1975年 ラジオのトップ10番組で
1位の座についた
「いちご白書をもう一度」
バンバンに書き下ろした「いちご白書をもう一度」は荒井由実クレジット。
ソングライターとしての素質が発揮された渾身の一曲だ。
学生運動の熱がさめ
それを青春の終わりと思い、
大人になる事、大人にならなきゃいけない事=就職という
図式にひとつの青春の
終わりと始まりを歌った歌。
♪僕は無精髭と髪をのばして
学生集会へも時々出かけた
就職が決まって
髪を切って来た時
もう若くないさと
君に言い訳したね…
と歌い…
中島みゆきさんは
♪
そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
いつか笑って話せるわ
と歌った。
ひとつの熱い時代が終わろうとしていた。
その時代の燃えかすを
時代のレクイエムのように
彼女たちは歌にした
熱かった時代…学園闘争 そこにともにあった歌
メッセージソング
癒しの歌70年代前半を総括するために
荒井由実さんや
中島みゆきさんは
歌の世界に引っ張りだされた
いわば天から選ばれた
才女のようだった。
その様を中島みゆきさんは本人が歌い、ユーミンは
バンバンというフォークグループに
歌ってもらった
眼のでなかったフォークデュオが
荒井由実の暗さ(フォーク的歌の世界)を歌って見せた。
個性と合わない歌をつくりあげた
荒井由実の「いちご白書をもう一度」だったが
歌いたい歌と作品としての歌との区分けが可能な女性ならではの
本音と建前の使い分け的な
作品作りが際立っていったのは
彼女たちから始まったといえる。
まさかこれがあのユーミンの作品?
と思わせる
「いちご白書をもう一度」
作り手の手を完全に離れてパズルのピースのようにカチッと
バンバンにハマって彼らの作品として世に放たれた。
そう思えばらしからぬ
作品として言えば
吉田拓郎の
襟裳岬にしても
フォークが演歌を席巻してみせた
前例もあるように
クロスオーバーしたものに
新たな価値が生まれる流れをつくったのも
吉田拓郎からでもある。
この四名の凄いところは
シンガーとしても
そうなのだけれど
ソングライターとしての
才能も秀逸で
ユーミンはこのバンバンへの提供曲の大ヒットのあと
その後
松田聖子さんとの仕事でまた、新たなソングライターとしての名を馳せていくのだが…
ソングライターとして遅咲きの井上陽水さんはこの時代まだ
提供曲というものは
目立ってなかった。
coverされた歌は
「ロンドン急行」アンデルセンという若い3人組が歌い
かまやつひろしさんも
coverしました。
夢の中へも何人かcoverしてました。
井上陽水さんは
ソングライターとしての魅力にまだ
ハマってなかったようでしたね。
自らが歌って表現する
歌の世界にこだわってばかりの
時代は過ぎ去ろうとして行った1975年以降
表現する世界は他の人に歌ってもらって、そのパーソナルを違う形で表現してもらう
ソングライターとしての魅力を中島みゆきさんは同時進行的にはじめて行ったようだ。
76年に研ナオコさんに提供された歌
「LaLaLa 」がある
中島みゆきさんが初めて他人のために書き下ろした曲。
その後 持ち歌だった
「あばよ」を歌うことになるのだが
アザミ嬢のララバイという歌に惹かれた研ナオコさんが中島みゆきさんに直接
LaLaLaの後に歌う曲をリクエストされ持ち歌だった「あばよ」を歌ってもらうという経緯だった。
歌謡曲の世界もフォーク系、の作品へ寄り始めたキッカケは
フォークは売れる!という前例
「襟裳岬」「シクラメンのかほり」があったように
でももうこの頃は以前のようなフォークブームは終わり
幕引きが始まったと同時に
ニューミュージックという
属さない音楽が出来上がった、そう呼ばれ始めた
その先頭に
荒井由実は松任谷由実となり、中島みゆきはニューミュージックの旗手として
走り始めた助走期間の1976年から80年に向けて
自らが歌う歌
そして他の人が歌う歌
とその魅力が倍々に膨らむ
聞き手に広く世界を知らしめる
そのやり方が確立されてゆく。
それは
自然的な流れでもあったし
既存の作家の先生からの作品でない
新しいモノへの、渇望が
市場が求めはじめていた要求に合致した流れだったのもあった。
つづく…