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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(39」

2020-07-27 10:06:46 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(39」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/149(2020/7/26/日】チャリ散歩で「そのうちコケるだろうなあ」とは思っていたが、歩道と車道を分けるコンクリ製ポールにぶつかって倒れそうになった。


帰宅してから何となく左の脛を見たら7センチほどの切り傷から血が出ている。痛そうだが、あまり痛くはない。で、母のことを思い出した。晩年の母はよく青あざを作っていた。


「そこ、どうしたのよ、紫色じゃん」
「あら、どうしたのかねえ、全然知らなかったよ」


歳とると痛覚も劣化するわけだ。あまり痛くないように神様がそうしてくれるのだろうか。日本口腔顔面痛学会(痛そう!)から。


<加齢の進行に伴い、中枢神経および末梢神経系システムに様々な変化が生じることはよく知られている。痛覚受容も加齢による影響を受けている可能性は充分考えられる。本研究は、加齢に伴う侵害受容システムの変化を解明することを目的とした。


結果:老齢ラットは侵害刺激に対する反射は亢進しているが、 痛みの認知機能が低下していることがわかった>


つまり加齢により「痛みの認知機能が低下」するわけだ。


老化は痛覚だけではなく、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚、温覚、冷覚などにもあるはずだ。「あんた、ここは仕事場だぜ、なんか錯覚してんじゃね? 自覚が足りないよ、自覚があ!」とかもあるね。


俺はまだ若いと錯覚したり、老人の自覚がなかったりしても、加齢により感覚のみならず「脳みそ、肉体のすべてが劣化していく」のが当然の生理である。


痛覚など症状がなければ穏やかな最期になるのだろうが、劣化をできるだけ抑えて「やるべきことはやっておきたい」、「あと少しで1000人斬りだあ、目指せドンファン」なんていう人は焦ったりしそうだ。


くたばる前にこれだけはやっておきたい、心身がそこそこ機能するうちにやっておきたい、でも残り時間は少ないだろう、1日たりとも無為徒食で過ごすわけにはいかない、と焦る。「目標」があるから「道まだ遠し、日は暮れる」と焦るわけだ。


散歩やハイキング、山歩きでも「目標」があった方が「達成感」「喜び」は大きい。東京都で唯一標高2000mの雲取山を制覇した時は皆が「バンザイ」を叫んだものだ。思わず声が出て、実に気分が良かった。


「目標」があれば艱難辛苦も乗り越えられるかもしれない。それが「生きがい」とか「張り合い」という楽しみや慰謝にもなるだろうが、「目標」への道は、それが遠大であればあるほど過酷なのではないか。だからこそ達成感は大きいだろう。


そして新たな、さらに大きな「目標」が生まれ、くたばるまでチャレンジの連続だ!となったり。


のんびり面白おかしく(やがてボーッと?)過ごす老後、一方で「痩せガエル」のように挑戦する老後。多動児の小生は痩せガエルのように、諦めることなく、跛行してでも、前進していきたいなあと思う。


伊藤貫氏の「歴史に残る外交三賢人」から。


<1873年3月、訪欧中の岩倉使節団はベルリンにおいてビスマルク宰相から招かれた。その席でビスマルクは、


「近代的な法制度を整備しても、日本に実力がない限り、欧米諸国は日本を対等な国として扱わないだろう。諸君は実力をつけることを優先したまえ」


とアドバイスした。使節団一行は蒙を開かれた思いだった。


大久保利通は「新興国家を経営するには、ビスマルク候の如くあるべし。我、大いに頷く」と書き、伊藤博文とともに「我こそ日本のビスマルクになるのだ!」と発奮したのである。


使節団に同行しなかった山形有朋までこの話を聞いて「余も日本のビスマルクになりたい!」と熱望し、自宅の居間にビスマルクの銅像を飾っていた。明治の元勲の多くが強烈なビスマルク病に感染したのである>


明治維新のリーダーの若々しい熱い気持ちがうかがえて感動的だ。その後の「富国強兵一直線」という、老獪、狡猾、欺瞞、奸計、ディール、韜光養晦のないような政治、外交は、最期には未曽有の大敗戦になってしまった。


青春に挫折はつきもの。日本は若くて初心だった。辛酸を舐め、痛い思いをし、屈辱に涙した経験をバネに、次のガラガラポンでは銅メダルをとって、「オンリーさんを卒業する、普通の国になる」。


それを実現できれば「令和の大戦」は子々孫々、「敗者復活、奇跡の逆転サヨナラホームラン、一次リーグ入りの『令和維新』」と記憶されるだろう。


「歴史に "If" はない」・・・大久保らがビスマルクに感動し、ヒゲや態度でも冷静冷血な政治リーダーを真似たのはご愛敬だが、後世にビスマルクの名を伝えることになった「バランス・オブ・パワー/勢力均衡外交」は、当時はビスマルク本人も戦略として意識していなかったようだ。


「えげつない外交、まるで詐欺師、汚さ過ぎ!」とドイツ皇帝から庶民までが罵倒し、さらにビスマルク本人さえ「俺だってこんな汚いこと、好きでやってるんじゃないんだ、他に方法がないんだからしょうがないだろ、あーだこーだ言うんなら俺は辞める、もううんざりだ!」と、皇帝の前で(半分は計算通りに、半分は本気で)七転八倒、大泣きした。


皇帝はビスマルクを好きではなかったが、ビスマルク以外に(個性豊かでクセのある感情的で付和雷同的、正気と狂気の狭間的な)ドイツ民族を牽引し、近隣国を牽制できるリーダーはいないことを知っていたし、ドイツ民族は皇帝が大好きだったから、結局、ビスマルクの政策は皇帝の承諾を得、国民の暗黙の了解を得るのだった。


ビスマルク統治の前期は、卑怯だろうが汚かろうが無節操だろうが、何が何でもドイツ帝国を創るという武断的攻撃的陰謀的な勢力均衡外交、後期はドイツ帝国を守るという守勢的狡猾的な勢力均衡外交だった。


大久保らはビスマルクの武断的攻撃的陰謀的な勢力均衡外交に心酔したが、日清日露の戦役で勝ったことからか、それが勝利パターンになってしまったのだろう、ビスマルクの守勢的狡猾的な勢力均衡外交を学ぶには至らなかった。


ドンパチの表側の戦争・外交、目に見えない裏側の戦争・外交、まあ日本は初心だったから最終的には負けてしまった。次回はもっと強く、もっと賢く戦い、世界を洗濯し、八紘一宇へ前進しましょう。(2020/7/26)