歌人の島秋人について前に紹介しましたが、新たに分かったことがありましたので再度紹介したいと思います。妻がインターネットを通して調べてくれた資料で分かったことです。その資料は、昭和63年(月日不明)に、NHK教育テレビの「心の時代」で放映されたものをまとめたものです。
島秋人の周りには、死刑囚としてではなく人間としての島秋人を温かく見守り支えた人が、たくさんいました.
島秋人の歌人としての道を開いたのが、中学校時代の恩師:吉田好道先生の奥様:吉田絢子さん、島秋人の才能を見出し短歌の師として温かく関わり指導したのが、歌人としても有名な窪田空穂さん、その息子の窪田章一郎さんも彼を支え、遺愛集発刊を支援した方です。
※吉田先生に手紙を書いた島秋人は、先生から送られた絵と奥様の手紙に対し、すぐにお礼の返事を書き、その最後を3首の俳句で締めくくっていました。その俳句を読んだ奥様が、彼に自分を見つめながら歌を詠むことを勧め、短歌の本を送ったり、彼の書いた短歌を添削したりしながら、歌の道に導いていったようです。先の紹介では奥様が3首の短歌を書いて送ったのが、短歌をつくり始めたきっかけとなったということを書きましたが、正しくはこのような経緯だったようです。
そして心の面で彼を支えてくれたのが、高校時代から彼の短歌(毎日新聞の歌壇に掲載された作品、選者の一人が窪田空穂さんでした)に感動し、花の差し入れを続け刑死するまで彼を励まし支え続けた前坂和子さん(後に高校教師になります)、
彼の国選弁護人であり、後に無報酬で最後まで彼の弁護にあたった土屋公献弁護士
盲目で重病でありながら彼と手紙で愛を誓い合った鈴木和子さん 「君を知り愛告ぐる日の尊くて いのち迫る身燃えて愛(いと)ほし」
最後まで彼の心の支えとなり、後に養母となった千葉てる子さん といった方々です。
※彼の養母となった千葉さんは、宮城県栗原市の方だったということで、驚きました。島秋人の短歌が新聞に掲載されるようになった頃、次の短歌が千葉さんの目にとまります。
「わが罪に貧しき父は老いたまひ 久しき文の切手さかさなる」
千葉さんは、女学校を卒業すると間もなく、熱心なクリスチャンとなり、生涯を独身で通し、宗教的に生きることを決心しました。家業の雑貨店や家事の手伝いをしながら、日曜学校や福祉の仕事をしていました。その頃にこの歌に出会い、キリストの教えを通して、救われた気持で召されることができるようにと願い、彼と関わるようになります。やがて「信仰のお姉さん」として信頼されるようになり、昭和37年12月に彼は洗礼を受けます。その頃、彼はしきりと人のために何かできことはないかと考えるようになり、遺体と角膜を捧げることを考えます。それには肉親の同意書が必要であり、戸籍からはずされた彼には法律的な肉親がいないため、千葉さんに養母になってくれるよう頼みます。その申し出を快く引き受け、昭和40年、島秋人(中村覚)は、千葉覚となります。
「角膜の献納(けんのう)せむと乞いて得し 養母(はは)は優しさに豊(と)む」
処刑の前日(昭和42年11月1日)、特別面会が許され、 お父さん、養母の千葉さん、前坂さん、教かい師と牧師の5名が面会します。その時の島秋人の印象を、前坂さんは「本当に覚悟ができてなみなみならぬ心境の内にあるとともに、最後の面会を湿っぽいものじゃなくてみんなのいい思い出に残るものにしようという心遣いや思いもあったと思う。」と語っています。 また、千葉さんは「どこまでもニコニコして、どこにも曇りのない、ほんとに明るい顔をしていました」と語り、島秋人が「このまま私が許されたら、いいことするんだけどもな」とポツッと言った言葉に、ほんとだなあと思って、涙がボロボロ出たそうです。ただ「天国に無事にお迎えにきて頂いてね。そして無事に帰れるように」とだけ祈ったそうです
処刑寸前、島秋人は当時の東京拘置所所長に、祈りの言葉を残したそうです。
ねがわくは、精薄や貧しき子も疎(うと)まれず、幼き頃よりこの人々に、正しき導きと神の恵みが与えられ、わたくし如き愚かな者の死の後は死刑が廃されても、犯罪なき世の中がうち建てられますように。わたくしにもまして辛き立場にある人々の上に恵みあらんことを。主イエス・キリストのみ名により アーメン