あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

やわらかな まなざし

2018-01-30 10:46:19 | 日記

28日に、仙台いのちの電話の公開講演会に参加してきました。
講師は、立教女学院短期大学学長の若林一美さん。1988年1月から子どもを亡くした親の会『小さな風の会』の世話人として、
東京での隔月の定例会、地方集会、分科会などの集会の他、手記を集めた『あー風』や自死した子の親の手記や証言をもとにした
『自殺した子どもの親たち』の発刊などの活動に取り組んでおられる方です。

講演の冒頭で若林さんは、こう語ります。
『人は他人のことは分からない。その人の心の内はその人にしか分からないものです。』
悲しみの淵に立つ人に、マラソン伴走者のようによりそいながら、いつの間にか自分が先を走ってしまうことで傷つけてしまう場合がある。
話すことや聞くことで、悲しみから救われる人がいることも一つの事実であるが、黙して立ち続ける人がいることも忘れてはいけない。
我が子を自死で失った親は、自分の思いばかりでなく、社会的な偏見や誤解の中で、語るに語れない 率直に心情を表すことができない 
悲しめない悲しみを抱えているのです。

そういった我が子の死の重さを 親は自責の念とともに背負い続けているのだと思いました。
言葉にできない悲しめない悲しみの深さに、たじろいでしまいます。

小さな風の会に数年参加している親の一人が、集会の場で これまで自分の息子の死を事故によるものと話してきたが、本当は自死だったと
語ったことがあったそうです。
黙して抱え込んできた悲しみを言葉にすることができるまで、時間が必要だったのだと思います。
また、その辛さを共有する人たちの集まる場があったからこそ、思い切って語ることができたのだと思いました。
小さな風の会には何の決まりもなく、ただ一つ その会で話されたことを独り歩きさせない、その場だけの話として参加者の心に収めるといった
約束があるそうです。
その人の心の内はその人にしか分からないもの~その前提があるからこそ、参加者はお互いを尊重し、認め合い、語られたことを自然と受け入れる
ことができるのだと思いました。

その親たちに、若林さんが 手記や証言をおさめた本の発刊を知らせ、協力を求めたところ、その結果は驚きだったとのこと。
人の役に立てるのであれば、同じ苦しみを抱えている人のためならばと、ほとんどの親の方が、協力を申し出てくれたそうです。
悲しみの淵にありながらも、手を差し伸べようとする優しさに、圧倒されてしまいます。
そうして発刊された本を読んで、自分の死が完結ではなく その死を悲しむ人がいるのだということを知って 死ぬことをやめた若者がいたそうです。
一人の若者の命が救われたことが、協力した親たちにとっても心の救いになったのだと思いました。

その本の紹介の中で、亡くなった兄によせた11歳の弟の言葉が取り上げられていました。
17歳で亡くなった兄の告別式で、お別れの言葉として弟が語ったそうです。
兄が弟宛ての遺書の中で「死ぬな」と書き綴っていたこと、カレンダーに兄が予定を書き込んでいるのを見て一日早くカレンダーをめくっていたら死なないで
すんだかもしれないと思ったこと、葬儀場に向かう途中で霊柩車に対して道行く人が手を合わせてくれたことへの感謝の思い等を 語ったそうです。

道行く人の手を合わせる行為が 悲しみの内にある弟さんの心を癒してくれたと、若林さんは語ります。
悲しみの淵に立つ人の心を理解するのは難しいが、遠回りであってもできることがある。
それが、その人を見守るやわらかな優しいまなざし なのだと。

小さいころにいじめにあったある女性タレントさんの体験談を例として 若林さんは語ります。
ベネズエラで生まれ、日本語もうまく話せない混血児であったため、学校で執拗ないじめにあい、何度も死のうと考えたそうです。
誰も自分を見てくれない そういった絶望感にとらわれながらも ただ二人の弟がいるので、弟たちを守るために死ねないとも思ったそうです。
そんな自分に対して、近所の人たちが 登下校時に 「おはよう」「気を付けて」「おかえり」といった声掛けをしてくれたそうです。
ちゃんと自分の周りに自分を見てくれる人たちがいるんだ。そう気づいて、死ねないなと思ったそうです。

人を見守るやわらかなまなざしがあってこそ、手を合わせる行為やあたたかい声掛けができるのだと思います。
以前講演で耳にした、東京いのちの電話の立ち上げに尽力された林義子さんの言葉を思い出します。
人と人との関わりの中で 大切なのは 誰かのために doing(何かをしてあげること)ではなく being(そばにいてよりそうこと)。
それはまた、やわらかなまなざしを持って人と関わっていくということでもあるのだと思いました。

心に残る講演会でした。

「知床旅情」の歌をめぐる物語

2018-01-29 18:39:16 | 日記
新聞の「もういちど流行歌」というコーナーに、「知床旅情」の歌が取り上げられ、その歌い手でもある加藤登紀子さんの
インタビュー記事が掲載されていました。

昨年末に、加藤登紀子さんの『ほろ酔いコンサート』があり、始まる前と休憩の際に 場外に用意された清酒:一ノ蔵
を味わいながら、私もほろ酔い気分でコンサートを楽しみました。「琵琶湖周航の歌」や「知床旅情」は、お登紀さんの
リードで、観客も一体となって歌いました。特に「知床旅情」は、学生時代に北海道を一人旅し、知床半島や知床五湖を
歩いた時の情景が浮かび、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。

そんなこともあり興味深く記事を読んでみると、新たな発見がありました。

1968年3月、シャンソン歌手としてデビューして3年目に、加藤さんは 真夜中のビルの屋上で 初めて「知床旅情」を
耳にしたとのこと。歌い手は、学生運動の当時の活動家であり後に夫となった藤本敏夫さん。
その朗々とした歌声を聞き、加藤さんは歌手としての自分の在り方を問い直すほど(ドレスで着飾り、つけまつげで目を大きく
見せ、舞台でシャンソンを歌っている自分は一体、何者なのって)、心根にグサリと突き刺さる衝撃を受けたそうです。
「借り物ではなく、心底から歌いたい曲をみずから書く、シンガー・ソングライターに生まれ変わる転機をもたらす出来事」
になったそうです。
夫となった藤本さんと「知床旅情」との出会いがなければ、加藤登紀子というシンガー・ソングライターは誕生しなかったのかも
しれないと思いました。まさに運命の出会いとなったのですね。

この歌の作詞作曲は森繁久彌さん。1960年に映画「地の涯に生きるもの」の撮影で、知床半島の斜里町と羅臼村(現・羅臼町)に
長期逗留し、その際に地元民の方から惜しみない協力をいただき、そのことにいたく感激し、置き土産につくった曲だそうです。
レコーディングは、65年まで行われなかったそうですが、この間にも北海道を旅した人たちがこの歌を知り、口コミで道外まで流布
されたそうです。藤村さんは京都のバーでこの歌を聞き覚えたとのこと。

加藤さんが、70年にカバーしたシングルレコードは、そのこともあり前宣伝もないのにミリオンセラーを記録したとのこと。
1971年3月のオリコン調査によるシングルレコード売上ランキングで、第1位が「知床旅情」でした。

この歌がヒットした理由について、加藤さんは次のように語っています。
「高度成長期の始まりとともに故郷を捨てて出てきた人たちが都会にあふれ、気がつけばディスカバージャパンの時代になっていた。
 あの歌には日本の風土を形づくっている要素がすべて入っています。人びとの心の中にある共通の土壌に落ちた種が、やがて芽を
 吹き、みるみる育つようにヒットしたんです。」

歌を通して思い描く世界はさまざまであっても、どこか郷愁を誘い、懐かしい友や景色、思い出が浮かんでくるような気がします。
ほろ酔いコンサートで味わった一体感は、そんな想いをみんなで共有し合っているような感動でもありました。

森繁さんは 加藤さんの歌を聞いて、『君は、歌はうまくない。でも心で歌っているな』と認めてくれたそうです。

この記事を読んで、ますます「知床旅情」が好きになりました。
下手なギターを弾きながら、今宵は 森繁さんと藤本さんを偲び 心で歌ってみたいと思います。
 


    知床旅情

           歌:加藤 登紀子 
          作詞:森繁 久彌
          作曲:森繁 久彌


  知床の岬に はまなすの咲くころ
  思い出しておくれ 俺たちの事を
  飲んで騒いで 丘にのぼれば
  はるかクナシリに 白夜は明ける

  旅の情けか 飲むほどにさまよい
  浜に出てみれば 月は照る波の上
  今宵こそ君を 抱きしめんと
  岩かげに寄れば ピリカが笑う

  別れの日は来た ラウスの村にも
  君は出てゆく 峠をこえて
  忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
  私を泣かすな 白いかもめよ
  白いかもめよ

神沢利子さんの言葉

2018-01-27 11:01:28 | 日記
新聞に「くまの子ウーフ」の作者の神沢利子さんが取り上げられていました。
微笑む姿の写真を見て、そのお元気な様子にひと安心しました。
ウーフが刊行されてから、来年で50年を迎えるとのこと。
神沢さんも、93歳になられたそうです。

今から40年ほど前に、私は「ポラン」という(当時は仙台市の立町にありました)子どもの本の専門店で、
神沢さんのお話を聞いたことがあります。
創作への思いを熱く語っていたように記憶していますが、詳細は思い出せません。

神沢さんの書かれた物語は、読み聞かせをすると 教室でも大人気でした。
ウーフは、教科書にも取り上げられた作品でしたが、特に子どもたちの想像力をかきたてワクワクさせて
くれた物語の一つが、「ちびっこカムのぼうけん」でした。

記事の中に、神沢さんの子どもたちに向けたメッセージがありました。

  『「生きている」というのは、たった今のことを指す。
    今しかないからこそ、大事に、十全に、力いっぱい生きていこう。
    力が及ばなくてもいい。また明日がある。』

子どもたちに向けながら、自らにも向けた言葉なのだと思いました。
創作への思いや姿勢は、今でも変わることなく 熱いまま続いておられるのでしょう。

今という時間と向き合いながら、改めて自分のなすべきことを問い直してみたいと思います。

吉野弘詩集から

2018-01-24 22:53:03 | 日記
雪を題材にした詩を探していて 吉野弘詩集の中に 一つの詩を見つけました。

誠実に生きることの難しさを 降り積もる雪の姿にたとえた詩と言えるのでしょうか。
   

   雪の日に
         吉野 弘

---誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから 手に入れた。

それは すでに
欺くことでしかないのに。

それが突然わかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけなければならない。
じゅんぱくをあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。

誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手には負えなくなってしまったかの
ように
雪は今日も降っている。

雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。

誠実でありたいと願うのは、誠実ではない自分が見えているから。
誠実ではない自分が誠実であろうとすることは 自分を欺くこと…?
現実の自分と 誠実との距離、
その遠さが 雪のじゅんぱくさを通して 痛切に感じられるのでしょうか。
自分の内にある 消えることのないよごれを 映し出すように。
自分と誠実との間を埋めるように じゅんぱくな雪が積み重ねられても
その遠さは 埋めきれないのでしょう。
その痛みが 雪が降るたび 重く心に響くのでしょう。

誠実でありたいと願うことから 苦難の道は始まるのだと思います。 
吉野さんの詩「夕焼け」に登場する 娘の姿を思い出します。

 満員電車の中で 娘は 立っているとしよりに 二度席を譲ります。
 しかし 三度目に自分の前に押し出されてきたとしよりには席を譲りませんでした。
 娘は うつむいたまま 下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせて 座り続けます。
    ……
    やさしい心の持主は
    いつでもどこでも
    われにもあらず受難者となる。
    何故って
    やさしい心の持主は
    他人のつらさを自分のつらさのように
    感じるから。
    やさしい心に責められながら
    娘はどこまでゆけるだろう。
    下唇を噛んで
    つらい気持ちで
    美しい夕焼けも見ないで。

やさしい心の持主は、それを行動であらわせない時にも やさしい心に責められる。
誠実な心の持ち主も、同様なのだと思います。
誠実な生き方を求めるが故に 誠実でない自分を責めてしまうのでしょう。
不完全な人間であるからこそ、求めるものとの遠さを感じてしまう。
その遠さを意識しながら生きることが、誠実に生きるという姿勢なのかもしれません。
そこで感じる痛みや辛さが、現実の人間としてのありようを気づかせてくれているように
感じます。


私の好きな雪の詩を もう一つ紹介します。

   つもった雪
      
       金子 みすゞ

 上の雪 
 さむかろな。
 つめたい月がさしていて。

 下の雪
 重かろな。
 何百人ものせていて。

 中の雪
 さみしかろな。
 空も地面も見えないで。




命は 希望の光

2018-01-22 08:32:39 | 日記
最近は、新聞を通していろんなことを感じ、考えるようになってきました。
したがってブログの内容も、新聞をベースにしたものが多くなりそうです。
その時々に感じたことをその時を逃さずに書いていくという構えでいるのですが、内容的にも片寄りが出て
いるかもしれません。

一昨日の新聞の第一面に、笑顔の赤ちゃんを真ん中に 両親が両側からその小さな手を優しく包み込むように
にぎりながら 微笑んでいる 親子三人の写真が掲載されていました。
乳がんと闘いながら出産した母親の愛さん、娘の莉己さん、二人を支える父親の義己さんの写真です。

「この子がいるから、未来を見て、がんと向き合える。私たちの『光』です。」

がんの再発がなく育児に安心して専念でき、親子三人が健やかに過ごしていける未来でありますように!
と 願わずにはいられません。

対照的だったのが、昨日の新聞の第一面の写真です。

イスラム国(IS)との最後の激戦地となった イラク第二の都市:モスルの 破壊された街の惨状を撮った写真です。
粉々に崩れ落ちた建物が、激しい戦闘の跡を物語っています。
記事によれば、ブルドーザーががれきを押し分けてつくった道沿いに、砕けた石材・折れ曲がった鉄筋・焼けた自動車
壊れた家電・弾倉などが積み上げられ、ところどころにIS戦闘員の 腐乱したり焼け焦げたりした遺体が、鼻をつく
異臭を放ち 野ざらし状態のままだったとのこと。

生まれた命を慈しむ写真に対し この写真は何と対照的でしょう! 
人間の愚かな行為とその結果を 現実のものとして突き付けられているような印象を受けました。

モスルは、2014年6月にISに武力制圧され、2015年の時点では、約187万人が暮らしていたとのこと。
いったいそのうちの何人が命を落とし、何人の人が生き延びることができたのでしょうか。
ISが他の地域から「人間の盾」として連れてきた5000人の民間人の生死も不明なのだそうです。

その破壊された街にも帰還した住人がいました。
昨年6月にISをねらった米軍主導の有志連合の空爆で夫を亡くした 主婦のアスマ・スルタンさんです。
そのアスマさんの言葉が印象的です。

「残された子ども二人を育て、平穏に暮らすことが私の唯一の望みです。」

電気も水道も復旧しない状況で、母子三人でどうやって暮らしていくのでしょうか。
経済的な援助や生活面での支えがあるのでしょうか。
子どものための学校の再建は進められているのでしょうか。
二度と戦闘は起きないのでしょうか。

いろんな不安や心配は尽きないのでしょうが、アスマさんにとっては 破壊された街の中にあっても、二人のお子さんが 
未来を照らす希望の光なのではないでしょうか。
母子三人か平穏に暮らすことができる 平和な日常が続いてほしいものです。

希望の光である子どもたちを真ん中に、誰もが安心して暮らすことのできる平和な世界の実現を心から願います。

今日は、久しぶりの大雪でした。
白一色の世界は新鮮です。
すべての汚れを包み込むように、この世界から 戦争や争い、対立や憎しみが一掃され、新たな世界が誕生するといいのですが…。