東京で開かれた「さようなら原発」の集会には,約6万人もの人が集まったということです。福島原発の事故を通して,多くの人が原発のもつ怖さと事故のもたらした被害の大きさを肌で感じ,脱原発の必要性を考え,集まったのではないかと思います。マスコミを通して,主催した大江健三郎さんの話や参加者の声を聞き,改めて原発の必要性について自分なりに考えることができました。その思いをまとめてみたいと思います。
世界でも今回の事故を通して原発の安全性を問い直す動きが見られます。ドイツやイタリアは,国民全体の支持を受けながら,脱原発の道を歩もうとしています。
福島原発事故が完全に終息するまでには,これからもたくさんの年月を要することと思います。汚染された土壌や瓦礫の除染や処理も,その方法が定まらず,汚染物の処理施設や集積場も確保できない状況にあります。放射線を浴びた人々ヘの継続的な健康管理やそのための体制づくりも十分ではありません。事故のために故郷を追われるように避難しなければならなかった人々ヘの,金銭面だけではなく健康面や心の面でのケアも行き届いていないように思います。また,汚染された農作物や水産物の補償,風評被害に対する補償は十分と言えるのでしょうか。
今もそしてこれからも,事故を終息させるために数え切れないほど取り組まなければならない課題が山積しているように思います。事故が起こる前のきれいな環境にもどすためには,どれだけの年月と費用が必要とされるのでしょうか。故郷を追われた人々が,安心してもどることができるのはいつになるのでしょうか。事故によって失われたものの大きさを改めて痛感します。
最近,福島で製造された花火が愛知県内の花火大会で使用されなかったということがありました。放射性物質を含む花火は打ち上げるベきではないという住民の声があったためだということです。京都での出来事と同様のことが起こったようです。いずれも,主催者に対して厳しい抗議が多数寄せられたということですが,じつに悲しい出来事です。目に見えない放射線の被害を恐れる想いが,さまざまな風評を助長し,こういった悲しい出来事を招く要因にもなっているように思います。福島の人々には,心の痛む出来事だと思います。一方では被災地を応援し支援する動きがある半面,科学的な根拠もなく無制限に放射線被害を恐れる動きもあります。
ただそれだけ放射線被害に対して過敏に反応するようになってきたのは,決して悪い側面ばかりではないように思います。原子力のもたらす功罪がはっきりと目に見えるようになり,原発事故の恐ろしさを意識的にとらえることができるようになった表れなのではないかと思うからです。
石油資源には限りがあり,原子力発電所は経済の発展の上でその必要性が強調されてきました。経済の発展は,人々の暮らしを豊かにし幸せをもたらすものであるはずです。しかし今回の事故で学んだのは,原発が決して安全なものではなく,多くの不幸を人々にもたらす存在になるということなのではないかと思います。
世界にはたくさんの原発があり,経済力のある国や発展途上国では新たな原発の設置が計画され,建設が進められています。その一つが事故を起こせば,汚染水が海に流され,上空からたくさんの放射性物質が運ばれ,被害は国境を越えるものになるかもしれません。人々の命や健康を害するだけでなく,多くの動植物や地球環境にも大きな影響を与えることになります。
地球上の誰もが幸せに生きていくために,果たして原発は必要なのか。
そんな問いを自らに発しながら,原発の問題を考えていきたいと思います。