毎日新聞によると
『東日本大震災の津波で犠牲になった常磐山元自動車学校(宮城県山元町)の教習生25人と従業員1人の遺族が、学校側に計約19億7000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が13日、仙台地裁である。行方不明の従業員、大久保真希さん(当時27歳)の両親は提訴後、勤務中に犠牲となった別の企業の従業員遺族とも交流を始めた。「どんな判決が出ても、これからも一緒に企業防災の大切さを訴え続けたい」。そんな思いで判決を待つ。
2014年11月22日、山元自動車学校跡地に、七十七銀行女川支店(同県女川町、2階建て)の屋上に避難して津波の犠牲になった従業員の遺族5人の姿があった。銀行で長男健太さん(当時25歳)を亡くした田村弘美さん(52)は、真希さんの両親がしつらえた祭壇に淡いピンクのガーベラの花束を供えた。
「良かったね。真希ちゃんの好きな花だね」と母恵子さん(57)。「うちも菊は飾りたくないの。リボンも白じゃなくて明るい色を選んでしまうよね」と弘美さんが言うと、恵子さんは何度もうなずいた。
遺族側によると、山元自動車学校では地震発生約1時間後の11年3月11日午後3時35〜45分ごろ、教習生を乗せた送迎車が順次出発。うち4台が津波にのまれ、18〜19歳の教習生23人が死亡、徒歩で帰宅途中の2人も死亡した。真希さんを含め教官や従業員ら学校側の11人も犠牲になった。
教習生25人の遺族は11年10月、「学校が情報収集を怠り、内陸へ教習生を避難させなかった」と提訴。大久保さん夫妻も12年4月に「震災時の娘の様子をはっきりさせたい」と追加提訴し、審理が併合された。学校側は「海から約750メートルにある学校への津波到達は予見できなかった」と反論している。
訴訟では、生き残った学校関係者や教習生の証人尋問を通じ、上司の指示で片付けをしていたことなど、真希さんの当時の様子を初めて知ることができた。父三夫(みつお)さん(62)は「裁判をやって良かった」と言い切る。
他の震災遺族と再発防止への願いを共有できたことも、裁判をして良かったと思える理由の一つだ。学校の跡地で三夫さんが海からの距離や防災無線の位置などを説明すると、健太さんの父孝行さん(54)は「すぐに高台に逃げなかった今回のことを良しとしたら、従業員の命は守れない」とうなずいた。「多くを話さなくても気持ちを分かり合え、私たちだけじゃないと思える」と恵子さんは言う。
「津波の時は、何を差し置いても会社は従業員をすぐに避難させてほしい」。三夫さんは後世への教訓となる判決を望む。そして、他の遺族と手を携えながら伝えていくべきことがあると考えている』とのことです。
判決の結果は予断を許しませんが,被害者家族にはできるだけのことはやったとの満足感は残るでしょう。弁護士はたいてい訴訟の勝ち負けを重視しますが,それだけではないのです,訴訟をすることの意味は。
『東日本大震災の津波で犠牲になった常磐山元自動車学校(宮城県山元町)の教習生25人と従業員1人の遺族が、学校側に計約19億7000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が13日、仙台地裁である。行方不明の従業員、大久保真希さん(当時27歳)の両親は提訴後、勤務中に犠牲となった別の企業の従業員遺族とも交流を始めた。「どんな判決が出ても、これからも一緒に企業防災の大切さを訴え続けたい」。そんな思いで判決を待つ。
2014年11月22日、山元自動車学校跡地に、七十七銀行女川支店(同県女川町、2階建て)の屋上に避難して津波の犠牲になった従業員の遺族5人の姿があった。銀行で長男健太さん(当時25歳)を亡くした田村弘美さん(52)は、真希さんの両親がしつらえた祭壇に淡いピンクのガーベラの花束を供えた。
「良かったね。真希ちゃんの好きな花だね」と母恵子さん(57)。「うちも菊は飾りたくないの。リボンも白じゃなくて明るい色を選んでしまうよね」と弘美さんが言うと、恵子さんは何度もうなずいた。
遺族側によると、山元自動車学校では地震発生約1時間後の11年3月11日午後3時35〜45分ごろ、教習生を乗せた送迎車が順次出発。うち4台が津波にのまれ、18〜19歳の教習生23人が死亡、徒歩で帰宅途中の2人も死亡した。真希さんを含め教官や従業員ら学校側の11人も犠牲になった。
教習生25人の遺族は11年10月、「学校が情報収集を怠り、内陸へ教習生を避難させなかった」と提訴。大久保さん夫妻も12年4月に「震災時の娘の様子をはっきりさせたい」と追加提訴し、審理が併合された。学校側は「海から約750メートルにある学校への津波到達は予見できなかった」と反論している。
訴訟では、生き残った学校関係者や教習生の証人尋問を通じ、上司の指示で片付けをしていたことなど、真希さんの当時の様子を初めて知ることができた。父三夫(みつお)さん(62)は「裁判をやって良かった」と言い切る。
他の震災遺族と再発防止への願いを共有できたことも、裁判をして良かったと思える理由の一つだ。学校の跡地で三夫さんが海からの距離や防災無線の位置などを説明すると、健太さんの父孝行さん(54)は「すぐに高台に逃げなかった今回のことを良しとしたら、従業員の命は守れない」とうなずいた。「多くを話さなくても気持ちを分かり合え、私たちだけじゃないと思える」と恵子さんは言う。
「津波の時は、何を差し置いても会社は従業員をすぐに避難させてほしい」。三夫さんは後世への教訓となる判決を望む。そして、他の遺族と手を携えながら伝えていくべきことがあると考えている』とのことです。
判決の結果は予断を許しませんが,被害者家族にはできるだけのことはやったとの満足感は残るでしょう。弁護士はたいてい訴訟の勝ち負けを重視しますが,それだけではないのです,訴訟をすることの意味は。