雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(33」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/143(2020/7/16/木】もうすぐ梅雨明けだが、「今年はよく降るなあ」とは毎年の嘆息だろうと思っていたら、例年の3~7倍も降っているという。あちこちで水害が発生して大変だ。
想定外 いつでもあるよ 覚悟しな 悔いているより まずは前進(修)
生きている、生かされている、這ってでも前へ進もうという気概を持ち続けるのは大変だが、大災難の体験者として自分と周囲を観察、記録しておく、それが天命だ、と思うこともいいのではないか。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
鴨長明の「方丈記」1177~1185年の大火、竜巻、飢饉、大地震などの貴重な記録だ。この書によって我々は多くのことを学ぶ。転んでも、死ぬ目に遭ってもただでは起きないという根性、気概、好奇心、使命感は大事だと思う。
水害で溺れたという実に希少な経験をした小生は7歳だったからあまり覚えていないのは残念だった。
<狩野川台風(かのがわたいふう)は、1958年(昭和33年)9月26日に伊豆半島に接近し、翌27日に神奈川県に上陸して、静岡県伊豆地方と関東地方に甚大な被害をもたらした。
狩野川台風は、1951年の統計開始以降で死者・行方不明者数が3番目に、負傷者数が9番目にそれぞれ多い台風となり、さらに台風による浸水被害は統計史上1位の件数となるなど、日本における台風の歴史の中でも記録的な被害をもたらした>(WIKI)
川や雨は「恩恵>水害」で、コンクリートで固めるとまったく風情はなくなるので難しい。小生の愛する多摩丘陵(多摩区)は土砂災害特別警戒区域が136もあり、どう考えても崩れそうな斜面にマンションが建てられていく。
平地は洪水、斜面は崩壊・・・地震もあるし・・・絶対安全なんていう土地はないということだな、当たり前か。
梅雨になると田植えを思い出す。わが街は「稲田地区」とも呼ばれているくらい稲作は盛んだったが、今は水田はほとんど住宅地と化した。
<水田:主として水稲を栽培するために周囲にあぜをつくり,水をたたえることのできるようにした耕地。水稲の栽培は日本には縄文時代には伝来しており,最初河口などの湿地での無肥料,直播であったが,弥生時代中期には水田用のあぜや水路が存在したことが確認されている。
2014年現在日本の総耕地面積は 451万8000ha,うち水田は 157万3000ha。北海道・東北・北陸地方では水田単作であるが,東海以南の地方では多毛作を採用するなど,集約的な利用形態がとられている。
水田稲作は北緯 51°(ロシア極東なら樺太の中央、沿海地方あたり)から南緯 35°(豪州ならシドニーあたり)までの地球上の各地に普及しており,特に日本,中国,朝鮮半島,インド,ミャンマー,ベトナム,タイなどの東南アジア諸国と,米国のカリフォルニア州などで盛んである>(ブリタニカ)
ネットによると豪州のコメ生産は日本人が「種まく人」だった。WW2で豪まで攻め入ったのにも驚いたが、いやはやご先祖様は大したものだ。
<松山藩の武士の息子として育った高須賀穣氏は18歳で結婚し、その後松山市選出の帝国議会議員として活躍後、知人の影響で、オーストラリアに渡りました。
彼は広大な豪州の地で、米作りにチャレンジしようとしたのです。当時、オーストラリアには、米を作る農家はなく、設備も種もない中で、無謀ともいえる挑戦がはじまりました。
高須賀穣氏が政府から土地を割り当てられ米作りをはじめたのが1906年。家族で水路や田をつくり、米作りを試みるも羊が敷地に入る被害や、水不足や洪水、旱魃などさまざまな問題に直面し、何年もの間、失敗を繰り返しました。
洪水をコントロールする堤防をつくるなど、米を作るための努力を続けた高須賀穣氏が米の商業生産に成功したのは1914年。米作りの挑戦をはじめてから8年後のことです。
収穫した種子を、種子業者およびニュー・サウス・ウェールズ州農業省に販売。南オーストラリアで育成された米が商業販売されたのは初めてのことで、劣悪な環境下の中での偉業といえます。
高須賀穣氏の籾は、(シドニー近い)リートンで最初に試みた米作りに使用され、その後、ジャポニカ米の研究に力が注がれることになりました。10年後、リートンの米づくりは、オーストラリアの農業の中で最も成功を収めた米産業へと発展しました。やがて、オーストラリアの米産業は、他国へ輸出するまでに成功したのです>
氏は「豪州米の父」と呼ばれ、「穣」というブランド米も日本に輸出されている。それにしても豪の農家一戸の水田は400ha、日本の400倍だという。戦前の日本が満洲開拓に必死で励んだ気持ちが分かるなあ。
話を戻すと、孫の通う市立下布田小学校では校内の田んぼで田植えを体験する。
「泥の中で作業をすることにはじめは抵抗があったみたいですが、徐々に泥にも慣れJA職員指導のもと1本1本丁寧に真剣に田植えを行いました。普段当たり前に食卓に並ぶお米も作業の1つでもこんなに大変なものだと実感し、米作りの大変さとまた日々味わうことの喜びを改めて感じ取れた貴重な体験となりました」(JAセレサ川崎)
人口150万人の川崎市だが、農地面積は東京ドーム換算でたったの66個分しかない。豪州や米国なら農家1軒分にも満たない。果樹園(多摩川梨)と野菜畑がほとんどで、水田はまさに希少な「歴史遺産」だ。
わが街の東には奇跡的に水田が残っている。見に行ったら50m四方で中型マンションなら一つ分だ。小型コンバインで苗はすっかり田植えされ、20センチほどに育っており、合鴨のつがいがのんびり泳いでいた。
「川崎市生産緑地」に指定されているが、相続税(贈与税)納税猶予制度があるものの、地主には生産緑地はどうも人気がない。「公道へのアクセスが悪いからマンションは無理。とりあえず生産緑地にでもしておこう、俺の趣味にもなるし」という感じのようだ。
近くに豪邸があり、水田のオーナーかも知れない、違っても何か話が聞けるだろうと門前に行ってみたが、「来訪者お断り」的な雰囲気があったから止めた。わが街の地主は「土地を活用しませんか」の訪問者にうんざりしているのだ。
我が家の近くの生産緑地オーナーは小生が10年以上かけて手なずけたので、最近はようやくニコニコするようになった。もう5年もすれば土地は俺のものだ・・・とはならないけど、「このトマト、烏がつついちゃって売りものにならないから、良かったら持ってって」くらいにはなるだろう、小生が生きていれば。
この春に中姉が解離性大動脈瘤の手術を受けたが、介助されながら10分ほど歩くのが限界だという。一昨年は大姉が同じ病気で手術している。そういうDNAかも知れない。穏やかに暮らしていても一寸先は闇、知らぬが仏だな。
良き人も ダメな人でも 差別なし 天網恢恢 病魔は襲う(修)
やるべきこと、やりたいことは生き急ぐようにどんどんやっていった方がいい。心技体、気力・能力・風向きなどの充実を待っていたら、何もしないうちにエンディングだ。
走りながら考える、考えながら走る。自分の運命は他者をあてにせず自分で切り開く・・・連帯を求めるも孤立を恐れず、まずは自立した人間、自立した国家であることが大事、一丁目一番地だ。
戦後世界の「仁義なき戦い:国際編」を振り返れば――
1945年から米国組とソ連組の二大勢力の冷戦時代になった。1949年にはソ連の支援を受けて支那に中共組が結成された。
中共組は60年代には金欠のソ連組から離脱、70年代以降は金満の米国組をたらし込んで順調に軍事力、政治力を強めていった。
米ソの血を流さない覇権戦争は、核戦力など軍拡競争の果てに1989年、ソ連組は金欠でつぶれ、規模を縮小してロシア組に再編されたが、ひもじくても軍拡こそが国の柱だという民族性から軍事力強化を進めている。
中共組は「私はパンダ、大きいけれど無害よ、抱きしめて」と米国組にすり寄り、米国組はみなパンダハガーになった。尻の毛まで抜かれるという体たらく。
このままなら世界はそれなりに安定していたかもしれない。
「まあ、色々あるけどね、ケンカになると、それでなくても危ういオカラ工事、手抜き工事、土手より福祉、安全より見栄えのダムとか、俺らの極道世界でも積み木崩しが一気に起きかねないからね、隠忍自重とか見て見ぬ振りとかしておいた方がいいんでね」
(ダムと言えば、台湾は攻撃されたら某国の巨大ダムをミサイルでぶっ飛ばす覚悟とか。WW2でも英国はドイツのダム4か所を空爆、2か所で決壊に成功。操業不能に陥った軍需工場は125箇所に及んだという。要塞のように迎撃態勢が整っているのでダム攻撃は難しいようだ)
中共組に色々不都合はあってもとりあえずは日和見で・・・それはそれで一理か二理か三理はあるだろう。理想とは離れているけれど、地獄ではない、火種はあるけれど下手に水を掛けたら一気に燃え上がりかねない、今は警戒するだけにしておこう、と。それなりの平和的な安定ではある。
ところが好事魔多し、「歴史は銃口から生まれる、東風が世界を制す」という毛沢東原理主義の遅れてきた妄想性痴呆症紅衛兵・習近平と、「俺はボランティアの武装サンタじゃない!米国復活はタダ乗り中共バッシングと上納金をケチる組員叩きから」という怒鳴る人・トランプが、「戦後的疑似的それなり平和体制」に露骨に、遠慮なしに削岩機で穴を開け始めたのである。
ヘビー級1位が2位にジャブを当て、2位がコーナーに下がったところで武漢出身コロナ服の変な奴が現れて毒薬を撒き試合中断。
1位は組長選挙の真っ最中。2位は我が身が臨時組長選挙で引き吊り降ろされかねない不安に加えて、ライバルのインド組が敵意を募らせ、すこぶる怪しいロシア組がインドに秋波を送り、香港レイプで欧州からも非難されるという自業自得の緊縛状態・・・
米国のオンリーさんになって仁義なき戦いを「私は敗者、戦争はもうこりごり、愛に生きるの」とせっせと芸者フジヤマ、トランジスターガール、カー、ゲーム、マンガ、バラマキ援助資金で血を流さずに一国平和主義でやり過ごしてきた撫子ジャパン。
そういう時代は今、終わり始めた。第1ラウンドがたまたま中断しただけ、またゴングが鳴ってゲームは熱く燃え上がるだろう。
歴史は損得や理性ではなく概ね感情で動くのではないか。少なくとも二つの世界大戦は(ドイツ人の)気分、感情、発狂で始まり、最後は原爆という冷静冷酷な無差別大量殺人実験で終わった。
結婚は感情による。理性で結婚する人は稀である。一方で離婚する際は皆いろいろ損得などを勉強し、理性でする。一時的な感情で離婚する人はまずいない、目に一丁字もない人が「貰うものは貰う!」と「ニコニコ離婚講座」を真剣に読んだりして理性、勘定を働かす。
理性で冷静冷酷な対日作戦を練り、米の国民感情を盛り上げる・・・FDRルーズベルトは上手かった! 初心な日本はまんまと罠にはまった。この際だからオンリーになっちゃおうと決めた吉田茂も岸信介も大したものだ。えげつないリアリスト。
今、日本は大きな選択を迫られている。
米国から富岳級の中距離核ミサイルをレンタルして(あるいは独自に開発して)ハリネズミになって閉じこもるか、それとも核保有国として対中戦で米国組・英印豪加台とともに打って出るか。
世界は永世中立のスイス(銀行)を必要としているが、スイスだけで充分である。ハリネズミの巣ごもり戦略は戦勝国、敗戦国の双方から侮蔑されるからまず亡国になる。
即ち日本は抑止的核武装をして第一線で戦うのがベストだ。敗戦国から脱して列強の地位を取り戻し、少なくとも東シナ海の安全に大いに寄与すべきだ。
(スイスは全人口を収容できる核シェルターを備えている。覚悟が違う)
また、日本の何とも言えないアバウトな“多神教”、どこでも神、なんでも神、アンタも神、おいらも神という考えを広めれば世界はずいぶん天国に近づくのではないか。
宗教/神のために人間があるのではない、人間のために宗教/神がある、心の中のわが内なる神性を磨き、人間の幸福に寄与せよ、世界は一家、人類は皆兄弟姉妹、八紘一宇・・・いい教えだ。
戦争のない世界、恒久平和の世界へ。世界は日の出を待っている・・・100年、200年の長いプロジェクトだが、2000年も一つの国であり続けた日本ならできるだろう。(2020/7/16)
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/143(2020/7/16/木】もうすぐ梅雨明けだが、「今年はよく降るなあ」とは毎年の嘆息だろうと思っていたら、例年の3~7倍も降っているという。あちこちで水害が発生して大変だ。
想定外 いつでもあるよ 覚悟しな 悔いているより まずは前進(修)
生きている、生かされている、這ってでも前へ進もうという気概を持ち続けるのは大変だが、大災難の体験者として自分と周囲を観察、記録しておく、それが天命だ、と思うこともいいのではないか。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
鴨長明の「方丈記」1177~1185年の大火、竜巻、飢饉、大地震などの貴重な記録だ。この書によって我々は多くのことを学ぶ。転んでも、死ぬ目に遭ってもただでは起きないという根性、気概、好奇心、使命感は大事だと思う。
水害で溺れたという実に希少な経験をした小生は7歳だったからあまり覚えていないのは残念だった。
<狩野川台風(かのがわたいふう)は、1958年(昭和33年)9月26日に伊豆半島に接近し、翌27日に神奈川県に上陸して、静岡県伊豆地方と関東地方に甚大な被害をもたらした。
狩野川台風は、1951年の統計開始以降で死者・行方不明者数が3番目に、負傷者数が9番目にそれぞれ多い台風となり、さらに台風による浸水被害は統計史上1位の件数となるなど、日本における台風の歴史の中でも記録的な被害をもたらした>(WIKI)
川や雨は「恩恵>水害」で、コンクリートで固めるとまったく風情はなくなるので難しい。小生の愛する多摩丘陵(多摩区)は土砂災害特別警戒区域が136もあり、どう考えても崩れそうな斜面にマンションが建てられていく。
平地は洪水、斜面は崩壊・・・地震もあるし・・・絶対安全なんていう土地はないということだな、当たり前か。
梅雨になると田植えを思い出す。わが街は「稲田地区」とも呼ばれているくらい稲作は盛んだったが、今は水田はほとんど住宅地と化した。
<水田:主として水稲を栽培するために周囲にあぜをつくり,水をたたえることのできるようにした耕地。水稲の栽培は日本には縄文時代には伝来しており,最初河口などの湿地での無肥料,直播であったが,弥生時代中期には水田用のあぜや水路が存在したことが確認されている。
2014年現在日本の総耕地面積は 451万8000ha,うち水田は 157万3000ha。北海道・東北・北陸地方では水田単作であるが,東海以南の地方では多毛作を採用するなど,集約的な利用形態がとられている。
水田稲作は北緯 51°(ロシア極東なら樺太の中央、沿海地方あたり)から南緯 35°(豪州ならシドニーあたり)までの地球上の各地に普及しており,特に日本,中国,朝鮮半島,インド,ミャンマー,ベトナム,タイなどの東南アジア諸国と,米国のカリフォルニア州などで盛んである>(ブリタニカ)
ネットによると豪州のコメ生産は日本人が「種まく人」だった。WW2で豪まで攻め入ったのにも驚いたが、いやはやご先祖様は大したものだ。
<松山藩の武士の息子として育った高須賀穣氏は18歳で結婚し、その後松山市選出の帝国議会議員として活躍後、知人の影響で、オーストラリアに渡りました。
彼は広大な豪州の地で、米作りにチャレンジしようとしたのです。当時、オーストラリアには、米を作る農家はなく、設備も種もない中で、無謀ともいえる挑戦がはじまりました。
高須賀穣氏が政府から土地を割り当てられ米作りをはじめたのが1906年。家族で水路や田をつくり、米作りを試みるも羊が敷地に入る被害や、水不足や洪水、旱魃などさまざまな問題に直面し、何年もの間、失敗を繰り返しました。
洪水をコントロールする堤防をつくるなど、米を作るための努力を続けた高須賀穣氏が米の商業生産に成功したのは1914年。米作りの挑戦をはじめてから8年後のことです。
収穫した種子を、種子業者およびニュー・サウス・ウェールズ州農業省に販売。南オーストラリアで育成された米が商業販売されたのは初めてのことで、劣悪な環境下の中での偉業といえます。
高須賀穣氏の籾は、(シドニー近い)リートンで最初に試みた米作りに使用され、その後、ジャポニカ米の研究に力が注がれることになりました。10年後、リートンの米づくりは、オーストラリアの農業の中で最も成功を収めた米産業へと発展しました。やがて、オーストラリアの米産業は、他国へ輸出するまでに成功したのです>
氏は「豪州米の父」と呼ばれ、「穣」というブランド米も日本に輸出されている。それにしても豪の農家一戸の水田は400ha、日本の400倍だという。戦前の日本が満洲開拓に必死で励んだ気持ちが分かるなあ。
話を戻すと、孫の通う市立下布田小学校では校内の田んぼで田植えを体験する。
「泥の中で作業をすることにはじめは抵抗があったみたいですが、徐々に泥にも慣れJA職員指導のもと1本1本丁寧に真剣に田植えを行いました。普段当たり前に食卓に並ぶお米も作業の1つでもこんなに大変なものだと実感し、米作りの大変さとまた日々味わうことの喜びを改めて感じ取れた貴重な体験となりました」(JAセレサ川崎)
人口150万人の川崎市だが、農地面積は東京ドーム換算でたったの66個分しかない。豪州や米国なら農家1軒分にも満たない。果樹園(多摩川梨)と野菜畑がほとんどで、水田はまさに希少な「歴史遺産」だ。
わが街の東には奇跡的に水田が残っている。見に行ったら50m四方で中型マンションなら一つ分だ。小型コンバインで苗はすっかり田植えされ、20センチほどに育っており、合鴨のつがいがのんびり泳いでいた。
「川崎市生産緑地」に指定されているが、相続税(贈与税)納税猶予制度があるものの、地主には生産緑地はどうも人気がない。「公道へのアクセスが悪いからマンションは無理。とりあえず生産緑地にでもしておこう、俺の趣味にもなるし」という感じのようだ。
近くに豪邸があり、水田のオーナーかも知れない、違っても何か話が聞けるだろうと門前に行ってみたが、「来訪者お断り」的な雰囲気があったから止めた。わが街の地主は「土地を活用しませんか」の訪問者にうんざりしているのだ。
我が家の近くの生産緑地オーナーは小生が10年以上かけて手なずけたので、最近はようやくニコニコするようになった。もう5年もすれば土地は俺のものだ・・・とはならないけど、「このトマト、烏がつついちゃって売りものにならないから、良かったら持ってって」くらいにはなるだろう、小生が生きていれば。
この春に中姉が解離性大動脈瘤の手術を受けたが、介助されながら10分ほど歩くのが限界だという。一昨年は大姉が同じ病気で手術している。そういうDNAかも知れない。穏やかに暮らしていても一寸先は闇、知らぬが仏だな。
良き人も ダメな人でも 差別なし 天網恢恢 病魔は襲う(修)
やるべきこと、やりたいことは生き急ぐようにどんどんやっていった方がいい。心技体、気力・能力・風向きなどの充実を待っていたら、何もしないうちにエンディングだ。
走りながら考える、考えながら走る。自分の運命は他者をあてにせず自分で切り開く・・・連帯を求めるも孤立を恐れず、まずは自立した人間、自立した国家であることが大事、一丁目一番地だ。
戦後世界の「仁義なき戦い:国際編」を振り返れば――
1945年から米国組とソ連組の二大勢力の冷戦時代になった。1949年にはソ連の支援を受けて支那に中共組が結成された。
中共組は60年代には金欠のソ連組から離脱、70年代以降は金満の米国組をたらし込んで順調に軍事力、政治力を強めていった。
米ソの血を流さない覇権戦争は、核戦力など軍拡競争の果てに1989年、ソ連組は金欠でつぶれ、規模を縮小してロシア組に再編されたが、ひもじくても軍拡こそが国の柱だという民族性から軍事力強化を進めている。
中共組は「私はパンダ、大きいけれど無害よ、抱きしめて」と米国組にすり寄り、米国組はみなパンダハガーになった。尻の毛まで抜かれるという体たらく。
このままなら世界はそれなりに安定していたかもしれない。
「まあ、色々あるけどね、ケンカになると、それでなくても危ういオカラ工事、手抜き工事、土手より福祉、安全より見栄えのダムとか、俺らの極道世界でも積み木崩しが一気に起きかねないからね、隠忍自重とか見て見ぬ振りとかしておいた方がいいんでね」
(ダムと言えば、台湾は攻撃されたら某国の巨大ダムをミサイルでぶっ飛ばす覚悟とか。WW2でも英国はドイツのダム4か所を空爆、2か所で決壊に成功。操業不能に陥った軍需工場は125箇所に及んだという。要塞のように迎撃態勢が整っているのでダム攻撃は難しいようだ)
中共組に色々不都合はあってもとりあえずは日和見で・・・それはそれで一理か二理か三理はあるだろう。理想とは離れているけれど、地獄ではない、火種はあるけれど下手に水を掛けたら一気に燃え上がりかねない、今は警戒するだけにしておこう、と。それなりの平和的な安定ではある。
ところが好事魔多し、「歴史は銃口から生まれる、東風が世界を制す」という毛沢東原理主義の遅れてきた妄想性痴呆症紅衛兵・習近平と、「俺はボランティアの武装サンタじゃない!米国復活はタダ乗り中共バッシングと上納金をケチる組員叩きから」という怒鳴る人・トランプが、「戦後的疑似的それなり平和体制」に露骨に、遠慮なしに削岩機で穴を開け始めたのである。
ヘビー級1位が2位にジャブを当て、2位がコーナーに下がったところで武漢出身コロナ服の変な奴が現れて毒薬を撒き試合中断。
1位は組長選挙の真っ最中。2位は我が身が臨時組長選挙で引き吊り降ろされかねない不安に加えて、ライバルのインド組が敵意を募らせ、すこぶる怪しいロシア組がインドに秋波を送り、香港レイプで欧州からも非難されるという自業自得の緊縛状態・・・
米国のオンリーさんになって仁義なき戦いを「私は敗者、戦争はもうこりごり、愛に生きるの」とせっせと芸者フジヤマ、トランジスターガール、カー、ゲーム、マンガ、バラマキ援助資金で血を流さずに一国平和主義でやり過ごしてきた撫子ジャパン。
そういう時代は今、終わり始めた。第1ラウンドがたまたま中断しただけ、またゴングが鳴ってゲームは熱く燃え上がるだろう。
歴史は損得や理性ではなく概ね感情で動くのではないか。少なくとも二つの世界大戦は(ドイツ人の)気分、感情、発狂で始まり、最後は原爆という冷静冷酷な無差別大量殺人実験で終わった。
結婚は感情による。理性で結婚する人は稀である。一方で離婚する際は皆いろいろ損得などを勉強し、理性でする。一時的な感情で離婚する人はまずいない、目に一丁字もない人が「貰うものは貰う!」と「ニコニコ離婚講座」を真剣に読んだりして理性、勘定を働かす。
理性で冷静冷酷な対日作戦を練り、米の国民感情を盛り上げる・・・FDRルーズベルトは上手かった! 初心な日本はまんまと罠にはまった。この際だからオンリーになっちゃおうと決めた吉田茂も岸信介も大したものだ。えげつないリアリスト。
今、日本は大きな選択を迫られている。
米国から富岳級の中距離核ミサイルをレンタルして(あるいは独自に開発して)ハリネズミになって閉じこもるか、それとも核保有国として対中戦で米国組・英印豪加台とともに打って出るか。
世界は永世中立のスイス(銀行)を必要としているが、スイスだけで充分である。ハリネズミの巣ごもり戦略は戦勝国、敗戦国の双方から侮蔑されるからまず亡国になる。
即ち日本は抑止的核武装をして第一線で戦うのがベストだ。敗戦国から脱して列強の地位を取り戻し、少なくとも東シナ海の安全に大いに寄与すべきだ。
(スイスは全人口を収容できる核シェルターを備えている。覚悟が違う)
また、日本の何とも言えないアバウトな“多神教”、どこでも神、なんでも神、アンタも神、おいらも神という考えを広めれば世界はずいぶん天国に近づくのではないか。
宗教/神のために人間があるのではない、人間のために宗教/神がある、心の中のわが内なる神性を磨き、人間の幸福に寄与せよ、世界は一家、人類は皆兄弟姉妹、八紘一宇・・・いい教えだ。
戦争のない世界、恒久平和の世界へ。世界は日の出を待っている・・・100年、200年の長いプロジェクトだが、2000年も一つの国であり続けた日本ならできるだろう。(2020/7/16)