ここで云う犬とは、他ならぬ我が家の飼犬チィー坊のことである。チィー坊の出自について少しく疑義のあるところを私の記憶が確かなうちに正しておこうと思う。
チィー坊の母系すなわち母犬は血統の確かな甲斐犬であった。これは元の飼い主である入谷■■氏が山梨県石和温泉の愛犬家から大枚の金と引き換えに連れ帰った犬であって、私自身がこの眼で見ているのだから間違いはない。一方、父系はまったく分らない。つまりどこかの野良犬がきて飼い主も知らないうちに母犬を孕ませたものである。チィー坊は甲斐犬の特徴を色濃く残してはいるが、体毛などは洋犬の特徴を示している。目玉のくりっとした黒の中型犬である。
チィー坊が6歳になるまで育てた入谷■■氏の叔父貴に当たる人物が安東一家井川貸元3代目の故入谷雄一氏である。この人物については、島田市在住の俳人、故松下三郎氏の書かれた一文があるのでここに紹介しておく。
《 ■■さんの話に、清水一家井川貸元、入谷という名前がでてくるが、昔、会ったことのあるお爺さんの縁故の人、あるいは、その人本人である可能性が強い。
昔、山村井川では楽しみが少なかったので,博打の類は結構発達していた。女衆の間でさえも宝引(ホッピキ)が盛んに行われていたし、我々がよくやったのがチョボイチである。もちろん丁半も盛んで、田代の諏訪神社の祭礼には、清水一家の親分が出向くほどで、昔ながらの賭場風景が見事に再現されていた。
この入谷というお爺さんは、大変穏やかな性格だったが、井川近辺の貸元で、川狩り(材木流し)の人足衆について、彼らの行う丁半の胴元をやっていた記憶がある。
昭和30年代初頭、井川ダム建設の関係で、建設業者が大勢はいり込んできたので、地元やくざの入谷お爺さんと、建設業者のやくざとの間でいざこざが起こったことがあった。賭場へ乗り込んできた建設業者のやくざが、縄張りを主張してきて、お爺さんの持っているテラセンの上がり金をよこせといってきたのである。驚いたことに、一見優しそうに見えた、このお爺さんは少しも騒がず、清水一家の縄張りであることを主張して、昔風の見事な仁義を切って退散させたのを覚えている。(松下三郎・・・私の寝言より抜粋)》
ここで松下三郎氏のいう清水一家とは、かの有名な清水次郎長親分の構えた一家である。安東一家貸元の入谷雄一翁がいつの間にか清水一家になってしまうのにはそれなりの理由がある。
次郎長には前後三人の妻がいたことはよく知られている。その三人目の「お蝶さん」は、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。33歳で次郎長の後妻に入ったときには既に実子入谷清太郎がいた。子供がいなかった次郎長はお蝶の連れ子清太郎を非常に可愛がったそうである。
次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。
入谷家の所蔵品の中でも珍しいのは、あの富岡鉄斎の富士の絵である。鉄斎が清水港波止場の『末廣』に泊まった際、描いたものと思われ、お蝶さんの手から、その子清太郎、孫の麟助へと受け継がれて残された。
入谷麟助はお蝶さんと目鼻立ちの似た美男子で、事業家タイプであり、昭和戦前、鈴与商店の関係会社の重役をつとめた。麟助には二人の息子がいたがいずれも太平洋戦争で戦死している。
一方の安東一家とは、幕末の博徒、安東文吉(あんどうのぶんきち、1808年 - 1871年)こと西谷文吉(にしたにぶんきち)が駿河国府中(現:静岡県静岡市葵区)に構えた一家である。文吉は二足草鞋の大親分で別名「暗闇の代官」とか「日本一首継親分」などと呼ばれていた。
文吉は、駿河国安倍郡安東村(現:静岡県静岡市葵区)の豪農であった甲右衛門の子に生まれる。大柄で相撲を好んだため10代の文吉は弟の辰五郎と江戸の清見潟部屋に入門し、芳ノ森の四股名で土俵に上る。後に故郷に戻るがバクチ打ちの群れに入り、自らすすんで人別帖より削られ無宿となる。兄同様に無宿となった弟の辰五郎と府中伝馬町の裏長屋に住み、夜は問屋場の人足部屋で壷を振っていた。この頃、お尋ね者の大場久八も文吉を頼ってくる。文吉20代半ば、友人が「炭彦」親分と借金のもつれで揉めた時には喧嘩相手の炭彦を斬る。この後、衆望を集め親分となるが場所的によい賭場を持っていた事もあり多くの猛者を統率していく。
大勢力となっていく文吉を見込んで天保9年(1838年)、駿河代官所は文吉と辰五郎の兄弟を呼び出して十手取縄を預けようとする。この背景には封建社会の建前だけでは解決できない遠州博徒の騒乱を文吉の手を借りて収めようとする意図があった。揉め事を押し付けられた文吉は固辞したが結局は引き受ける。二足草鞋となってからは乾児に賭場を運営させて、自らはバクチをしなかったとされる。文吉には十手と同様に公用手形の交付権も与えられていたために無宿の旅人で事情を抱えている者はこれを庇っている。「首継親分」の呼び名はこれに由来する。
遠州の博徒、国領屋亀吉こと大谷亀次郎は後年、幕末動乱のやくざ社会の様子を尋ねられた際に「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越喜左衛門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・。みんないい顔だったよ」と名前を挙げているが「文吉さんはどうでしたか」と聞かれた際には土地の方言を使って「あの人はオッカネェー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を畏れたとされる。
安東一家は2代目安東の須磨吉こと西谷須満吉、3代目渡辺綱吉、4代目長倉長作、5代目青木定吉と昭和も戦後まで続いた。なお、安東一家井川貸元の初代は文吉直系の小長井清次郎、2代目は入谷松吉、3代目の雄一は松吉の実子であり昭和36年12月21日行年62歳で没している。
チィー坊の母系すなわち母犬は血統の確かな甲斐犬であった。これは元の飼い主である入谷■■氏が山梨県石和温泉の愛犬家から大枚の金と引き換えに連れ帰った犬であって、私自身がこの眼で見ているのだから間違いはない。一方、父系はまったく分らない。つまりどこかの野良犬がきて飼い主も知らないうちに母犬を孕ませたものである。チィー坊は甲斐犬の特徴を色濃く残してはいるが、体毛などは洋犬の特徴を示している。目玉のくりっとした黒の中型犬である。
チィー坊が6歳になるまで育てた入谷■■氏の叔父貴に当たる人物が安東一家井川貸元3代目の故入谷雄一氏である。この人物については、島田市在住の俳人、故松下三郎氏の書かれた一文があるのでここに紹介しておく。
《 ■■さんの話に、清水一家井川貸元、入谷という名前がでてくるが、昔、会ったことのあるお爺さんの縁故の人、あるいは、その人本人である可能性が強い。
昔、山村井川では楽しみが少なかったので,博打の類は結構発達していた。女衆の間でさえも宝引(ホッピキ)が盛んに行われていたし、我々がよくやったのがチョボイチである。もちろん丁半も盛んで、田代の諏訪神社の祭礼には、清水一家の親分が出向くほどで、昔ながらの賭場風景が見事に再現されていた。
この入谷というお爺さんは、大変穏やかな性格だったが、井川近辺の貸元で、川狩り(材木流し)の人足衆について、彼らの行う丁半の胴元をやっていた記憶がある。
昭和30年代初頭、井川ダム建設の関係で、建設業者が大勢はいり込んできたので、地元やくざの入谷お爺さんと、建設業者のやくざとの間でいざこざが起こったことがあった。賭場へ乗り込んできた建設業者のやくざが、縄張りを主張してきて、お爺さんの持っているテラセンの上がり金をよこせといってきたのである。驚いたことに、一見優しそうに見えた、このお爺さんは少しも騒がず、清水一家の縄張りであることを主張して、昔風の見事な仁義を切って退散させたのを覚えている。(松下三郎・・・私の寝言より抜粋)》
ここで松下三郎氏のいう清水一家とは、かの有名な清水次郎長親分の構えた一家である。安東一家貸元の入谷雄一翁がいつの間にか清水一家になってしまうのにはそれなりの理由がある。
次郎長には前後三人の妻がいたことはよく知られている。その三人目の「お蝶さん」は、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。33歳で次郎長の後妻に入ったときには既に実子入谷清太郎がいた。子供がいなかった次郎長はお蝶の連れ子清太郎を非常に可愛がったそうである。
次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。
入谷家の所蔵品の中でも珍しいのは、あの富岡鉄斎の富士の絵である。鉄斎が清水港波止場の『末廣』に泊まった際、描いたものと思われ、お蝶さんの手から、その子清太郎、孫の麟助へと受け継がれて残された。
入谷麟助はお蝶さんと目鼻立ちの似た美男子で、事業家タイプであり、昭和戦前、鈴与商店の関係会社の重役をつとめた。麟助には二人の息子がいたがいずれも太平洋戦争で戦死している。
一方の安東一家とは、幕末の博徒、安東文吉(あんどうのぶんきち、1808年 - 1871年)こと西谷文吉(にしたにぶんきち)が駿河国府中(現:静岡県静岡市葵区)に構えた一家である。文吉は二足草鞋の大親分で別名「暗闇の代官」とか「日本一首継親分」などと呼ばれていた。
文吉は、駿河国安倍郡安東村(現:静岡県静岡市葵区)の豪農であった甲右衛門の子に生まれる。大柄で相撲を好んだため10代の文吉は弟の辰五郎と江戸の清見潟部屋に入門し、芳ノ森の四股名で土俵に上る。後に故郷に戻るがバクチ打ちの群れに入り、自らすすんで人別帖より削られ無宿となる。兄同様に無宿となった弟の辰五郎と府中伝馬町の裏長屋に住み、夜は問屋場の人足部屋で壷を振っていた。この頃、お尋ね者の大場久八も文吉を頼ってくる。文吉20代半ば、友人が「炭彦」親分と借金のもつれで揉めた時には喧嘩相手の炭彦を斬る。この後、衆望を集め親分となるが場所的によい賭場を持っていた事もあり多くの猛者を統率していく。
大勢力となっていく文吉を見込んで天保9年(1838年)、駿河代官所は文吉と辰五郎の兄弟を呼び出して十手取縄を預けようとする。この背景には封建社会の建前だけでは解決できない遠州博徒の騒乱を文吉の手を借りて収めようとする意図があった。揉め事を押し付けられた文吉は固辞したが結局は引き受ける。二足草鞋となってからは乾児に賭場を運営させて、自らはバクチをしなかったとされる。文吉には十手と同様に公用手形の交付権も与えられていたために無宿の旅人で事情を抱えている者はこれを庇っている。「首継親分」の呼び名はこれに由来する。
遠州の博徒、国領屋亀吉こと大谷亀次郎は後年、幕末動乱のやくざ社会の様子を尋ねられた際に「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越喜左衛門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・。みんないい顔だったよ」と名前を挙げているが「文吉さんはどうでしたか」と聞かれた際には土地の方言を使って「あの人はオッカネェー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を畏れたとされる。
安東一家は2代目安東の須磨吉こと西谷須満吉、3代目渡辺綱吉、4代目長倉長作、5代目青木定吉と昭和も戦後まで続いた。なお、安東一家井川貸元の初代は文吉直系の小長井清次郎、2代目は入谷松吉、3代目の雄一は松吉の実子であり昭和36年12月21日行年62歳で没している。