昨日の天声人語で、詩人の塔和子さんが 28日に亡くなったことを知りました。
小学校6年の春にハンセン病を発症し、以来 83年の生涯を 瀬戸内海の島にある 国立療養所大島青松園で過ごされました。昭和20年代の後半に、プロミンという特効薬により、病は治癒可能となり、塔さんも1952年:昭和27年に完治するのですが、1996年:平成8年に「ライ予防法」が廃止されるまで、隔離政策は終わりませんでした。病の後遺症もあり、施設には留まった状態で過ごされるのですが、島から離れることはできず 差別と偏見の中で生きざるを得なかったのです。その間の思いを19冊の詩集に著わしています。
改めて手元にある詩集「 塔和子 いのちと愛の詩集 」 平成19年4月 角川学芸出版発行 を 読み返してみました。中でも印象に残ったのは、「淡雪」と「糸」です。編者の中野新治さんによれば、、「淡雪」は 過酷な療養所での生が形象化された作品の一つ、「糸」は 患者としての生を超えた対象が描かれた作品の一つにあたるようです。
「淡雪」
在ったという過去の中に私はない
在るだろうというあいまいな未来に私はない
やわらかい息をし
すずしい目をして
他人を見
花を見
空を見ているとき
あるいは
勢いよく水道の水をほとばしらせて
野菜を洗うとき
にんじんの赤さ
ほうれん草の緑
だいこんの白さが
在ることの喜び
いのちの新鮮さをかきたてる
このふるえるような愛しさ
昨日と明日の間
ただ
今だけを生きている
淡い雪のようなものが
わたし
~ 私は生死という不可思議なものにはさまれて在る私の存在が、どのように詩ってもうたい切れない、ほんとうにきらりと流れを見つけたり、見失ったりする、昨日と明日の間だけ、なぞのように在る永遠の流れの中のいちさいくるを、生きているのだと思うのです。~
1988年12月号の「詩学」に寄せた文章の一節です。「淡雪」の冒頭の 在ったはずの過去の中にも、在るはずの未来の中にも 私はない という表現と、昨日と明日の間に自分が在り、その1サイクルを生きていると感じる思いが 重なり合っているように感じます。
生きている今という時間が、どんなに確かで大切な時間なのか。淡雪のように、今にも消えそうな自分を見つめることに、塔さんが置かれた厳しく辛い現実状況が見えてくるような気がします。
「糸」
生から死へ一本の白い糸があって
日々たぐっているが
ほんとうは誰も
いまだその糸を見た人はいない
たぐり終わったとき
いのちも終わるからだ
私の糸はあと何年あるいはあと何日残っているか
糸のとぎれたところは冥界で
神様のさいはいするところだから
きっと
美しい花が咲き乱れ
清らかな音楽がしっとりと流れているだろう
しかしそう思っても
やっぱり雑事に追われるこの世に
愛着があって
糸のことは忘れている
そして
病気になるとふっと思い出し
いま自分のにぎっているのは
どのくらいのところだろうと
改めてその命の糸を
ひっぱってみたりする
亡くなった塔さんは、白い糸をたぐり終え、今は 冥界の美しい花をながめ、清らかな音楽に聴き入っているのでしょうか。命の糸をひっぱってみたりすることで、自らの命を確かめ、生と向き合うことで、詩を書き続けた塔さん。
その思いは、詩の形となって今を生き、多くの人の心に語り続けることになるのだと思います。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。