先日、ラジオで沖縄の普天間飛行場の辺野古移設問題を取り上げていました。都民にその問題をどう考えているか、インタビューするコーナーがあり、その声を聞いていて疑問に思ったことがありました。大部分の声は、移設を肯定し、仕方がない・沖縄の人には申し訳ないががまんをお願いする といった内容でした。これまで日本の安全を守るために沖縄が背負ってきた負担を考えた時、本当にそれでいいいのかという思いを強く感じました。沖縄の傘の下で平和だけを享受し続けることに痛みは感じないのだろうかと……。
名護市長選挙の結果、移設反対を訴えた市長が当選しました。その背景には、戦後の長い間アメリカの統治下に置かれ、県土の多くを基地に占拠され、軍用機の墜落事故やアメリカ兵の暴行事件、軍機が発着する度の騒音や不安に悩まされたてきた 「もう沖縄には基地はいらない!」 という沖縄の人々の怒りが込められているような気がしました。
多くの人々が恩恵を受けているのに、一部の人々だけが負担を強いられている。こういった不公平にゆがんだ社会は、正しい社会と言えるのでしょうか。
同様のことは、原発問題にも言えると思います。福島原発でつくられた電力は、東京が最大の消費地です。原発そのものの危険性を指摘してきた京都大学の小出先生は、講演の中で次のようなことを語っていました。恩恵を被る都市部は原発の在る地域から遠く離れ、事故が起こっても安全を守れるのに、一たび事故が起こると安全を脅かされ被害を被るのは原発周辺に住む地域の人々になる。その不合理が許せない と。福島の原発事故を通して、多くの人がそのことを実感されたのではないでしょうか。
その事故によって生じたさまざまな問題がいまだに解決できずに、山積しています。その一つに高度に汚染された放射性物質の処理問題があります。先日、国が宮城県内における最終処分場の候補地として3地区を公表しました。私の地元の栗原市もその一つです。公表されたどの地区の首長も、即座に受け入れ反対を表明しました。高度な放射性廃棄物の有効な管理や処理方法がない現状では、地域住民の安全を確保し不安を解消することはできないのではないかと思います。汚染水でさえ、コントロールできない状態なのですから。
しかし、最終処分場が必要なのは理解できます。電気の恩恵を享受している以上、どこかが引き受け手にならなければならないのでしょう。つきつめて考えれば普天間の移設問題も同様なのではないでしょうか。
日本の安全保障上、基地が必要であるならば、沖縄県にだけ負担を強いるのではなく、どこの県でもその負担を応分に受けるという覚悟が必要になって来るのではないかと思うのです。民主党政権で鳩山首相が、基地の県外移設を語ったことがあります。その言葉にどれだけ沖縄の人々が期待し、それが絵に描いた餅だと知ってどれだけ落胆したことでしょう。
背負う荷物があるならば、応分にその荷物を分け持つ。そういった覚悟が、ゆがんだ社会を変えていく一歩なのではないかと思うのです。普天間と最終処分場の問題から、その覚悟を求められているような気がしてなりません。