核不拡散条約(NPT)再検討会議に向け、スイスで開かれていた準備委員会で、核兵器の非人道性を訴えた共同声明に、日本政府は署名しなかったというニュースがありました。その理由は、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」という表現が、米国の核の傘に頼る日本の安全保障政策と一致しないからだ ということでした。
被爆地である広島や長崎では、失望と怒りを感じているようです。核兵器のもたらす悲劇を体験した日本だからこそ、核兵器が二度と使われることなく、世界中から廃絶されることを願い、先頭に立って行動するのが当然のことだと 私も思っていました。もし、安全保障政策が 状況によって核兵器の使用を認めるものだとしたら、その政策こそ否定すべきものなのではないでしょうか。核兵器を担保にして守られる平和にこそ問題があるのではないかと考えます。非核三原則(核兵器を 持たず、つくらず、使わせず) を前提にし、平和憲法を理念にした 安全保障政策こそ、日本が目指すべき本来のあり方のように思うのですが……。
北朝鮮によるミサイル発射や核兵器開発の動き、核兵器保有国である中国の尖閣諸島での領海侵犯等、現実的な脅威を想定した中での判断が、署名拒否につながったのではないかと思われます。軍事力に頼る 安全保障政策の枠内にとどまっている限り、核兵器のない世界の実現は遠ざかっていくのみという印象があります。軍事力にこれでいいという上限はなく、競い合って高性能の武器や核開発を進める動きが加速されていくのではないでしょうか。ミサイル一つをつくる費用で、飢餓や病気で苦しむ人々をどれだけ救うことができるのでしょうか?
賢明な人類であるからこそ、核兵器や人命を殺傷する兵器に頼らず、人間としての信頼に基づく真の平和を求めるのではないでしょうか。
最近、政治家がよく使う言葉に「国益」という言葉があります。その考え方のもとに、国があって国民がある という認識があるような気がしてなりません。国民がいてこそ国は成り立つのであり、国民一人一人の考えや生活を大切にすることでよりよい政治は実現されていくのだと考えます。国益という抽象的に括った言葉を伝家の宝刀のようにかざし、政治家の考える国の形やありようを国民に押し付けているような印象さえ感じます。
国の枠にとらわれず、国民一人一人に目を向け、人類という視点で 世界のあるべき姿を想い描く 崇高な志をもった 政治家の登場を切望します。政治家任せにしないためにも、自らが 確かな志をもつ 一人の国民であることを大切にしたいと考えます。
靖国神社への 閣僚や国会議員の参拝、憲法改正の動き、沖縄の人々が屈辱の日と考える日に強行する「主権回復の日」、そして 今回の署名拒否、いずれも 一貫した流れの中で起きている出来事のような気がします。そこには、大きな歴史認識の違いを感じます。先の戦争から何を学び、二度と同じ歴史を繰り返さないために何が必要なのか、その認識の違いが大きく影響しているように感じます。
韓国や中国との関係を、相互信頼に基づく隣人関係としていくためには、その点が越えることのできない壁となっていると思うのです。歴史観の違いを認め、相手国の歴史観も視野に入れながら、よりよい隣人関係を築いていくという方向で歩んでいかない限り、壁を乗り越えることはできないと思うのですが……。
先の震災では、国という枠を超えて 世界中からたくさんの温かい支援の手が差し伸べられました。悲惨な状況を見て何とかしたいと行動した 人間としての普遍的な愛を実感したものです。世界の平和も、そういった人間性への信頼を土台につくられていくのではないでしょうか。
何を理想とし、何を志とするか、高い所に視点をおきながら、現実をとらえ 見つめていくことができたら と思います。国や民族・宗教という枠にとらわれず、地球に住む一人の人間としての地点に立って、ものごとを見つめ 考えることができたら いいのですが …… 。