SNS(ソーシャルネットワークサービス)というのがあって、これはコミュニティなどとも呼ばれるようだ。これはどういうものであるのかいろいろ説明の仕方があるかも知れないが、その特徴の一つとしては、同窓会的な集まりが可能だということではないだろうか。
実はこうしたことに関して、アメリカでは同窓会というより今現在所属している大学で同じ授業をとっているものたちがこうしたものを通じて交流を深めるという例が結構あるらしいということを以前ここで書いた。
日本ではどうだろう。自分はよく分からないが、FrienMap いってもしょうがないですがこちら や、gocooこれもいっても仕方ないですがこちらは閉鎖しているところを見るとそれほどSNS全体がうまくいっているとは思えない。
mixiなど少ないものが生き残っているという感じだろうか。
さてmixiはどうも名前を入れるときに実名で入れることをすすめているようだし、ほかのSNSなどでも昔の友人が見つかるかも知れないとうたっているところもあるようだ。
たとえば学校のコミュニティを立ち上げればそれなりに同窓会はできるわけだが、実名をあげてみんなそこへ集まっていくかといえば、もちろん必ずしもそうではないだろう。
そもそも同窓会をしたい、あるいはむかしの友達のあの人は今どうしてるだろう、などということを知るのにSNSに入って調べるというのは、私に言わせれば、いくえにも迂回しているわけで、人を探したければ単純に名前でYahooからでも検索したほうがよほど見つかりやすいだろう。
私も実際そのようなもの典型だからいうのであるが、ようするにネットで昔の友人を探すというのは、その友人と付き合いあがないからそうするわけであり、同窓会に呼ばれないから、そこでやるようなものかもしれない。
もちろんネット上だと匿名での情報交換などもできるので、それじたい面白かったりする。
SNSはもちろんネットの一部であって、ネット全体に共通することも多いと思うが、自分としてはこのブログはご覧いただいている人にはわかると思うが、なにか世の中にむなしく叫んでいるようなところがある。
あるいはブログというのはむなしく叫んでいるようでありながら、意外と偉い人やここで批判している人が見ている可能性も高いと自分は思いつつ続けている。
これがブログの「特性」であるかどうかは分からないが、ブログというのはそうした「想像」をゆるす要素もあるのではないか。
そしてもし、検索エンジンなどが、自分たちが勝手に判断して特定のブログをつまはじきするようになるようなことが万が一にもあるとしたら、それは単にブログに関する自分のそのような想像を否定するということだけではなくネット全体に関して決してよくないことになるのではないかと危惧している。
もちろんブログをひそやかにやっている人もいるかもしれない。
ブログによっては友人だけにしか公開できないものもあるらしい。
ブログではこういうことを書くべきだ、あるいはSNSではこういう話題はご法度、などといったしきたりがあるわけではもちろんないだろうが、自分はなんとなくこんな感じになってしまった。
ちょっと今日も話がまとまらないが、極端な話し、ブログでも何でも、言い方は悪いかも知れないが、思いつくままとりあえず書いておけばいいと思うのだが、最近多くの人が見ていることを意識して、誤字・脱字は恥ずかしいとか、友人はどう思っているかなどなど気にするようになってしまった。
また政治に関することはいくらでも書きたいが、他のことを書くとだれも見てくれなくってしまうような気もするし、毎日毎日おんなじことのオン・パレードでもまずいとか、そんなことを考えるだけでも、悲しくなったり、いろいろ思い悩んでしまう。