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その5 拓郎 陽水 由実 みゆき 恒星たちとの時代

2020-05-17 12:53:00 | 拓郎 陽水 由実 みゆき恒星たちとの時代

拓郎、陽水は
アコースティック中心の
いわゆる
フォークソング
70年代初期のメッセージ色の強い歌とは一線を画して
自分、「個」の歌をより鮮明に
歌い上げてゆくようになっていった
当然サウンドも厚みを持っていった

吉田拓郎は
会社社長になり
音楽作り いち、アーティストとしての活動、
本来の活動からかけ離れていた。
つま恋イベントで燃え尽き症候群のあと会社のプロデューサーとして
川村ゆう子
原田真二
大野真澄などをプロデュースしていった。
それと並行して
他人に提供していく
作業が加速していく。
74年の襟裳岬のヒットから
かなりの提供曲の依頼が
74年から始まって75年 へと続いていた。
そして
アイドル石野真子への提供曲
キャンディーズへの提供曲
76〜77年ごろは
歌謡界への
吉田拓郎旋風がまた、吹き荒れていた。
井上陽水は
その先駆け吉田拓郎の活躍するのを近くで見てきたことで
のち80年代に中森明菜、PUFFY等の提供曲にて
遅ればせながら拓郎の後塵を排したけれど
井上陽水の魅力がより味わえる
他人への提供曲の仕事が増えていった。
井上陽水が出遅れた訳は
クスリで逮捕されたゆえ、音楽活動での空白期間が出来たこと
もっといえば
井上陽水は「氷の世界」でミリオンを達成させ
何か面白い事がないか
面白い事…という刺激を求めて音楽以外のものへの興味にシフトしていた時期もあった。
ことさら麻雀なんかも好きで
音楽活動も片手間でやってる風に
映ってしまう時期もあった
それは天才肌を見せる故に自らも思い、また、思わせるところに
陥りやすい罠だったのかもしれない。
本来の主戦場に程なく立ち戻った
井上陽水は80年代の声が聞こえていたはずでそこからエンジンを吹き始めていった


拓郎の歌も
陽水の歌も
実に歌いにくい
独特の
節回し、符割りでアイドル歌手泣かせの歌だった。


拓郎 陽水 由実 みゆき
の四人の共通は
自らが歌ってもヒット曲をもち
他のアーティストに提供した歌でも
ヒット曲を持っている事

荒井由実(松任谷由実)として本格的に提供曲で世間に名を売り始めるのは80年代に入ってからと
遅く
井上陽水の活躍も同じく、
むしろ遅くにデビューした中島みゆきの方が
吉田拓郎が歌謡界で
アイドル中心に提供曲を展開している時代に
時同じくして
中島みゆきも研ナオコや桜田淳子への提供曲を出してヒットさせている

拓郎 みゆきは80年代になる前に先に飛び出して
80年以降
陽水、由実が
アイドル中心に提供した曲が歌謡界をにぎあわせた形となった。

80年代に入って
拓郎さんのヒット曲への確率は
下がってきていた
時代とのマッチングが微妙にずれ始めた、すべてに急ぎ、走り抜けてきた吉田拓郎は時代に飽きていたとも言える。
常に第一線でスキャンダルにさらされながら
時代の旗手として見られていた吉田拓郎も80年代中期以降
全てに疲れていていたのだろう。

その点
井上陽水
松任谷由実
中島みゆき
は時代を背負ったり何かを急がせたりせず
己のペースで事を運ぶことに終始していたことで
アーティストとして直接の風当たり
はほとんどなかったのだろう

常に流行歌を提供続けていた
中島みゆきはのちに
おニャン子の工藤静香への曲提供や、TOKIOに曲提供したり、
常に第一線に顔を出し
引き続き息の長い
ソングライターとしての仕事を続けていった。




つづく





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