新聞の広告を見て是非読んでみたいと思った本が、白井聡氏の書いた「永続敗戦論」でした。
読んでみての率直な感想は、自分の中で整理しきれないものが、筋の通った一つの思考の道にすっきりと収まったような印象がありました。
敗戦の責任を明確にしないできた戦後の歩みが、現在の日本の危機的状況をつくりだしている要因であり、福島原発事故が人為的事故であるにもかかわらず、誰も責任を認めない状況にあるのも、非を認めず責任をあいまいにしてきた体質が変わらず継続している何よりの証拠である……永続敗戦論は、戦後から現在に至るまでの負の歴史を明快に語っています。
原発事故の問題を、戦後から引き続いてきた負の流れが一気に顕在化した問題だととらえるところに、白井氏の卓越した着眼を感じました。事故を想定外とすることで、その原因や責任の所在が明確にされずに、原発の再稼働が押し進められる現在は、まさに戦争の責任をあいまいにして続いてきた戦後の流れの一つの到達点でもあったのかもしれません。
終戦記念日の首相挨拶の中に、今年も過去の戦争における加害責任についてふれる言葉はありませんでした。
終戦という言葉の内に、敗戦の事実を包み隠してしまうように……。多くの尊い命を奪い去った侵略戦争が、まるでなかったかのように……。多くの国民を戦争に駆り立て、犠牲を強い、尊い命が失われたという責任。侵略した国々への謝罪と反省、犠牲になった人々への悼み という責任。敗戦を受け入れることが、こういった責任意識を持つことにつながっていたのに、それをしないで歩んできたのが戦後の歴史だったのではないか…
靖国神社への参拝を強行するのはなぜでしょうか。
戦犯とされた人々も戦争の犠牲者である。そうとらえることの内に、戦争責任をあいまいにしようとする考え方が内在し、敗戦を認めようとしない思いが流れている……。
本書を読むことで、領土問題についても、敗戦という事実の中で結んだ条約や約束が、敗戦という事実を受け入れない考え方の中で、いつの間にか都合のいい自国領土としての主張に変わり、現在のような対立状況が生まれているように感じました。
敗戦という事実の中で、変わらなければならなかったものが、変わらないまま受け継がれ流れてきたのが戦後の歴史だったのではないかと思います。責任を明確にせず、そこで背負わなければならないものを背負わず、歩み続けてきたのではないかと感じます。
同じ敗戦国でありながら、ドイツは敗戦の事実を真摯に受け止め、戦争責任を明確にし、負の歴史を背負いながら戦後の歩みを続けてきたからこそ、世界から認められる国になっているのではないでしょうか。
日本はどうでしょうか。韓国からも中国からも慰安婦問題を含め歴史認識や戦争責任を問われ続け、火に油を注ぐような対立関係にあります。敗戦という事実に真に向き合い、過去の戦争責任を明確にし、加害責任を認めることから出発しなければ、友好関係の土台は築かれないのではないかと思います。
集団的自衛権の行使容認は、日本が武力の行使を辞さないという方向に進むことになり、かっての戦争で侵略を受けた国にとっては、脅威になります。同時に、やはり日本は過去の戦争の過ちを認めない危険な国だという思いを抱かせることになるのではないでしょうか。
平和国家としての道しるべとなる 憲法の改正、特定秘密保護法案の強行採決、そして集団的自衛権の行使容認など、その先にあるものは何でしょうか。そういった一連の動きも、戦中から戦後へと変わらずに受け継がれてきた流れと一貫しているような気がします。
被爆地広島と長崎の願いは、すべての核兵器の廃絶と戦争のない世界の恒久平和であり、それはまた、力に頼る平和ではなく、平和への願いに基づく相互の信頼関係の中でつくりだされていく平和なのではないかと考えます。原発でつくられるプルトニウムは、核兵器への転用も可能です。力に頼る平和への幻想がある限り、原発から核兵器の開発という方向へも踏み出しかねません。その意味でも、核兵器の廃絶と原発の廃絶とは 平和な世界を志向する上で願いや目的を共有できるものと考えます。求めることは、核の恐怖におびえることなく、世界の誰もが安全で安心な生活をおくることのできる平和な未来なのではないかと思うのです。
白井氏は、あとがきの中でガンジーの言葉を引用しています。
『 あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである 』
自分が変えられないようにするためには、たとえ無意味であっても自分がしなければならないことをやり通すことが大切なのかもしれません。そのためにも、世界をしっかりと見つめ続けることのできる目を持ちたいと思います。本書からは、その一つの視点を与えてもらったような気がします。