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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」

2020-07-08 09:19:03 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/139(2020/7/7/火】好奇心はいいものだ。小さい頃からオモチャ、ラジオ、双眼鏡、拳銃・・・「どうなっているんだろう」と何でもばらしていた。

(拳銃:ベルギー製のFNブローニングM1910で、帝国陸軍の官給品。生家は米軍キャンプ座間近くで、酔った米兵が女を求めて深夜に徘徊するため父が護身用に備えていた。父が夜勤のとき、20代の母は外から雨戸を開けようとする音に震え上がったという。「黒人兵は怖かった」とよく言っていた)

どうにか分解してタメツスガメツ「ふーん、なるほど」とか「分からん、複雑怪奇」とそれなりに納得すると、また復元していた。

両親は呆れながらも「この子はエンジニアになりそうだ」と何となく期待していた様子で、怒られることはなかった。

小生も何となく「エンジニア」という、敗戦後にGHQがもたらした外来語に引かれてはいたが、就学して分かったのは自分が理科、化学、物理、地学・・・つまり理系学問がまったく分からないし、ほとんど興味がないことだった。父母に読書の習慣はなかったため、国語も苦手だった。

国語がダメ、レベル以下だと致命的である。そもそも全教科の内容がよく分からない、さらに試験問題の設問が理解できない、理解するまでに時間がかかる。

2月生まれだから同学年でも最大10か月ほどの体力差、知能差、ハンディがある。これはきつかった、焦る。小5のときに5段階評価の通信簿で「2」がなくなりオール3になった時はちょっと嬉しかった。

一方で4、5月生まれの子はさしたる苦労もせずに結構できるから、やがて遊びやオシャレに夢中になるようで、中高あたりになると早生まれとの差は解消されて同じようなレベルになる。

結局、社会人になると、総合的な学識・教養・知性といった基準では、ほとんどの人は良くて中2レベル、優秀でも高2レベル、それ以上は稀だ。

ただ、現実の社会では「専門分野での能力」が買われる、評価されるから、「物知りの世間知らず、頭でっかちだが雑巾一つも縫えやしない」人より、「変人だけれど実にいい仕事をする、ありゃあカリスマだな」という人に仕事は来る。

というわけで学業≒試験勉強はパッとしない「ドン亀」だったが、文系組ではどうにかバカの一つ覚え=暗記力で英数だけはトップクラスになれた。「ウサギとカメ」。

振り返ると英文和訳がそこそこできたことと、工作機械や道具を使ってのモノ作り、大工さん、電気屋さんなどの職人仕事に小さい頃から興味津々だったのは良かった。

この「興味津々」、正確に言えば「創造的・生産的な知識欲・遊び心」というのは男にとってはとても重要で、前進、挑戦する気概になる。従兄弟が武蔵工大に進んだこともあって、漠然と「建築士はどうだろう」とは思っていたが、まさか文字を書いて食うようになるなんてまったく夢にも思わなかった。

独房では読書と日記=思索しかやることがないのだから、嫌でも文字に親しむ。「落ちたところが上り坂」「人間万事塞翁が馬」、その気になれば敗者復活できる、ということで、日本はいい国だ。

いつも興味津々、退屈知らずだと、老いても脳みその劣化は緩やかで済むような感じがするが・・・

現役時代でも隠居した今でも、記事、文章を書く上で「これどうなっているんだろう」という好奇心、興味がキモになる。日常生活でも「旨そうだな、食ってみよう」「この路地の先はなんなんだ」とかしょっちゅう思う。

孫が通う神奈川県川崎市立下布田(しもふだ)小学校。先日、多摩川を越えて東京側を散策していたら下布田という町名があった。川は蛇行するものだから、昔は一つの村でも、川が移動するとニつに分かれて「飛び地」になったりする。

街の史書などには「多摩川は昔はずっと南の多摩丘陵沿いにあった」とか書かれており、それが北に移動したため「ふたつの下布田」になったのだろう。ツインビレッジ・・・お祭りしたら面白そうだ。

こういうことを知るとか発見するのは面白い。川一本隔てただけなのに東京側の小田急線・狛江駅前通りはびっしりと建物が並んでおり、1階はほとんど店舗。どこまで続くのかと自転車を漕いでいったら京王線・調布駅まで続いていた。

わが街だと駅前商店街はせいぜい150~200メートル、それくらいで間に合う人口=市場=購買力で、物価も川向うの東京より安い。賃貸住宅も同じ家賃なら川向うより一部屋多い。それでも「お住まいはどちら?」と聞かれて「都内です」と「神奈川県です」ではイメージが違う。

「結構、シカとかイノシシが出るんでしょ?」「まあ、出ますね」
「ジビエ料理、皆さん食べます?」「昔から食べてますから飽きられているみたいで・・・今はコウモリ、ハクビシン、それからヒトを食ってます。奥さんみたいな霜降りはキロ3万円はしますね・・・ほんとに美味しそうですねえ、ヒッヒッヒ」

「都内は一流ブランド」、隣接していても神奈川(横浜を除く)、埼玉、千葉は二流以下なのだろう。在宅勤務が増えると、生活費が安くて自然も残っているような二流以下に引っ越す都民が増えそうだ。「出エジプトリリー記 多摩川を渡れ!」とか。

16世紀のサブサハラ・アフリカは「大西洋を渡れ!」だった。ボタンの掛け違え・・・当時の悲劇が今なお続いているようだ。

サブサハラ・アフリカ(Sub-Saharan Africa)。サハラ砂漠より南のアフリカは、アラビア人の北アフリカとは大きく異なる世界のようだ。ネグロイド(黒人)が主に居住する地域で「ブラック・アフリカ」とも称される。

現在、サブサハラについて先進国は何となく「触らぬ神に祟りなし」、その隙を中共がついて縄張りにしつつある。

米大陸の黒人のルーツはブラック・アフリカの大西洋側、ルアンダのようだ。不運の地なのか、デフォルトなのか、今でもフツとツチの部族抗争の傷は癒えていない。

<ルアンダは(日本では信長が台頭した)1575年にポルトガル人によって植民され、黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。奴隷供給源の喪失はブラジル植民地にとって大打撃だったからである>(WIKI)

初期に新大陸に自ら入植した黒人は「新大陸で一旗揚げよう」という、まるで明治以降の日本人移民のようだった。ところが新大陸は聞くと見るとで大違い、「話が違う」と怒ったところで財布もすっからかんどころか借金だらけで、帰るに帰れない。

要は、裸一貫で入植した白人も黒人も騙されたというか、リクルーターの甘言に乗せられたのだ。こんな具合。

「諸君、神は我々に新大陸を下された。波頭を乗り越え艱難辛苦、我らの先人は畑、農園を作って頑張っている、しかし慢性的に人手不足だ。

そこで私は、優秀で熱意あるがカネがないから新大陸に行けないという諸君を支援したい。渡航と就職先が決まるまでの費用はすべて貸そう。働きながら返してくれたらいい。

人生はチャレンジだ! このまま既得権益でガチガチの旧大陸で惨めな一生を送るのか? 叩けよ、さらば開かれん! 新大陸にはたっぷり稼げる仕事がある、すこぶる安い農地がある、自分の道を選べる自由がある、勇気ある青年は申し込んでくれ、先着100名、運命を切り開け!」

前借金という身売りだ。牛詰めになって命からがら新大陸に着き、就職市場のセリに若者が立つ。

「ルアンダ産、オス、16歳、健康、30ドルから始めます(ばんばん!)、はい40、はい60、ほい70・・・上ないか、上ないか、ほい75、80・・・上ないか、上ないか、(ばん!)80でシーチン農場!」

市場で値がつくと、カネ主は買い手に「前借金+諸経費+斡旋料」をもらって一件落着。若者は借金を全額返すまでは買い手、即ち農場オーナーの奉公人になる。

昔の娼妓、お女郎さんと一緒。借金を返しながらも衣食住で新たな借金をするから5年奉公10年奉公ならいい方で、死ぬまで奉公人というケースは珍しくなかっただろう。たとえ独立できたとしても、いくら安いとはいえ農地を買って功成り名を遂げる人は稀だった。

ヨーロッパから来た前借金の白人も同様だったが、職人(技術者)は引っ張りだこの高給で、多くが出世した。広大な農場(プランテーション)では労働者も多く、女、子供もどんどん増えていった。繁殖すれば売って儲けることもできるからだ。

農場は大きな村であり、熟練工を必要とした。大工、鍛冶屋、靴・皮革職人、ロープ職人、煉瓦焼き、醸造職人、織物職人・・・最初は高給でプロを招き、やがては奉公人が技術を学ぶ。

明治の初めみたいだが、日本の年季奉公は少年を一人前のプロに育てる職業訓練所でもあり、前借金で縛る奴隷制度とは全く違う。お女郎さんでも故郷に錦を飾った人は珍しくないだろう。

以上は戦後アメリカでマッカーシー旋風を「私はアカじゃない、社会主義者だ」とごまかして難を逃れたアカの理論家、レオ・ヒューバーマン著「アメリカ人民の歴史」を参考にした。

(アカは今でもFDRやジョージ・マーシャルを讃えているから、ヒューバーマンは読み継がれているだろう。1957年には大内兵衛、向坂逸郎に牛耳られた総評の招きで来日している)

黒人は言語能力、思考力、労働技術力に見るべきものがなかったのか、やがて単純労働、家畜並の動物扱い、反抗する知恵も術もなく借金漬けで奴隷にされてしまったのだろう。夢の新大陸が悪夢の地獄に・・・人生は想定外だ!

日本でも奴隷みたいな労働者は珍しくなかったのではないか。例えば――

<契約社員として奥地のダム工事現場に派遣され、やがて飯場での博打と女で前借金が増え、工事が終わっても親方から他の会社への出向を命じられ、給料も押さえられ、退職も許されない。やがて娼妓上がりのような女を与えられて子もなした。

「でも、何だか俺、奴隷とか唐行きさんみたいだなあ、“ナンダカンダ分からん人生”・・・ま、置かれた場所で咲きなさいって神様が言っているし、そのうち何とかなるかもしれない・・・でも何でこうなったんだろう、不思議だよなあ>

女に騙され惑わされて働きづめ、たまの休みでもドブ掃除や洗車、ペンキ塗りをさせられたり、タバコも外、酒は取り上げられ、家族旅行の参加資格もなく留守番・・・「アンタ、犬の散歩と金魚の世話もちゃんとやってよ!」まるで奴隷・・・

何となく 歌って踊って 恋をして 気付いて見れば 老いたる奴隷(修)

<植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した。

このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説がある>(WIKI)

同志諸君! 光秀、秀吉、家康がいなかったら日本人は慶長遣欧使節の船でアメリカに送られ、奴隷にされていたかもしれない。危うかった。

人種、民族がそれぞれの良さを活かしながら、それぞれの国、町村で、それぞれの桃源郷を創ればいいが、やがて仲良しクラブ、派閥ができて争う。もう、これ、人間の宿命だ。

嗚呼、昔「愛の巣」、今「愛の留守」、良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる、誤解はやがて悲劇か喜劇かドタバタか・・・「大団円で幕」というのはまずないね、せいぜい戦い済んで日が暮れて・・・諦観で終わればいい方だな。

米国の人種問題を解決するにはワシントン州・オレゴン州は黒人自治区にするとか、縄張りをはっきりと決めた方がいいのではないか。一度、別居してクールになってみることが大事ではないか。国造りの苦労をしないと分からないことはいっぱいある。

「あんたぁ最初からワシらが担いどる神輿じゃないの、神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ」

出ていくわ 勝手にするから 手切れ金 まずは寄こせと 恐喝まがい(修)

ありそうな話。内憂外患、大国になれば悩みも大きいから大変だなあと思うが、日本はEEZを含めると結構縄張りが広いから「対岸の火事」と、のほほんとはしていられない。

中共、半島、ロシアちゅう世界有数のゴロツキ連合と対峙しておるんやで、ガラガラポンの仁義なき戦いにそなえにゃ、ええようにやられるで、のう。褌締めて、腹くくって、チャカ用意して、兄弟仁義の組と足そろえて喧嘩に備えにゃあならん。のほほんと危機感がない組は負けよ、最後にバカが泣く。あんた、ボーッとしとるけど分かってんのかい?(2020/7/7)
























雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/139(2020/7/7/火】好奇心はいいものだ。小さい頃からオモチャ、ラジオ、双眼鏡、拳銃・・・「どうなっているんだろう」と何でもばらしていた。


(拳銃:ベルギー製のFNブローニングM1910で、帝国陸軍の官給品。生家は米軍キャンプ座間近くで、酔った米兵が女を求めて深夜に徘徊するため父が護身用に備えていた。父が夜勤のとき、20代の母は外から雨戸を開けようとする音に震え上がったという。「黒人兵は怖かった」とよく言っていた)


どうにか分解してタメツスガメツ「ふーん、なるほど」とか「分からん、複雑怪奇」とそれなりに納得すると、また復元していた。


両親は呆れながらも「この子はエンジニアになりそうだ」と何となく期待していた様子で、怒られることはなかった。


小生も何となく「エンジニア」という、敗戦後にGHQがもたらした外来語に引かれてはいたが、就学して分かったのは自分が理科、化学、物理、地学・・・つまり理系学問がまったく分からないし、ほとんど興味がないことだった。父母に読書の習慣はなかったため、国語も苦手だった。


国語がダメ、レベル以下だと致命的である。そもそも全教科の内容がよく分からない、さらに試験問題の設問が理解できない、理解するまでに時間がかかる。


2月生まれだから同学年でも最大10か月ほどの体力差、知能差、ハンディがある。これはきつかった、焦る。小5のときに5段階評価の通信簿で「2」がなくなりオール3になった時はちょっと嬉しかった。


一方で4、5月生まれの子はさしたる苦労もせずに結構できるから、やがて遊びやオシャレに夢中になるようで、中高あたりになると早生まれとの差は解消されて同じようなレベルになる。


結局、社会人になると、総合的な学識・教養・知性といった基準では、ほとんどの人は良くて中2レベル、優秀でも高2レベル、それ以上は稀だ。


ただ、現実の社会では「専門分野での能力」が買われる、評価されるから、「物知りの世間知らず、頭でっかちだが雑巾一つも縫えやしない」人より、「変人だけれど実にいい仕事をする、ありゃあカリスマだな」という人に仕事は来る。


というわけで学業≒試験勉強はパッとしない「ドン亀」だったが、文系組ではどうにかバカの一つ覚え=暗記力で英数だけはトップクラスになれた。「ウサギとカメ」。


振り返ると英文和訳がそこそこできたことと、工作機械や道具を使ってのモノ作り、大工さん、電気屋さんなどの職人仕事に小さい頃から興味津々だったのは良かった。


この「興味津々」、正確に言えば「創造的・生産的な知識欲・遊び心」というのは男にとってはとても重要で、前進、挑戦する気概になる。従兄弟が武蔵工大に進んだこともあって、漠然と「建築士はどうだろう」とは思っていたが、まさか文字を書いて食うようになるなんてまったく夢にも思わなかった。


独房では読書と日記=思索しかやることがないのだから、嫌でも文字に親しむ。「落ちたところが上り坂」「人間万事塞翁が馬」、その気になれば敗者復活できる、ということで、日本はいい国だ。


いつも興味津々、退屈知らずだと、老いても脳みその劣化は緩やかで済むような感じがするが・・・


現役時代でも隠居した今でも、記事、文章を書く上で「これどうなっているんだろう」という好奇心、興味がキモになる。日常生活でも「旨そうだな、食ってみよう」「この路地の先はなんなんだ」とかしょっちゅう思う。


孫が通う神奈川県川崎市立下布田(しもふだ)小学校。先日、多摩川を越えて東京側を散策していたら下布田という町名があった。川は蛇行するものだから、昔は一つの村でも、川が移動するとニつに分かれて「飛び地」になったりする。


街の史書などには「多摩川は昔はずっと南の多摩丘陵沿いにあった」とか書かれており、それが北に移動したため「ふたつの下布田」になったのだろう。ツインビレッジ・・・お祭りしたら面白そうだ。


こういうことを知るとか発見するのは面白い。川一本隔てただけなのに東京側の小田急線・狛江駅前通りはびっしりと建物が並んでおり、1階はほとんど店舗。どこまで続くのかと自転車を漕いでいったら京王線・調布駅まで続いていた。


わが街だと駅前商店街はせいぜい150~200メートル、それくらいで間に合う人口=市場=購買力で、物価も川向うの東京より安い。賃貸住宅も同じ家賃なら川向うより一部屋多い。それでも「お住まいはどちら?」と聞かれて「都内です」と「神奈川県です」ではイメージが違う。


「結構、シカとかイノシシが出るんでしょ?」「まあ、出ますね」
「ジビエ料理、皆さん食べます?」「昔から食べてますから飽きられているみたいで・・・今はコウモリ、ハクビシン、それからヒトを食ってます。奥さんみたいな霜降りはキロ3万円はしますね・・・ほんとに美味しそうですねえ、ヒッヒッヒ」


「都内は一流ブランド」、隣接していても神奈川(横浜を除く)、埼玉、千葉は二流以下なのだろう。在宅勤務が増えると、生活費が安くて自然も残っているような二流以下に引っ越す都民が増えそうだ。「出エジプトリリー記 多摩川を渡れ!」とか。


16世紀のサブサハラ・アフリカは「大西洋を渡れ!」だった。ボタンの掛け違え・・・当時の悲劇が今なお続いているようだ。


サブサハラ・アフリカ(Sub-Saharan Africa)。サハラ砂漠より南のアフリカは、アラビア人の北アフリカとは大きく異なる世界のようだ。ネグロイド(黒人)が主に居住する地域で「ブラック・アフリカ」とも称される。


現在、サブサハラについて先進国は何となく「触らぬ神に祟りなし」、その隙を中共がついて縄張りにしつつある。


米大陸の黒人のルーツはブラック・アフリカの大西洋側、ルアンダのようだ。不運の地なのか、デフォルトなのか、今でもフツとツチの部族抗争の傷は癒えていない。


<ルアンダは(日本では信長が台頭した)1575年にポルトガル人によって植民され、黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。奴隷供給源の喪失はブラジル植民地にとって大打撃だったからである>(WIKI)


初期に新大陸に自ら入植した黒人は「新大陸で一旗揚げよう」という、まるで明治以降の日本人移民のようだった。ところが新大陸は聞くと見るとで大違い、「話が違う」と怒ったところで財布もすっからかんどころか借金だらけで、帰るに帰れない。


要は、裸一貫で入植した白人も黒人も騙されたというか、リクルーターの甘言に乗せられたのだ。こんな具合。


「諸君、神は我々に新大陸を下された。波頭を乗り越え艱難辛苦、我らの先人は畑、農園を作って頑張っている、しかし慢性的に人手不足だ。


そこで私は、優秀で熱意あるがカネがないから新大陸に行けないという諸君を支援したい。渡航と就職先が決まるまでの費用はすべて貸そう。働きながら返してくれたらいい。


人生はチャレンジだ! このまま既得権益でガチガチの旧大陸で惨めな一生を送るのか? 叩けよ、さらば開かれん! 新大陸にはたっぷり稼げる仕事がある、すこぶる安い農地がある、自分の道を選べる自由がある、勇気ある青年は申し込んでくれ、先着100名、運命を切り開け!」


前借金という身売りだ。牛詰めになって命からがら新大陸に着き、就職市場のセリに若者が立つ。


「ルアンダ産、オス、16歳、健康、30ドルから始めます(ばんばん!)、はい40、はい60、ほい70・・・上ないか、上ないか、ほい75、80・・・上ないか、上ないか、(ばん!)80でシーチン農場!」


市場で値がつくと、カネ主は買い手に「前借金+諸経費+斡旋料」をもらって一件落着。若者は借金を全額返すまでは買い手、即ち農場オーナーの奉公人になる。


昔の娼妓、お女郎さんと一緒。借金を返しながらも衣食住で新たな借金をするから5年奉公10年奉公ならいい方で、死ぬまで奉公人というケースは珍しくなかっただろう。たとえ独立できたとしても、いくら安いとはいえ農地を買って功成り名を遂げる人は稀だった。


ヨーロッパから来た前借金の白人も同様だったが、職人(技術者)は引っ張りだこの高給で、多くが出世した。広大な農場(プランテーション)では労働者も多く、女、子供もどんどん増えていった。繁殖すれば売って儲けることもできるからだ。


農場は大きな村であり、熟練工を必要とした。大工、鍛冶屋、靴・皮革職人、ロープ職人、煉瓦焼き、醸造職人、織物職人・・・最初は高給でプロを招き、やがては奉公人が技術を学ぶ。


明治の初めみたいだが、日本の年季奉公は少年を一人前のプロに育てる職業訓練所でもあり、前借金で縛る奴隷制度とは全く違う。お女郎さんでも故郷に錦を飾った人は珍しくないだろう。


以上は戦後アメリカでマッカーシー旋風を「私はアカじゃない、社会主義者だ」とごまかして難を逃れたアカの理論家、レオ・ヒューバーマン著「アメリカ人民の歴史」を参考にした。


(アカは今でもFDRやジョージ・マーシャルを讃えているから、ヒューバーマンは読み継がれているだろう。1957年には大内兵衛、向坂逸郎に牛耳られた総評の招きで来日している)


黒人は言語能力、思考力、労働技術力に見るべきものがなかったのか、やがて単純労働、家畜並の動物扱い、反抗する知恵も術もなく借金漬けで奴隷にされてしまったのだろう。夢の新大陸が悪夢の地獄に・・・人生は想定外だ!


日本でも奴隷みたいな労働者は珍しくなかったのではないか。例えば――


<契約社員として奥地のダム工事現場に派遣され、やがて飯場での博打と女で前借金が増え、工事が終わっても親方から他の会社への出向を命じられ、給料も押さえられ、退職も許されない。やがて娼妓上がりのような女を与えられて子もなした。


「でも、何だか俺、奴隷とか唐行きさんみたいだなあ、“ナンダカンダ分からん人生”・・・ま、置かれた場所で咲きなさいって神様が言っているし、そのうち何とかなるかもしれない・・・でも何でこうなったんだろう、不思議だよなあ>


女に騙され惑わされて働きづめ、たまの休みでもドブ掃除や洗車、ペンキ塗りをさせられたり、タバコも外、酒は取り上げられ、家族旅行の参加資格もなく留守番・・・「アンタ、犬の散歩と金魚の世話もちゃんとやってよ!」まるで奴隷・・・


何となく 歌って踊って 恋をして 気付いて見れば 老いたる奴隷(修)


<植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した。


このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説がある>(WIKI)


同志諸君! 光秀、秀吉、家康がいなかったら日本人は慶長遣欧使節の船でアメリカに送られ、奴隷にされていたかもしれない。危うかった。


人種、民族がそれぞれの良さを活かしながら、それぞれの国、町村で、それぞれの桃源郷を創ればいいが、やがて仲良しクラブ、派閥ができて争う。もう、これ、人間の宿命だ。


嗚呼、昔「愛の巣」、今「愛の留守」、良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる、誤解はやがて悲劇か喜劇かドタバタか・・・「大団円で幕」というのはまずないね、せいぜい戦い済んで日が暮れて・・・諦観で終わればいい方だな。


米国の人種問題を解決するにはワシントン州・オレゴン州は黒人自治区にするとか、縄張りをはっきりと決めた方がいいのではないか。一度、別居してクールになってみることが大事ではないか。国造りの苦労をしないと分からないことはいっぱいある。


「あんたぁ最初からワシらが担いどる神輿じゃないの、神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ」


出ていくわ 勝手にするから 手切れ金 まずは寄こせと 恐喝まがい(修)


ありそうな話。内憂外患、大国になれば悩みも大きいから大変だなあと思うが、日本はEEZを含めると結構縄張りが広いから「対岸の火事」と、のほほんとはしていられない。


中共、半島、ロシアちゅう世界有数のゴロツキ連合と対峙しておるんやで、ガラガラポンの仁義なき戦いにそなえにゃ、ええようにやられるで、のう。褌締めて、腹くくって、チャカ用意して、兄弟仁義の組と足そろえて喧嘩に備えにゃあならん。のほほんと危機感がない組は負けよ、最後にバカが泣く。あんた、ボーッとしとるけど分かってんのかい?(2020/7/7)










雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/139(2020/7/7/火】好奇心はいいものだ。小さい頃からオモチャ、ラジオ、双眼鏡、拳銃・・・「どうなっているんだろう」と何でもばらしていた。


(拳銃:ベルギー製のFNブローニングM1910で、帝国陸軍の官給品。生家は米軍キャンプ座間近くで、酔った米兵が女を求めて深夜に徘徊するため父が護身用に備えていた。父が夜勤のとき、20代の母は外から雨戸を開けようとする音に震え上がったという。「黒人兵は怖かった」とよく言っていた)


どうにか分解してタメツスガメツ「ふーん、なるほど」とか「分からん、複雑怪奇」とそれなりに納得すると、また復元していた。


両親は呆れながらも「この子はエンジニアになりそうだ」と何となく期待していた様子で、怒られることはなかった。


小生も何となく「エンジニア」という、敗戦後にGHQがもたらした外来語に引かれてはいたが、就学して分かったのは自分が理科、化学、物理、地学・・・つまり理系学問がまったく分からないし、ほとんど興味がないことだった。父母に読書の習慣はなかったため、国語も苦手だった。


国語がダメ、レベル以下だと致命的である。そもそも全教科の内容がよく分からない、さらに試験問題の設問が理解できない、理解するまでに時間がかかる。


2月生まれだから同学年でも最大10か月ほどの体力差、知能差、ハンディがある。これはきつかった、焦る。小5のときに5段階評価の通信簿で「2」がなくなりオール3になった時はちょっと嬉しかった。


一方で4、5月生まれの子はさしたる苦労もせずに結構できるから、やがて遊びやオシャレに夢中になるようで、中高あたりになると早生まれとの差は解消されて同じようなレベルになる。


結局、社会人になると、総合的な学識・教養・知性といった基準では、ほとんどの人は良くて中2レベル、優秀でも高2レベル、それ以上は稀だ。


ただ、現実の社会では「専門分野での能力」が買われる、評価されるから、「物知りの世間知らず、頭でっかちだが雑巾一つも縫えやしない」人より、「変人だけれど実にいい仕事をする、ありゃあカリスマだな」という人に仕事は来る。


というわけで学業≒試験勉強はパッとしない「ドン亀」だったが、文系組ではどうにかバカの一つ覚え=暗記力で英数だけはトップクラスになれた。「ウサギとカメ」。


振り返ると英文和訳がそこそこできたことと、工作機械や道具を使ってのモノ作り、大工さん、電気屋さんなどの職人仕事に小さい頃から興味津々だったのは良かった。


この「興味津々」、正確に言えば「創造的・生産的な知識欲・遊び心」というのは男にとってはとても重要で、前進、挑戦する気概になる。従兄弟が武蔵工大に進んだこともあって、漠然と「建築士はどうだろう」とは思っていたが、まさか文字を書いて食うようになるなんてまったく夢にも思わなかった。


独房では読書と日記=思索しかやることがないのだから、嫌でも文字に親しむ。「落ちたところが上り坂」「人間万事塞翁が馬」、その気になれば敗者復活できる、ということで、日本はいい国だ。


いつも興味津々、退屈知らずだと、老いても脳みその劣化は緩やかで済むような感じがするが・・・


現役時代でも隠居した今でも、記事、文章を書く上で「これどうなっているんだろう」という好奇心、興味がキモになる。日常生活でも「旨そうだな、食ってみよう」「この路地の先はなんなんだ」とかしょっちゅう思う。


孫が通う神奈川県川崎市立下布田(しもふだ)小学校。先日、多摩川を越えて東京側を散策していたら下布田という町名があった。川は蛇行するものだから、昔は一つの村でも、川が移動するとニつに分かれて「飛び地」になったりする。


街の史書などには「多摩川は昔はずっと南の多摩丘陵沿いにあった」とか書かれており、それが北に移動したため「ふたつの下布田」になったのだろう。ツインビレッジ・・・お祭りしたら面白そうだ。


こういうことを知るとか発見するのは面白い。川一本隔てただけなのに東京側の小田急線・狛江駅前通りはびっしりと建物が並んでおり、1階はほとんど店舗。どこまで続くのかと自転車を漕いでいったら京王線・調布駅まで続いていた。


わが街だと駅前商店街はせいぜい150~200メートル、それくらいで間に合う人口=市場=購買力で、物価も川向うの東京より安い。賃貸住宅も同じ家賃なら川向うより一部屋多い。それでも「お住まいはどちら?」と聞かれて「都内です」と「神奈川県です」ではイメージが違う。


「結構、シカとかイノシシが出るんでしょ?」「まあ、出ますね」
「ジビエ料理、皆さん食べます?」「昔から食べてますから飽きられているみたいで・・・今はコウモリ、ハクビシン、それからヒトを食ってます。奥さんみたいな霜降りはキロ3万円はしますね・・・ほんとに美味しそうですねえ、ヒッヒッヒ」


「都内は一流ブランド」、隣接していても神奈川(横浜を除く)、埼玉、千葉は二流以下なのだろう。在宅勤務が増えると、生活費が安くて自然も残っているような二流以下に引っ越す都民が増えそうだ。「出エジプトリリー記 多摩川を渡れ!」とか。


16世紀のサブサハラ・アフリカは「大西洋を渡れ!」だった。ボタンの掛け違え・・・当時の悲劇が今なお続いているようだ。


サブサハラ・アフリカ(Sub-Saharan Africa)。サハラ砂漠より南のアフリカは、アラビア人の北アフリカとは大きく異なる世界のようだ。ネグロイド(黒人)が主に居住する地域で「ブラック・アフリカ」とも称される。


現在、サブサハラについて先進国は何となく「触らぬ神に祟りなし」、その隙を中共がついて縄張りにしつつある。


米大陸の黒人のルーツはブラック・アフリカの大西洋側、ルアンダのようだ。不運の地なのか、デフォルトなのか、今でもフツとツチの部族抗争の傷は癒えていない。


<ルアンダは(日本では信長が台頭した)1575年にポルトガル人によって植民され、黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。奴隷供給源の喪失はブラジル植民地にとって大打撃だったからである>(WIKI)


初期に新大陸に自ら入植した黒人は「新大陸で一旗揚げよう」という、まるで明治以降の日本人移民のようだった。ところが新大陸は聞くと見るとで大違い、「話が違う」と怒ったところで財布もすっからかんどころか借金だらけで、帰るに帰れない。


要は、裸一貫で入植した白人も黒人も騙されたというか、リクルーターの甘言に乗せられたのだ。こんな具合。


「諸君、神は我々に新大陸を下された。波頭を乗り越え艱難辛苦、我らの先人は畑、農園を作って頑張っている、しかし慢性的に人手不足だ。


そこで私は、優秀で熱意あるがカネがないから新大陸に行けないという諸君を支援したい。渡航と就職先が決まるまでの費用はすべて貸そう。働きながら返してくれたらいい。


人生はチャレンジだ! このまま既得権益でガチガチの旧大陸で惨めな一生を送るのか? 叩けよ、さらば開かれん! 新大陸にはたっぷり稼げる仕事がある、すこぶる安い農地がある、自分の道を選べる自由がある、勇気ある青年は申し込んでくれ、先着100名、運命を切り開け!」


前借金という身売りだ。牛詰めになって命からがら新大陸に着き、就職市場のセリに若者が立つ。


「ルアンダ産、オス、16歳、健康、30ドルから始めます(ばんばん!)、はい40、はい60、ほい70・・・上ないか、上ないか、ほい75、80・・・上ないか、上ないか、(ばん!)80でシーチン農場!」


市場で値がつくと、カネ主は買い手に「前借金+諸経費+斡旋料」をもらって一件落着。若者は借金を全額返すまでは買い手、即ち農場オーナーの奉公人になる。


昔の娼妓、お女郎さんと一緒。借金を返しながらも衣食住で新たな借金をするから5年奉公10年奉公ならいい方で、死ぬまで奉公人というケースは珍しくなかっただろう。たとえ独立できたとしても、いくら安いとはいえ農地を買って功成り名を遂げる人は稀だった。


ヨーロッパから来た前借金の白人も同様だったが、職人(技術者)は引っ張りだこの高給で、多くが出世した。広大な農場(プランテーション)では労働者も多く、女、子供もどんどん増えていった。繁殖すれば売って儲けることもできるからだ。


農場は大きな村であり、熟練工を必要とした。大工、鍛冶屋、靴・皮革職人、ロープ職人、煉瓦焼き、醸造職人、織物職人・・・最初は高給でプロを招き、やがては奉公人が技術を学ぶ。


明治の初めみたいだが、日本の年季奉公は少年を一人前のプロに育てる職業訓練所でもあり、前借金で縛る奴隷制度とは全く違う。お女郎さんでも故郷に錦を飾った人は珍しくないだろう。


以上は戦後アメリカでマッカーシー旋風を「私はアカじゃない、社会主義者だ」とごまかして難を逃れたアカの理論家、レオ・ヒューバーマン著「アメリカ人民の歴史」を参考にした。


(アカは今でもFDRやジョージ・マーシャルを讃えているから、ヒューバーマンは読み継がれているだろう。1957年には大内兵衛、向坂逸郎に牛耳られた総評の招きで来日している)


黒人は言語能力、思考力、労働技術力に見るべきものがなかったのか、やがて単純労働、家畜並の動物扱い、反抗する知恵も術もなく借金漬けで奴隷にされてしまったのだろう。夢の新大陸が悪夢の地獄に・・・人生は想定外だ!


日本でも奴隷みたいな労働者は珍しくなかったのではないか。例えば――


<契約社員として奥地のダム工事現場に派遣され、やがて飯場での博打と女で前借金が増え、工事が終わっても親方から他の会社への出向を命じられ、給料も押さえられ、退職も許されない。やがて娼妓上がりのような女を与えられて子もなした。


「でも、何だか俺、奴隷とか唐行きさんみたいだなあ、“ナンダカンダ分からん人生”・・・ま、置かれた場所で咲きなさいって神様が言っているし、そのうち何とかなるかもしれない・・・でも何でこうなったんだろう、不思議だよなあ>


女に騙され惑わされて働きづめ、たまの休みでもドブ掃除や洗車、ペンキ塗りをさせられたり、タバコも外、酒は取り上げられ、家族旅行の参加資格もなく留守番・・・「アンタ、犬の散歩と金魚の世話もちゃんとやってよ!」まるで奴隷・・・


何となく 歌って踊って 恋をして 気付いて見れば 老いたる奴隷(修)


<植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した。


このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説がある>(WIKI)


同志諸君! 光秀、秀吉、家康がいなかったら日本人は慶長遣欧使節の船でアメリカに送られ、奴隷にされていたかもしれない。危うかった。


人種、民族がそれぞれの良さを活かしながら、それぞれの国、町村で、それぞれの桃源郷を創ればいいが、やがて仲良しクラブ、派閥ができて争う。もう、これ、人間の宿命だ。


嗚呼、昔「愛の巣」、今「愛の留守」、良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる、誤解はやがて悲劇か喜劇かドタバタか・・・「大団円で幕」というのはまずないね、せいぜい戦い済んで日が暮れて・・・諦観で終わればいい方だな。


米国の人種問題を解決するにはワシントン州・オレゴン州は黒人自治区にするとか、縄張りをはっきりと決めた方がいいのではないか。一度、別居してクールになってみることが大事ではないか。国造りの苦労をしないと分からないことはいっぱいある。


「あんたぁ最初からワシらが担いどる神輿じゃないの、神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ」


出ていくわ 勝手にするから 手切れ金 まずは寄こせと 恐喝まがい(修)


ありそうな話。内憂外患、大国になれば悩みも大きいから大変だなあと思うが、日本はEEZを含めると結構縄張りが広いから「対岸の火事」と、のほほんとはしていられない。


中共、半島、ロシアちゅう世界有数のゴロツキ連合と対峙しておるんやで、ガラガラポンの仁義なき戦いにそなえにゃ、ええようにやられるで、のう。褌締めて、腹くくって、チャカ用意して、兄弟仁義の組と足そろえて喧嘩に備えにゃあならん。のほほんと危機感がない組は負けよ、最後にバカが泣く。あんた、ボーッとしとるけど分かってんのかい?(2020/7/7)