緊張の糸の切れる瞬間はなかったのである。ただ、クラリネットの最弱音によるモノローグの最中に、平戸間客のスマホの呼び出し音の鳴ってしまったのは残念だったが・・。



なお、わたしの座席はサントリーホールで言えば、RAブロックのかなりP席寄りであったが、特に内田光子が選定したというスタインウェイが玉のように美しく響いてきた。サントリーホールのこの位置では考えられないほど、明晰で、生命力があったのである。ここで、誰かのピアノリサイタルを聴いてみたいと思わせたものである。



休憩後、目を付けていた平戸間後方の空席に移り、ケント・ナガノの登場を待った。

聴く前には、「ブルックナーはいくら聴いても疲れない」と豪語していたわたしも、ケント・ナガノのブルックナーにはお手上げだった。

まず、その音楽づくり、というかケント・ナガノの指揮が神経質なこと。さらには、オケの自発性を尊重するよりは従わせるタイプの指揮で音楽が生きていないこと。テューバやティンパニを筆頭にフォルテが下品なほどにうるさい。さらに、ブルックナーの命であるゲネラル・パウゼで何も感じないまま、先を急いでしまう、等々。

指揮そのものにも疑問があった。第1楽章後半、2つ振りか、4つ振りか、迷った場面でアンサンブルが崩壊しかけたことなど、それはただの事故だからよいけれど、フォルテのたびに見せるケント・ナガノの尋常でない力みが、オーケストラに悪影響を与えてしまっているのは根源的な問題だ。

大好きなブルックナーなのに、最初から最後まで、ただの1小節も美しいと感じる場面がなかったのだから恐れ入る。エッシェンバッハの思い出で終わりにしておけばよかった、と言っても後の祭。それも実際に聴いてみなければ、分からなかったことだと自らを慰めているところ。



最後のホルンの響きが消えるや否や、拍手は省略してタクシー乗り場に直行。果たして、ハンブルク響の開演に間に合うのか?

第1ラウンド エッシェンバッハの「ロマンティック」再び

2019-06-23 23:10:02 | コンサート


ほぼ諦めていた本日のエッシェンバッハ&エルプフィルのブルックナー「ロマンティック」のチケットが正規ルートで手に入った! 暇さえあれば、スマホでチェックしていたところ、昨夜10時過ぎにヒットしたのである。何事も諦めてはいけない。

というわけで、2019年6月23日(日)は、演奏会のトリプルヘッダーということになった。我ながら濃い1日であったなぁ。

第1ラウンド
11:00 エルプフィルハーモニー
エッシェンバッハ&NDRエルプフィル 
ショスタコーヴィチ: チェロ協奏曲第1番 
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」

第2ラウンド
16:00 エルプフィルハーモニー
ケント・ナガノ& ハンブルク・フィル
メシアン: 世の終わりのための四重奏曲
ブルックナー: 交響曲第9番

第3ラウンド
19:00 ライスハレ
カンブルラン指揮 ハンブルク響
ヴェーベルン: パッサカリア
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
マルタ・アルゲリッチ pf
チャイコフスキー: 交響曲第5番

ケント・ナガノの終演予定は18時35分でハンブルク響の開演まで僅か25分。間に合わない可能性もありヒヤヒヤしたが、タクシー乗り場で横入りしようとするご婦人二人組より先にドアノブを掴んで乗り込み、ギリギリセーフとなった(笑)。気迫の勝利。当地では、タクシー乗り場であろうとドリンクカウンターであろうと、真面目に並んでいると、どんどん順番を抜かれるので、ある程度、強硬突破しなくてはならないことを覚えたのである(平時なら、少々お譲りしますが、本日ばかりはご容赦あれ)。



本日の座席は写真のご婦人が座ろうとしている右隣である。15階Kブロック3列目5番ということになる。クルレンツィスを聴いたのが同じブロックの2列目28番ということで、このブロックの最も上手寄り(ステージに向かって右)、しかも、やや屋根の被っていたところなので、本日の方が好条件であった。さらには、2列目までは前方の柵が視界の邪魔になるので、3列目はベストかも知れない。



エッシェンバッハ指揮NDRエルプフィルの演奏については先日絶讃したばかりだが、本日も大いに感動した。とにかくブルックナーの音楽にどっぷり浸れる至福、これに勝るものはないのだ。

平戸間の前から2列目と実質4階席では、当然ながら聴こえ方は違う。前者では、弦の囁きが美しかった。さらに、どんなに金管群が咆哮しているときでも第1ヴァイオリンの音型がすべて聴きとれる稀有の歓びをも味わったが、後者では細かな音型は音の塊となってしまう。その見返りとして、全体のバランスの美しさ、木管および金管群の存在感が増し、響きの法悦感が倍増する。

特に印象に残ったのはホルン。
前半のショスタコーヴィチでも、その驚異的なソロを披露したクラクディア・シュトレンカートの音をどうお伝えしたらよいのか?
その音の分厚さ、深さ、輝き、歌心など、いくら誉めても、まったく足りそうにない。恐るべきホルン奏者であり、その凄さを思い知らされたのは本日の座席である。



ただひとつだけ残念だったのは、わたしの左の方向から、補聴器のハウリングする音が絶えず漏れていたことである。休憩後に少しは止むことを期待したが、ブルックナーの前半は絶好調だったようで、その持続する電子音を意識から遠ざけるには相当なエネルギーが必要だった。音響の良いホールだけに、客席のノイズもよく響いてしまうのだ。

因みに、エルプフィルハーモニーでは、開演前にスマホの電源を落とせ等のアナウンスは全くない・・。

と書いて、いま思い出した!

ショスタコーヴィチをはじめるべくエッシェンバッハがタクトを掲げようとしたとき、16階の左サイドよりスマホの着信音が盛大に鳴り響いた。怪訝な顔をして振り向くマエストロ。とそのとき、ピッコロ氏がその音型を真似て吹いてみせた。なんたる妙技! 満場の拍手喝采に、殺伐としかけたホールの空気が緩んだ。ふと心和む瞬間であった。






ハンブルクで出逢ったレコード Vol.2 その他編

2019-06-22 10:45:53 | レコード、オーディオ


ベートーヴェン ヴィオリン・ソナタ#5「春」,#7
エリカ・モリーニ vn, ルドルフ・フィルクスニーpf 米Decca




ベートーヴェン ヴィオリン・ソナタ#5「春」,#9「クロイツェル」
ヘンリク・シェリングvn, アルトゥール・ルービンシュタインpf 仏RCA mono



モーツァルト ヴィオリン・ソナタ集
K.301 K.304 K.378 K.379
ナップ・デ・クライン vn, アリス・ヘクシュ fp (アムステルダム・デュオ)
蘭Philips mono




チャイコフスキー「悲愴」
シャルル・ミュンシュ&パリ音楽院管
独Decca mono



バッハ フーガの技法
ピーナ・カルミレッリ、マリア・フュレプ vn, フィリップ・ネゲーレ va, フィリップ・ムラー vc
独SASTRUPHON



NDR自主制作LP 1987
メンデルスゾーン ヴィオリン協奏曲
 ヴィクトル・トレチャコフ vn
 ジャンルイジ・ジェレメッティ指揮
NDR交響楽団
バーバー 序曲「悪口先生」
R.シュトラウス 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」
ロリン・マゼール指揮
NDR交響楽団



NDR自主制作LP 1989
J.C.バッハ、J.S.バッハ、ブラームス
およびクリスマスの歌 
マティアス・ヤンツ&NDR合唱団



ゲヴァントハウス・オープニングコンサート
ティーレ 「太陽への讃歌」
ベートーヴェン 交響曲第9番
クルト・マズア指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管
モーザー S, ラング A, シュライヤー T, アダム B
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス児童合唱団(合唱指揮:ドルシュナー)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス合唱団(合唱指揮: ビラー)
トーマス教会合唱団(合唱指揮: ロッチュ)
ライプツィヒ放送合唱団(合唱指揮: ヴィーグレ) ほか
旧東独ETERNA












クルレンツィス 狂熱の「レニングラード」@エルプフィルハーモニー

2019-06-21 23:20:01 | コンサート


二夜つづけてのエルプフィルハーモニー詣でとなった。



今宵の演目は、ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番「レニングラード」。テオドール・クルレンツィス指揮南西ドイツ放送交響楽団による来演である。しかし、これがはじめてのエルプフィルハーモニー公演ではなく、少なくとも昨年12月にも公演はあった。なぜそれを知っているかというと、誤って昨年12月のチケットを予約してしまって、お金も切符もふいにしてしまったという苦い記憶があるからだ。



今宵の座席は、15階のKというブロックの前から二列目。もちろん、ホールそのものが15階席まであるわけではない。昨夜聴いた平戸間が12階、つまり、このビルそのものの階が客席にも採用されている、ということに今日気付いた次第。

実質4階席で聴くこのホールの音響は、やはり素晴らしいものがあった。バランスだけをとれば、平戸間前方を凌駕していたと言ってよいだろう。



上から見下ろしながら感じたことは、このホールはまるでベーゼンドルファーだなぁ、ということ。つまり、エルプフィルハーモニーのステージ床と壁が、あたかも、ベーゼンドルファーの共鳴板と木枠のような役割を果たし、ステージ上の演奏を深く、そして暖かく包んでいたのである。オーケストラがどんなに大音量になっても飽和せず、混濁もしない懐の深さはこのホールの大きな魅力と言えるだろう。



クルレンツィスは、紛うことなき天才である。今年のはじめ、ムジカエテルナを率いての来日公演では賛否が分かれたものだが、今宵の演奏はもっと好みを超えた普遍性のあるものだと思う。

ひとつには、オーケストラが南西ドイツ放送交響楽団であること。ムジカエテルナのサークル的、同人的な在り方に較べ、南西ドイツ放響は、オーケストラとしてのポテンシャルが比較にならないくらい高いところにある。

ドイツのオーケストラらしい重厚な響きと揺るぎないアンサンブルの上で、クルレンツィスの狂気が展開されるのであるから、それはそれは凄まじい世界が現れるのだ。

第1楽章、スネアドラムに始まる展開部冒頭の究極の弱音は、ムジカエテルナとのチャイコフスキーを思い出させたが、緊張の持続、精神の高揚、そしてあらゆる抑圧から解放されんとしたとき、それまで座して演奏していた全プレイヤーが立奏に移って聴衆の度胆を抜いた(もちろん、チェロ、テューバなどは除く)。その只ならぬ高揚は祭における群衆の、例えば火を囲んで何かに憑かれたように踊り狂う人々の熱狂すら思い出させた。
その後も音楽に応じ、木管だけが立つ場面、金管だけが立つ場面、あるソロ楽器のみが立つ場合、そして全員が立つ場面が様々に組み合わされてゆくのだが、これが視覚的にも、音楽的にも抜群の効果を上げる。

即ち、立奏するプレイヤー全員がコンチェルトのソリストのように大きな身体の動きや表現の幅を見せるばかりでなく、音の発する位置が高くなるので、明らかにその楽器やセクションの音色が変わるのである。まるで、オルガンのストップを替えるような効果は目眩くばかり。かといって、表現に溺れた造型の崩れなどは一昨年なく、実に堂々としたショスタコーヴィチであった。決して、際物と呼ぶべきものではない。



終演後の聴衆の熱狂も桁外れ。録画して皆さんにお見せしたかったくらい。

わたし自身は、ショスタコーヴィチの15の交響曲を眼前に積み上げられてもなお、ブルックナーの0番を選ぶブルックナー人間ゆえ、感動の大きさは昨夜のエッシェンバッハにあったが、クルレンツィスが本物であることを確認することができたことは喜びたい。



ただ、クルレンツィスのような狂熱の演奏こそ、直接音やプレイヤーの息遣いの聴こえる平戸間で聴き、その直中に1人の当事者として身を置くべきだったかも知れない。チケットを取れただけでも御の字、座席を選ぶ余裕などまるでなかったから、仕方のないことなのだけれど。

ハンブルクで出逢ったレコード Vol.1 ドイツ・グラモフォン編

2019-06-21 16:53:44 | レコード、オーディオ


バルトーク 管弦楽のための協奏曲
カラヤン&ベルリン・フィル



チャイコフスキー「悲愴」
カラヤン&ベルリン・フィル



ベートーヴェン歌曲集「遥かな恋人役へ」「アデライーデ」
フィッシャー=ディースカウ&イェルク・デームス



ベートーヴェン 七重奏曲
ベルリン七重奏団



シューマン「ライン」、「マンフレット」序曲
クーベリック&ベルリン・フィル



メンデルスゾーン 「イタリア」「宗教改革」
マゼール&ベルリン・フィル



シューベルト 「悲劇的」「未完成」
マゼール&ベルリン・フィル



ベートーヴェン ディアベリ変奏曲
ゲザ・アンダ pf



シューマン 「ダヴィッド同盟舞曲集」「クライスレリアーナ」
ゲザ・アンダ pf



シューベルト ふたつの即興曲集
ヴィルヘルム・ケンプ pf



キーンツル 歌劇「宣教師」
ホルスト・シュタイン&バイエルン放送響、合唱団ほか








南西ドイツ放送交響楽団御一行様

2019-06-21 16:25:02 | コーラス、オーケストラ


買い物を兼ねた散歩からホテルに戻ってツアーデスクを眺めてビックリ。

今朝、ヴェリタス・クワイヤ・ジャパンの皆さんをお見送りしたと思ったら、入れ替わりに今宵、エルプフィルハーモニーで演奏する南西ドイツ放送交響楽団のご一行がやってきました。

指揮者のクルレンツィスは、別の宿だろうか? 同じなのだろうか?