あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

栗駒山に出かけることができそうです!

2010-05-28 21:34:03 | インポート

地震以来、栗駒山に登ることはできなかったのですが、

宮城県側からはイワカガミ平までの通行が可能になり、

また、30日には岩手県側も須川温泉まで通行が可能になるとのことでしたので、

久しぶりに栗駒山を歩いてみたいと思っています。

学生時代は、自然研究会というサークルに入り、須川温泉にベースキャンプをはり、

栗駒山(岩手では栗駒山を須川岳と言います)には、よく登っていました。

須川温泉近くの火口 登山道沿いにあるお花畑 湿原や湖 栗駒山頂や連なる秣岳

その折に見た風景や可憐な高山植物の姿を なつかしく思い出します。

来週の好天時には、岩手県側から栗駒山に出かけたいと思います。

須川付近の自然景観だけではなく、

そこにどんな花が咲いているか、高山植物たちとの出会いも楽しみです。

厳しい自然条件の中、その時期に その時だけしか咲かない 可憐な高山植物。

私が山好きになった理由の一つは、そんな山の花たちに魅せられたことにあります。

出かけた折には、山の花の写真等を通して、改めて栗駒山の自然の魅力を紹介できたらと

思っています。


マーガレットが咲きました!

2010-05-27 08:51:49 | インポート

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庭いっぱいに、マーガレットが咲き始めました。

つぼみの段階でグーンと背を伸ばし、それから花を開きます。

一つ一つが、「さあ、咲きますよ!」と、語りかけるような感じで咲きます。

S小勤務時代に、1株もらい受け、庭の真ん中に植えたものが、こんなに増えました。

あいにく雨やくもりの日が続いていますが、風で花が揺れると

まるでたくさんの小さな子どもたちが集まって話しているような 

にぎやかで明るい感じがします。

ちょっと前まではタンポポで黄色に染まり、今は雪が舞い降りたように白色に染まっている

野原のような庭ではありますが、ものぐさで無精者の私にとってはこの自然の状態を気に入っ

ています。春先の庭には、フキノトウが顔を出し(食材にして初春を味わっています)、

今はフキ(食材にして晩春を味わっています)の葉もマーガレットと競うように繁茂しています

が…


運動会に 出かけてきました

2010-05-23 14:42:33 | インポート

運動会に出かけてきました。

あいにくの曇り空でしたが、大きな竹に各地区の幟が立ち、地区民合同運動会

としての伝統が、目に見えてくるような感じがしました。

競技には、地区民対象の種目や学校種目があり、世代を超えて地域の人たちが

一堂に会する地域と学校が一体となった運動会です。

D君もR君も、どの子も頑張って演技をし、特に高学年の子どもたちは係の仕

事にもリーダーとしてきびきびと取り組んでいました。わずか2ケ月余りしか

経っていないのに、どの子も心身ともに大きく成長したなあという印象があり

ました。

卒業生にも会いましたが、中学校生活を楽しみながら勉強や部活を頑張ってい

る様子なので、安心しました。

やがては、T小も含め地域内の5つの小学校と1つの中学校が小中一貫校とし

てスタートする方向にありますが、この地域と学校とが一体となったT小の良

さが、一貫校になっても生かされ・大切にされるような方向で推進されていく

ことを強く願います。


歌人 島秋人について その2

2010-05-23 14:39:14 | インポート

歌人の島秋人について前に紹介しましたが、新たに分かったことがありましたので再度紹介したいと思います。妻がインターネットを通して調べてくれた資料で分かったことです。その資料は、昭和63年(月日不明)に、NHK教育テレビの「心の時代」で放映されたものをまとめたものです。

 島秋人の周りには、死刑囚としてではなく人間としての島秋人を温かく見守り支えた人が、たくさんいました.

 島秋人の歌人としての道を開いたのが、中学校時代の恩師:吉田好道先生の奥様:吉田絢子さん、島秋人の才能を見出し短歌の師として温かく関わり指導したのが、歌人としても有名な窪田空穂さん、その息子の窪田章一郎さんも彼を支え、遺愛集発刊を支援した方です。

吉田先生に手紙を書いた島秋人は、先生から送られた絵と奥様の手紙に対し、すぐにお礼の返事を書き、その最後を3首の俳句で締めくくっていました。その俳句を読んだ奥様が、彼に自分を見つめながら歌を詠むことを勧め、短歌の本を送ったり、彼の書いた短歌を添削したりしながら、歌の道に導いていったようです。先の紹介では奥様が3首の短歌を書いて送ったのが、短歌をつくり始めたきっかけとなったということを書きましたが、正しくはこのような経緯だったようです。

 そして心の面で彼を支えてくれたのが、高校時代から彼の短歌(毎日新聞の歌壇に掲載された作品、選者の一人が窪田空穂さんでした)に感動し、花の差し入れを続け刑死するまで彼を励まし支え続けた前坂和子さん(後に高校教師になります)

彼の国選弁護人であり、後に無報酬で最後まで彼の弁護にあたった土屋公献弁護士

盲目で重病でありながら彼と手紙で愛を誓い合った鈴木和子さん                       「君を知り愛告ぐる日の尊くて いのち迫る身燃えて愛(いと)ほし」

最後まで彼の心の支えとなり、後に養母となった千葉てる子さん といった方々です。

彼の養母となった千葉さんは、宮城県栗原市の方だったということで、驚きました。島秋人の短歌が新聞に掲載されるようになった頃、次の短歌が千葉さんの目にとまります。 

「わが罪に貧しき父は老いたまひ 久しき文の切手さかさなる」 

千葉さんは、女学校を卒業すると間もなく、熱心なクリスチャンとなり、生涯を独身で通し、宗教的に生きることを決心しました。家業の雑貨店や家事の手伝いをしながら、日曜学校や福祉の仕事をしていました。その頃にこの歌に出会い、キリストの教えを通して、救われた気持で召されることができるようにと願い、彼と関わるようになります。やがて「信仰のお姉さん」として信頼されるようになり、昭和37年12月に彼は洗礼を受けます。その頃、彼はしきりと人のために何かできことはないかと考えるようになり、遺体と角膜を捧げることを考えます。それには肉親の同意書が必要であり、戸籍からはずされた彼には法律的な肉親がいないため、千葉さんに養母になってくれるよう頼みます。その申し出を快く引き受け、昭和40年、島秋人(中村覚)は、千葉覚となります。

「角膜の献納(けんのう)せむと乞いて得し 養母(はは)は優しさに豊()む」

 処刑の前日(昭和42年11月1日)、特別面会が許され、 お父さん、養母の千葉さん、前坂さん、教かい師と牧師の5名が面会します。その時の島秋人の印象を、前坂さんは「本当に覚悟ができてなみなみならぬ心境の内にあるとともに、最後の面会を湿っぽいものじゃなくてみんなのいい思い出に残るものにしようという心遣いや思いもあったと思う。」と語っています。                                  また、千葉さんは「どこまでもニコニコして、どこにも曇りのない、ほんとに明るい顔をしていました」と語り、島秋人が「このまま私が許されたら、いいことするんだけどもな」とポツッと言った言葉に、ほんとだなあと思って、涙がボロボロ出たそうです。ただ「天国に無事にお迎えにきて頂いてね。そして無事に帰れるように」とだけ祈ったそうです

 処刑寸前、島秋人は当時の東京拘置所所長に、祈りの言葉を残したそうです。

ねがわくは、精薄や貧しき子も疎(うと)まれず、幼き頃よりこの人々に、正しき導きと神の恵みが与えられ、わたくし如き愚かな者の死の後は死刑が廃されても、犯罪なき世の中がうち建てられますように。わたくしにもまして辛き立場にある人々の上に恵みあらんことを。主イエス・キリストのみ名により アーメン


子どもからのハガキを読んで

2010-05-20 20:57:33 | インポート

3月まで勤めていた学校の子どもから、ハガキをもらい、とてもうれしくなりました。

R君は、4月から3年生。

書かれた文字が、とてもていねいできれいなので、一生懸命書いてくれたんだなあと

思うと、それだけで感じるものがありました。文面からも自分のがんばっている様子を

見てほしいという思いが伝わってきて、3年生としての今を一生懸命過ごしているんだ

なあということがよくわかりました。運動会が23日に予定されているようなので、その

活躍振りを、是非間近で見て応援したいと思います。

D君は、4月から6年生。

写真入りのハガキで、私とは釣り仲間のような関係です。

初物を釣り上げた時の写真で、ちょっぴり恥ずかしそうな笑顔が印象的でした。

大好きな釣りを楽しみながら、最高学年としても頑張っている様子なので、運動会での

活躍振りが楽しみです。

D君とは、釣りの道では、初物釣りでは先を越されてしまったので、大物釣りで勝負を

したいなあと密かに思っています。

二人とも、新たな学年で新たな目標や思いを胸に、日々頑張っている様子なので、

安心しています。

運動会当日は、二人はもちろんのこと 他の子どもたちの活躍振りや

新たな学年でさらに成長した姿を見るのを 今から楽しみにしています。