あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

国境の物語

2012-09-28 20:24:51 | インポート

A国とB国の国境に、1本のリンゴの木が立っていました。周りは広い草原が広がっていたので、ひときわ高くて太い幹をもったリンゴの木は遠くからも目立ちました。ですから、あのリンゴの木までが自分の国で、木の向こう側が相手の国といったように、リンゴの木は国境の目印となる木として、両方の国から大切にされていました。

春にはリンゴの木の枝いっぱいに花が咲き、国境近くを通る人々は足を止めて、青い空を背景にした純白の花を見上げてはその美しさに見とれていました。夏は、涼しい木陰をつくってくれるので、両方の国の人々の休み場所となりました。秋は、たくさんの実をつけるので、リンゴ狩りにたくさんの人々が訪れ、収穫の喜びを味わいました。

リンゴの木が与えてくれる幸せを、両方の国の人々は分かち合いながら、仲良く暮らしていたのです。

このリンゴの木を、二つの国でそれぞれが自分のものだと主張するようになったらどうなるでしょう。島の所有を巡る中国や韓国との争いに重なる思いがあります。国境は、相手を排除する場所ではなく、両方の主権を認め合う場所。相互の国民が仲良くふれあう場所。そんな位置づけができないものでしょうか。漁場や地下資源をリンゴの木と同様にとらえることはできないものなのでしょうか。

人は、誰でも二つの祖国を持っています。自国と地球という祖国。その一方の地球人としての視点で、ものごとを考えることはできないものなのでしょうか。地球人には国境はありません。国籍や肌の色・人種にとらわれることなく 同じ人間としての連帯感と相互理解が根底にあります。この理念が共有されるならば、今世界で起こっている紛争や戦争、対立もなくなっていくのではないでしょうか。

一人がみんなとみんなが一人と世界中の人々の心が一つに結びつくような世界が、究極の理想社会なのかもしれません。少なくとも3.11の災害があった時の世界中の人々から寄せられた支援の手には、国境を超えた人間としてのあたたかい温もりと連帯感があふれていたのではないかと思います。中国や韓国の人々からもその温もりが寄せられていたのではなかったのでしょうか。

生ぬるい理想論であり夢物語かもしれませんが、現実に迎合するのではなく、現実を理想に近づけていく一歩の方が、はるかに価値があり尊い一歩なのではないかと思えるのです。


領土問題について考えること

2012-09-28 09:10:09 | インポート

今日の朝日新聞の朝刊の第1面に、「魂の道筋 塞いではならない」という見出しで、作家:村上春樹さんのエッセーが紹介されていました。第3面に全文が掲載されており、読んでみて深い共感を覚えました。

尖閣諸島の問題を巡って、中国国内では日本製品の不買運動が叫ばれ、書店から日本人の書いた作品も、撤去されたとのこと。デモや領海を侵犯する示威行動だけではなく、文化的な交流分野まで日本を拒否する姿勢がとられているようです。

村上さんはそのことを憂い、

  ~ 文化の交換は「我々は、たとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間どうしなのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。

と述ベています。こういった同等で自由な文化の交換が行われるまでには、これまで先人が果たしてきたたくさんの努力と積み重ねがあったことを経験的に知っているが故に、なおさら今回の出来事が衝撃的だったのではないかと思います。

 ~ 領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし、賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。

中国でデモに参加した若者の一人に、尖閣諸島の場所を尋ねても答えられなかったということがあったようです。冷静ではなく、まさに国民感情のうねりの中に飲み込まれた形で、その若者はデモに参加したのではないでしょうか。日本人が2名尖閣諸島に上陸し、中国や台湾の監視船や漁船が領海侵犯を繰り返すという示威行動も、安酒で酔っぱらった行動の一つと言えるのではないでしょうか。国民感情は新たな過激で敵対的な国民感情を双方に産み、決定的な対立にまで加熱してしまうのではないかと心配になります。

国民感情と切り離したところで、冷静にゆっくりと時間をかけ対話を続けながら、実務的な相互の課題として交渉・交流を継続していくことが大切なのではないかと思います。

 ~ 「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の対極に位置するものとなるだろう。

村上さんは、エッセーの最後を次のように結んでいます。

~ 安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂の行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋をつくるために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。

魂の行き来する道が維持され、相互の人間的な理解と文化的な交流が大切にされることで、国民感情を超えた国と国との信頼関係がつくられていくように思います。よき隣人として中国や韓国との関係が改善されるよう、魂が行き来する道筋は守りとおす必要があると強く思います。

同時に、先にブログで紹介した 山本美香さんの言葉にあるような 心のスタンスで 領土問題をとらえていくことも必要なのではないかと 思いました。

~人間はひとりひとりがちがっているからこそ、豊かな関係を築いていけるのです。だれもがちがいを学び、相手の気持ちを考え、他人を理解しようと努めることで、お互いの価値観のちがいを乗りこえることができるのではないでしょうか。


アゲハが巣立つ日を心待ちにして

2012-09-26 08:13:06 | インポート

以前のブログで、鉢植えのミカンの木に産みつけられた 卵からアゲハの幼虫が育っていることを紹介しましたが、庭の一画にあるサンショウの木でも 幼虫たちが元気に育っています。

2本あるうちの1本は、2メートルを越す高さで、残っている葉はほんのわずか。そこにアオムシ段階の終令幼虫(クロアゲハ)が2匹とその前の段階の若令幼虫(白黒模様)が1匹います。幼虫の体もまだ小さめで、サナギになるまで、葉が足りるのかどうか心配しています。

そのすぐそばに、高さが約80センチぐらいの木がもう1本あり、葉は高い木よりもまだ茂っているのですが、そこにはなんと7匹の終令幼虫と4匹の若令幼虫(いずれもナミアゲハ)が住んでいるのですから、驚いてしまいます。狭い範囲の中でも それぞれが一定の距離を保ち、葉や枝先に住み分けているように見えます。まるで幼虫たちが共同生活をおくっているアパートのような感じです。

毎日見ていると、それでも少しずつ移動し位置を変えているようです。もう少しでサナギになりそうな大きめの幼虫もいるのですが、葉を食べながら落ち着く場所を探し求めているのかもしれません。

夜中に激しい勢いで雨が降ったりすると、下に落ちた幼虫はいないかと心配になったりしていますが、翌朝見てみると全員無事であることを確かめホッとします。

毎朝、数をかぞえ無事であることを確認するのが日課になりました。なんとか残りの葉を食いつないで、成虫まで無事に育ってほしいと願っているのですが……。


「戦争を取材する」を読んで

2012-09-21 09:30:09 | インポート

シリアで取材中に亡くなったジャーナリスト<山本美香さん>の書いた「戦争を取材する」を読みました。戦火の中で暮らす子どもたちが、どんな体験をし、どんな悲しみや苦しみを抱いているのかを、日本の子どもたちに向けて伝えようとした本です。

美香さんがジャーナリストとしての仕事の意義を深く感じたのが、アフガニスタンでの取材中の出来事でした。医者は病や傷を治すことはできるが、ジャーナリストである自分はいったい何ができるのだろうかと悩んでいた時のことです。ボロボロのテントで暮らす避難民の父親が、栄養失調と厳しい寒さの中、風邪をこじらせて亡くなった4歳の息子の墓に案内してくれました。目を赤くして泣く父親が、その時に「こんな遠くまで来てくれてありがとう。世界中のだれも私たちのことを知らないと思っていた。忘れられていると思っていた」と語ったとのこと。その言葉と涙ながらに語る父親の姿に、美香さんは大きな衝撃を受け、(私がこの場所に来たことにも意味はある。いいえ、意味あるものにしなければならない。たった今目撃したことを世界中に知らせなければならない……)と、ジャーナリストという仕事に全力を注いでいく決意をしたそうです。

本の中に、たくさんの子どもたちが登場します。

コソボで会った少年アデム(13歳)とアルティン(10歳)は、地雷で両脚を失ってしまいます。アデムは、右目も見えなくなり、なくなった脚が痛む幻痛に苦しめられます。アルティンは、両脚だけでなく爆発の衝撃で記憶の一部も失い、ときどき激しい頭痛に苦しめられます。少年たちは、絶望の中にあっても、義足をつければ歩けるようになるかもしれないというかすかな希望の光を見出しているとのこと。世界中に埋められている地雷の数は、およそ111000000個で、エジプト・イラン・アンゴラ・中国・アフガニスタン・イラク・カンボジア・べトナム・ボスニアヘルツェゴビナ・コソボ……といった紛争のおこった国々に埋められています。

ウガンダで会った少年ターティ(15歳)は、戦場で銃をもって戦った少年兵でした。ターティは、5年前に村を襲ったゲリラにさらわれ、無理やり兵士にされ戦わされていたのです。こういった少年兵を保護し体や心の治療する施設に、ターティは収容されていたのです。8歳のリルは、さらわれて1カ月後にセンターに保護されました。ターティに比べればゲリラのもとに居た時間は短いわけですが、どの子も心に傷を負っており、それを癒すために施設はつくられました。ターティはそこで5年ぶりに、お母さんと会うことができました。声をあげて泣き出すお母さん、お母さんの無事を知ってとびきりの笑顔で迎えたターティ、心を打つ再会の場面でした。

アルジェリアで会った8際のアブドゥヌールは、小学校が武装集団に襲われた時、友達が何人も殺される様子を目撃しました。それ以来、血だらけになった友達の姿が頭から離れず、眠れなくなりました。トラウマを抱えてしまったのです。コソボで出会った少女ミハーネ(8歳)は、父親が目の前で撃たれるのを目撃して以来、血だらけになった父親の姿を何度も思い出してしまうフラッシュバックに苦しんでいました。これもトラウマの症状のひとつです。

チェチェンでは、廃墟に子どもたちだけで暮らす、13歳のディーマ、ホセイン、9歳のマハカと少年の4人に出会います。父母を亡くし、自分たちだけで食物を手に入れ生きている戦災孤児たちでした。コソボで出会ったダウト(12歳)は、難民となって逃げる途中で家族とはぐれてしまいます。その途中で、たくさんの村人が死んでいて、首になわをかけられてつるされている恐ろしい光景を見、3日間しゃべることができなくなってしまいます。幸い避難する途中で出会ったガーシさん(63歳)が、実の孫のように保護してくれました。その後、ダウトはお母さんと再会することができ、家族そろって村で生活することができるようになりました。

戦争という悲劇をつくりだしたのは、大人の責任です。そのことによって多くの未来ある子どもたちの命が失われ、たくさんの子どもたちが体と心を傷つけられています。その重さを、紛争地から遠く離れた日本に居てもしっかりと受けとめたいと思います。

美香さんは、本の最後をこう結んでいます。

 ……ちがっていることは壁でも障害でもありません。人間はひとりひとりちがっているからこそ、豊かな関係を築いていけるのです。だれもがちがいを学び、相手の気持ちを考え、他人を理解しようと努めることで、おたがいの価値観のちがいを乗りこえることができるのではないでしょうか。

子どもたちには、日々の人間関係もこんな形でつくりあげ、やがては世界の人々と力を合わせて平和な世界を実現してほしい そんな思いも込められたメッセージのように感じました。

金子みすずさんの詩の一節「みんな ちがって みんな いい」を思い出します。世界の紛争地を歩き、そこで戦争の悲惨さを実感し、出会ったたくさんの人々の抱えきれないほどの悲しみや苦しみを受けとめた 美香さんの切実な願いでもあったのだと思います。

一人一人が、戦争のない世界を願うことから、その一歩は始まるように思います。命を奪いあうのではなく、悲しみや苦しみをつくりだすのではなく、人としてのちがいを認めることから、そこから学び理解することから、価値観のちがいをこえた 信頼という平和に近づく一歩を 踏み出せるのではないかと思います。


クウタの脱走事件

2012-09-17 22:13:30 | インポート

昨日、今日と 我が家の愛犬:クウタの脱走事件が続いています。

昨日は、動いた弾みで鎖がはずれ、今日は首輪がはずれて、自由散歩に出かけたようです。昨日の場合は、首輪をつけた状態なので、飼い犬と気づいてもらえるだろうと考えあまり心配はしていなかったのですが、今日は首輪がない状態なので心配になりました。野良犬と見なされ保健所にでも連れて行かれたら大変です。場合によっては交通事故に遭うことも考えられます。幸い、脱走してから1時間足らずで我が家に無事にもどってきたので、安心しました。

どんなに心配したかを頭を両手ではさみ、目を見ながら心で伝えましたが、クウタのハートまで届いたどうかはわかりません。まあ、それでも自分の意志でもどってきたのだから、いいのかなあと思いました。脱走をしても、最後にもどる場所はここだと思っているのですから。ここがホームと考えるのは、やはり家族の一員であるいう証でもあるのですから。12年もここで一緒に生活してきたのですから。

最近のクウタを見て心配なことがあります。じゃれあって遊ぶ時の反射神経や反応スピードがめっきり遅くなったことです。わざとしっぽをつかまえようとすると、以前は素早く手の届かないところに逃げていたのですが、最近はその反応が鈍くなり、やすやすとしっぽに触れるようになってきました。ときどき、くしゃみもするようになりました。はじめはその様子がかわいく見えていたのですが、頻度が増してきたような感じがして、体調面で心配になります。

少しずつ年齢的な衰えが見られるようになってきたということなのでしょうか。連日続いている日中の暑さも、こたえているのかなあと思います。

改めて、犬でありながら 大切な家族の一員となっている クウタの存在の大きさを実感しています。

庭の一画のサンショウの木に、もう少しでサナギになろうとしているアゲハの幼虫がいます。今日は、朝から風の強い一日でしたので、幼虫がしがみついている枝先が、強い風が吹くたびに激しく揺れ、今にも振り落とされるような感じがしました。もっと太い枝の方が安定するのにと思いながらも、細い枝と一体となって揺れるその姿に感動を覚えました。厳しい自然の中で、懸命に生きようとする意志と姿勢を感じたからです。

命あるものの 存在の大きさを しみじみと 感じることのできた一日でした。