福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

カリニャーニ&読響のヴェルディ「レクイエム」

2014-06-12 21:20:49 | コンサート


知人に刺激され、数日前、急遽チケットを入手。その時点で残席が10枚にも満たなかったからギリギリセーフである。

今宵の演奏会は、図らずも、昨日逝去した読響名誉指揮者のラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの追悼演奏会ともなった。



読響は素晴らしいパフォーマンス。
弦もよく鳴って美しく、管のアンサンブルも良し。ほんとに気持ちよい。
新国立劇場合唱団(合唱指揮・三澤洋史)も、よく訓練されていて、特に終曲リベラ・メに於けるアカペラで、その能力の高さが証明されていた。

独唱陣で光っていたのはソプラノの並河寿美。リベラ・メでは、舞台下手後方に回っての歌唱であったが、これが正解で、水を得た魚のように自由で伸びやかな歌唱となった。
バスの妻屋秀和が安定した歌唱を聴かせた一方、テノールの岡田尚之がまさかの大乱調。声の不調というより、音が取れていない、勉強不足といった印象(まさか、そんなことはないと思うけれど)で、自らのソロばかりか、ソリストによるアンサンブルまでをも掻き乱していたのは罰金ものである。それとも、よほどの事情があったのか?

カリニャーニの指揮であるが、終演後の客席やオーケストラからの拍手も盛大だったところをみると、良い指揮だったのであろう。ディエス・イレ(怒りの日)の迫力も凄まじいものがあった。
ただ、個人的には、ヴェルディのスコアにある筈の光と影の対比(全体に影の不足)、暗い情念、痛切にして清らかな祈りのようなものが欲しいと思った。如何なものであろう?

ところで、最後の1音が消えてから、指揮者もオーケストラも静止画のように動きを止めるのは、余韻を味わうにはよいが、今宵は余りに長かった。同曲の上岡&新日本フィルのときも長かったが、最近の流行りなのか?

ブルゴス追悼のための黙祷、の意図だろうけれど、舞台上の全プレイヤーが楽器を構えたまま終止している図が何やら滑稽に思えてしまった。
黙祷と言うよりはポーズにみえてしまうのだ。
あの気まずいまでに緊張した沈黙の時間の中、いま誰かが放屁したらどうなるだろう? との想像をしていたのは、わたしだけであろうか(笑)?


追記
黙祷するなら、客席も全員起立して、ともにしたかったと思います。






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