雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(40」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/150(2020/7/27/月】久し振りに生田緑地を散歩したが、花菖蒲と紫陽花が咲き終わり、向日葵はまだなので、花の気配はなかった。その代わりに高さ30mほどのメタセコイア(スギ科)が50本ほども林立している池端は圧巻だった。
その森の奥の方で大きなテーブルに集っている人がいる。キャンプ気分でランチを楽しむのかなあと、よく見ると、乙女が5人・・・うーん、シュールだなあ、「草上の昼食」・・・脱ぎだすのか・・・いよいよ俺も幻覚か? 茫然と見ていると・・・ナント、3密回避の屋外美容教室だった。
<訪問美容はサロンワークとは違ったやりがいを感じられます。 私たちのお客様には、色々な方がいらっしゃいます。施設内での日常生活に退屈されている方。ご家族の来訪が少ない方。まわりに気兼ねなく、お話できる人がいない方など。私たちは毎月定期的にお伺いするのですが、その時間を心待ちにされている方も少なくありません>(訪問美容グラシス)
すごいなあ、「いつまでも美しくありたい、お喋りしたい・・・」、3姫は車椅子だった。ニーズがあればビジネスが生まれ、さらにニーズが開拓され、ビジネスが大きくなる・・・
<待つ美容師から、訪れる美容師へ! 理美容室の数はコンビニの5倍! 若者ターゲットから訪問美容へのシフトで差別化を!>(介護美容研究所)
みんなタフ!「もうボクは付いていけません・・・けど、I have a dream、鬼畜中共、撃ちてし止まん!」、ほとんどビョーキ、ステージ4、今日も前進だあ!
閑話休題。天に向かって真っすぐに伸びているメタセコイアの姿は神秘的であり、ドイツのケルン大聖堂は70m超の高さになるドイツトウヒ(マツ科)の森や、両手を合わせて天に祈る姿をモチーフにしたという説がある。
ドイツトウヒはクリスマスツリーに使われる樹木だからキリスト教とは縁があるわけだ。
WIKIで調べたら、このケルン大聖堂、1880年8月14日に初代ドイツ皇帝ウィルヘルム1世臨席の下、完成祝賀式典が催された。当然、宰相ビスマルクも同席したはずだ。(皇帝は普遍性のある大黒柱、スタビライザーだから当時の欧州では推戴する国が多かった。名門の貴種は大いに珍重されたという)
1873年3月、訪欧中の岩倉使節団はベルリンにおいてビスマルクに接し、「日本も大いに富国強兵せにゃならん」と発奮したが、80年代になるとリアリストのビスマルクは“君子豹変”したのである。
伊藤貫氏の「歴史に残る外交三賢人」から。
<1873年3月、訪欧中の岩倉使節団を接遇したビスマルクは、実は「果敢な武断主義者」から「慎重で避戦的な勢力均衡主義者」に移行している最中であったが、彼はそのことを岩倉使節団に説明しなかった。
たとえ説明したとしても、当時の日本人には理解されなかったろう。「バランス・オブ・パワー/勢力均衡外交」は、17~19世紀の西欧外交史に関する質の高い知識がなければ理解できないものだからである>
小生思うにビスマルク自身もドイツ帝国樹立後、間がないので、「守勢=防衛戦における勢力均衡外交」の在り方を模索していた時期ではないか。
攻守あれど戦争や競技は物量戦(ハードパワー)と同時に頭脳戦(ソフトパワー)だから、当たり前ながら戦略、戦術、作戦が非常に重要になる。例えば、
ボクシングのタイトル奪取の戦いは、挑戦者は1点でも上回れば勝者になれるからひたすら攻撃する(体力消耗リスクが大きい)、一方でチャンピオンの防衛戦は同点でもタイトル防衛になるから、挑戦者の攻撃をかわしていればいいし、挑戦者がへとへとになったところで乾坤一擲、渾身の一発で大逆転も可能だ。
現世王者ジョージ・フォアマンと無冠の伝説王者モハメド・アリ(挑戦者)が対戦し、アリが劇的な逆転KO勝利をおさめた「キンシャサの奇跡」(世界統一ヘビー級タイトルマッチ、1974年)は、攻守所を変えていたが、アリはまさに上記の戦い方だった。小生も先生もみんな授業をおっぽり出してTV観戦したものだ。
スポーツのみならず「血を流さない戦争=外交」「血を流す外交=戦争」における戦略、戦術、作戦は非常に重要なのだ。
「こうすれば、こうなるものと、分かっていながらそうなった」・・・個人の失敗は「アハハハ、みんなそんなもだよ」で済むが、戦争はそうはいかないから、しっかり学ばないと50年、100年、惨めな思いをする。「後の祭り」はもう沢山だ。
<明治から昭和期の日本人は、1862~70年の(ドイツ帝国樹立時の)ビスマルク外交には大いに関心を払い、果敢で武断主義的な戦略を一所懸命に模倣したが、その後の帝国宰相期(1871~90年)の慎重に熟慮された巧妙な勢力均衡外交には、ほとんど興味を示さなかった。
ビスマルクは1871年1月に帝国を創立した後は、一切の拡張主義的な行動を断念するようになった。1880年代、ドイツ陸軍が世界一強力な戦力を獲得し、周囲の大国を撃破して領土拡大できるようになっても、「鉄血宰相」ビスマルクは、「勝てる戦争をやってはいかん、ドイツには戦争は不要だ。これ以上勝ってもドイツの長期的な国益にはならない」と避戦主義の立場を堅持したのである>
祭りでみんながノリノリ、ワッショイワッショイのときに100人神輿を止めるなんてできやしない、「踏みつぶすぞ、この野郎!」、弾き飛ばされてしまう。ビスマルクは「私は正義病」のドイツ国民の怨嗟の的、罵詈讒謗を浴びたのだった。
苦しくなるとビスマルクは年下の皇帝に愚痴をぶつけ、床に寝転がってジタバタ、大泣きする、皇帝はオロオロし、「たとえ朕一人でも最後までお前を信じている」と慰めるのだった。全く絶妙なコンビ、天の配剤だったなあ。皇室制度はあった方がいいのである。(つづく)
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/150(2020/7/27/月】久し振りに生田緑地を散歩したが、花菖蒲と紫陽花が咲き終わり、向日葵はまだなので、花の気配はなかった。その代わりに高さ30mほどのメタセコイア(スギ科)が50本ほども林立している池端は圧巻だった。
その森の奥の方で大きなテーブルに集っている人がいる。キャンプ気分でランチを楽しむのかなあと、よく見ると、乙女が5人・・・うーん、シュールだなあ、「草上の昼食」・・・脱ぎだすのか・・・いよいよ俺も幻覚か? 茫然と見ていると・・・ナント、3密回避の屋外美容教室だった。
<訪問美容はサロンワークとは違ったやりがいを感じられます。 私たちのお客様には、色々な方がいらっしゃいます。施設内での日常生活に退屈されている方。ご家族の来訪が少ない方。まわりに気兼ねなく、お話できる人がいない方など。私たちは毎月定期的にお伺いするのですが、その時間を心待ちにされている方も少なくありません>(訪問美容グラシス)
すごいなあ、「いつまでも美しくありたい、お喋りしたい・・・」、3姫は車椅子だった。ニーズがあればビジネスが生まれ、さらにニーズが開拓され、ビジネスが大きくなる・・・
<待つ美容師から、訪れる美容師へ! 理美容室の数はコンビニの5倍! 若者ターゲットから訪問美容へのシフトで差別化を!>(介護美容研究所)
みんなタフ!「もうボクは付いていけません・・・けど、I have a dream、鬼畜中共、撃ちてし止まん!」、ほとんどビョーキ、ステージ4、今日も前進だあ!
閑話休題。天に向かって真っすぐに伸びているメタセコイアの姿は神秘的であり、ドイツのケルン大聖堂は70m超の高さになるドイツトウヒ(マツ科)の森や、両手を合わせて天に祈る姿をモチーフにしたという説がある。
ドイツトウヒはクリスマスツリーに使われる樹木だからキリスト教とは縁があるわけだ。
WIKIで調べたら、このケルン大聖堂、1880年8月14日に初代ドイツ皇帝ウィルヘルム1世臨席の下、完成祝賀式典が催された。当然、宰相ビスマルクも同席したはずだ。(皇帝は普遍性のある大黒柱、スタビライザーだから当時の欧州では推戴する国が多かった。名門の貴種は大いに珍重されたという)
1873年3月、訪欧中の岩倉使節団はベルリンにおいてビスマルクに接し、「日本も大いに富国強兵せにゃならん」と発奮したが、80年代になるとリアリストのビスマルクは“君子豹変”したのである。
伊藤貫氏の「歴史に残る外交三賢人」から。
<1873年3月、訪欧中の岩倉使節団を接遇したビスマルクは、実は「果敢な武断主義者」から「慎重で避戦的な勢力均衡主義者」に移行している最中であったが、彼はそのことを岩倉使節団に説明しなかった。
たとえ説明したとしても、当時の日本人には理解されなかったろう。「バランス・オブ・パワー/勢力均衡外交」は、17~19世紀の西欧外交史に関する質の高い知識がなければ理解できないものだからである>
小生思うにビスマルク自身もドイツ帝国樹立後、間がないので、「守勢=防衛戦における勢力均衡外交」の在り方を模索していた時期ではないか。
攻守あれど戦争や競技は物量戦(ハードパワー)と同時に頭脳戦(ソフトパワー)だから、当たり前ながら戦略、戦術、作戦が非常に重要になる。例えば、
ボクシングのタイトル奪取の戦いは、挑戦者は1点でも上回れば勝者になれるからひたすら攻撃する(体力消耗リスクが大きい)、一方でチャンピオンの防衛戦は同点でもタイトル防衛になるから、挑戦者の攻撃をかわしていればいいし、挑戦者がへとへとになったところで乾坤一擲、渾身の一発で大逆転も可能だ。
現世王者ジョージ・フォアマンと無冠の伝説王者モハメド・アリ(挑戦者)が対戦し、アリが劇的な逆転KO勝利をおさめた「キンシャサの奇跡」(世界統一ヘビー級タイトルマッチ、1974年)は、攻守所を変えていたが、アリはまさに上記の戦い方だった。小生も先生もみんな授業をおっぽり出してTV観戦したものだ。
スポーツのみならず「血を流さない戦争=外交」「血を流す外交=戦争」における戦略、戦術、作戦は非常に重要なのだ。
「こうすれば、こうなるものと、分かっていながらそうなった」・・・個人の失敗は「アハハハ、みんなそんなもだよ」で済むが、戦争はそうはいかないから、しっかり学ばないと50年、100年、惨めな思いをする。「後の祭り」はもう沢山だ。
<明治から昭和期の日本人は、1862~70年の(ドイツ帝国樹立時の)ビスマルク外交には大いに関心を払い、果敢で武断主義的な戦略を一所懸命に模倣したが、その後の帝国宰相期(1871~90年)の慎重に熟慮された巧妙な勢力均衡外交には、ほとんど興味を示さなかった。
ビスマルクは1871年1月に帝国を創立した後は、一切の拡張主義的な行動を断念するようになった。1880年代、ドイツ陸軍が世界一強力な戦力を獲得し、周囲の大国を撃破して領土拡大できるようになっても、「鉄血宰相」ビスマルクは、「勝てる戦争をやってはいかん、ドイツには戦争は不要だ。これ以上勝ってもドイツの長期的な国益にはならない」と避戦主義の立場を堅持したのである>
祭りでみんながノリノリ、ワッショイワッショイのときに100人神輿を止めるなんてできやしない、「踏みつぶすぞ、この野郎!」、弾き飛ばされてしまう。ビスマルクは「私は正義病」のドイツ国民の怨嗟の的、罵詈讒謗を浴びたのだった。
苦しくなるとビスマルクは年下の皇帝に愚痴をぶつけ、床に寝転がってジタバタ、大泣きする、皇帝はオロオロし、「たとえ朕一人でも最後までお前を信じている」と慰めるのだった。全く絶妙なコンビ、天の配剤だったなあ。皇室制度はあった方がいいのである。(つづく)