今ニュース速報で知ったが大阪の小学校でまたしても忌まわしい惨劇が起こった
模様だ。
いつだったか忘れたが、PTAのお母さんたちがパトロールする模様がTVに
出ていた。たしか「お金のためではない」と言っていたと記憶するが、そんな
ものにお金を出していたとしたら問題だ。刃物をもっている男に立ち向かうには
きちんと月給や賞与を受け取り、老後の保障もされている公務員が責任を持って
当たるべきだ。
今事件があった学校ではどのような対策がとられていたか知らないが、とにかく
学校には残念ながら、
鉄条網を張り巡らすこともやむをえない
そして、必ず校門にも通用口にも必ず誰か目を向けるようにしておくべきだ。
公立の小学校にはそれぞれ事務員や用務員が何人かいるはずだ。この人たちの
仕事と言うのは実はそれほどきつくはないはずだ。公務員として身分が保障
されているこの人たちこそ学校の警備をすべきではないか。
学校の事務は先生や、教頭・校長、さらには教育委員会がやっている。
したがって、
本当は学校の事務員はそれほど忙しくはないはずで、この人たちが警備にまわっていればこんな惨劇が起きるはずがない
以前用務員の人の「先生方にお茶をくまされるのがいやだ」というような投書
を見たことがある。これもいやだと言うのだろうか。
学校では先生方にあまりにいろいろな負担が集中しすぎていると思う。
学校の事務員や用務員の方々には公務員としてできるだけ自分たちが
尊敬されるような取り組みをしてほしいものである。
模様だ。
いつだったか忘れたが、PTAのお母さんたちがパトロールする模様がTVに
出ていた。たしか「お金のためではない」と言っていたと記憶するが、そんな
ものにお金を出していたとしたら問題だ。刃物をもっている男に立ち向かうには
きちんと月給や賞与を受け取り、老後の保障もされている公務員が責任を持って
当たるべきだ。
今事件があった学校ではどのような対策がとられていたか知らないが、とにかく
学校には残念ながら、
鉄条網を張り巡らすこともやむをえない
そして、必ず校門にも通用口にも必ず誰か目を向けるようにしておくべきだ。
公立の小学校にはそれぞれ事務員や用務員が何人かいるはずだ。この人たちの
仕事と言うのは実はそれほどきつくはないはずだ。公務員として身分が保障
されているこの人たちこそ学校の警備をすべきではないか。
学校の事務は先生や、教頭・校長、さらには教育委員会がやっている。
したがって、
本当は学校の事務員はそれほど忙しくはないはずで、この人たちが警備にまわっていればこんな惨劇が起きるはずがない
以前用務員の人の「先生方にお茶をくまされるのがいやだ」というような投書
を見たことがある。これもいやだと言うのだろうか。
学校では先生方にあまりにいろいろな負担が集中しすぎていると思う。
学校の事務員や用務員の方々には公務員としてできるだけ自分たちが
尊敬されるような取り組みをしてほしいものである。
今日は外へ出たのがおそくなってしまい、いつもゆくサテンはしまりかかっていた
ので、おかわり自由のミス○に行って、先日ここに書いた大澤真幸の
『虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争』(ちくま新書)をほぼ
読み終えた。
自分などには到底理解できるしろものではないと言ってはそれまでで
あるが、いろいろと疑問を感じた。
まずなんと言っても、
引用が多すぎてどこに独自の主張があるのか分かりにくい
東大教授?の著書から自分の教え子?の卒論にいたるまで引用に次ぐ引用でそれを
まとめる著者の構想が見失われがちになりかねない。また、
「虚構の時代」という定義がどれぐらい新鮮味のあるものなのか著者の中で明白になっていないのではないか
ポスト・モダンに関する言及はあるものの、それとの異同がほとんど吟味されて
いない。
またいくつもの大きなテーマを次々に投げかけながら交わしてゆくようなところが
あり少なくとも私は知的興奮を覚えつつも、どこへもっていかれるのかという不安や
単にわざと難しい書き方をしているのではないかという脱力感、もしくは徒労感を
何度も感じた。
とにかく読む本を間違えたのかもしれない。サブカルチャーや宗教に興味がある人は
面白いかもしれないが、逆にそういう人には常識的なことばかりが書かれていると
感じるのではないか。結局のところ悪い意味で学術的なというか、不出来な
学生の無駄に長い論文を読まされたような感じがする
ので、おかわり自由のミス○に行って、先日ここに書いた大澤真幸の
『虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争』(ちくま新書)をほぼ
読み終えた。
自分などには到底理解できるしろものではないと言ってはそれまでで
あるが、いろいろと疑問を感じた。
まずなんと言っても、
引用が多すぎてどこに独自の主張があるのか分かりにくい
東大教授?の著書から自分の教え子?の卒論にいたるまで引用に次ぐ引用でそれを
まとめる著者の構想が見失われがちになりかねない。また、
「虚構の時代」という定義がどれぐらい新鮮味のあるものなのか著者の中で明白になっていないのではないか
ポスト・モダンに関する言及はあるものの、それとの異同がほとんど吟味されて
いない。
またいくつもの大きなテーマを次々に投げかけながら交わしてゆくようなところが
あり少なくとも私は知的興奮を覚えつつも、どこへもっていかれるのかという不安や
単にわざと難しい書き方をしているのではないかという脱力感、もしくは徒労感を
何度も感じた。
とにかく読む本を間違えたのかもしれない。サブカルチャーや宗教に興味がある人は
面白いかもしれないが、逆にそういう人には常識的なことばかりが書かれていると
感じるのではないか。結局のところ悪い意味で学術的なというか、不出来な
学生の無駄に長い論文を読まされたような感じがする