新聞の一面に、「アウシュビッツ解放から70年の27日朝、収容所の正門から出る元収容者たち」の写真が掲載されていました。
70年前の解放の日を思い出しながら、人々はどんな思いで正門をくぐりぬけたのでしょうか。
その思いを想像しながら、改めて、ヴィクトール・E・フランクルの書いた「夜と霧」新版:池田香代子訳の解放場面を読み直してみました。
『 ~ わたしたちは自然の中へと、自由へと踏み出していった。「自由になったのだ」と何度も自分に言い聞かせ、頭の中で繰り返しなぞる。
だがおいそれとは腑に落ちない。自由という言葉は、何年ものあいだ、憧れの夢の中ですっかり手垢がつき、概念として色あせてしまっていた。
そして現実に目の当たりにしたとき、霧散してしまったのだ。現実が意識の中に押し寄せるには、まだ時間がかかった。
わたしたちは、現実をまだそう簡単につかめなかった。 ~ 』
それだけ死と隣り合わせで人間扱いされない過酷な日々を生きてきたからこそ、自由の実感は感じ取れなかったのだと思います。
自由になる日を何度も夢で先取りし、そのたびに過酷な現実に引き戻された収容所生活。
だからこそ、手にした自由を現実として把握できない状況だったのだと想います。
しかし、数日後にその実感を『~それまで感情を堰き止めていた奇妙な柵を突き破って、感情がほとばしる』ように受け止めることができるようになります。
『 ~ あなたを取り巻くのは、広大な天と地と雲雀の歓喜の鳴き声だけ、自由な空間だけだ。
あなたはこの自由な空間に歩を運ぶことをふとやめ、立ち止まる。あたりをぐるりと見回し、頭上を見上げ、そしてがっくりと膝をつくのだ。
この瞬間、あなたはわれを忘れ、世界を忘れる。たったひとつの言葉が頭の中に響く。何度も何度も、繰り返し響く。
「この狭きよりわれ主を呼べり、主は自由なひろがりのなか、われに答へたまへり」
どれほど長いことその場にひざまずいていたのか、何度この言葉を繰り返したか、もう憶えてはいない…だがこの日この時、あなたの新しい人生は始 まったのだ、ということだけは確かだ。そして一歩また一歩と、ほかでもない新しい人生に、あなたは踏み込んでいく。
あなたはふたたび人間になったのだ。 ~ 』
主への問いは、大いなるものに生かされて在ることに対する 心の内から湧き上がる歓喜にも似た感謝の思いだったのでしょうか。
自分を遮るもののない限りない自由を 思う存分享受できる喜びに満ち溢れた思いだったのでしょうか。
自分の人生を歩むことのできる人間になったのだという思い。
その喜びは、人間であることの人生を否定された収容所生活の裏返しでもあったのでしょう。
人間が人間として生きることのできない収容所生活を強いたのも人間であることの痛切な痛みを感じてしまいます。
このような悲劇を繰り返してはならないのだという思いを改めて強く感じます。
しかし、こうして自由を得た人々のその後の人生も辛く苦しいものだったのです。
権力や暴力からの圧迫から解放されたことで、今度は自分が力と自由を意のままに行使していいのだと履き違えて、不正を働いてしまう心の屈折。
自由を得てもとの暮らしにもどっても、過酷な収容所生活体験に対しておざなりの言葉や決まり文句しか返してくれない周囲への不満。
収容所で唯一の心の支えにしていた愛する人に二度と会うことのできない失意の念。愛する人の喪失した現実が、収容所生活の中での苦悩を超える底なしの失意の念を抱かせてしまうのです。
フランクル自身も、両親と愛妻とは再会できませんでした。
『 ~ 収容所にいたすべての人々は、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にないことは知っていたし、またそんなことをこも ごも言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることのできるの は、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。 ~ 』
解放されたことが終わりではなく、新たな苦難の始まりでもあったのだということ、そしてその苦難を乗り越えて今の姿があるのだという事実。
『それでも 人生はあなたを待っている』
改めて写真を見ながら、フランクルが語る言葉と、アウシュビッツの正門の向こうで待っていた70年の人生を懸命に生きてこられた元収容者だった人々の姿に 心打たれるものがありました。
70年前の解放の日を思い出しながら、人々はどんな思いで正門をくぐりぬけたのでしょうか。
その思いを想像しながら、改めて、ヴィクトール・E・フランクルの書いた「夜と霧」新版:池田香代子訳の解放場面を読み直してみました。
『 ~ わたしたちは自然の中へと、自由へと踏み出していった。「自由になったのだ」と何度も自分に言い聞かせ、頭の中で繰り返しなぞる。
だがおいそれとは腑に落ちない。自由という言葉は、何年ものあいだ、憧れの夢の中ですっかり手垢がつき、概念として色あせてしまっていた。
そして現実に目の当たりにしたとき、霧散してしまったのだ。現実が意識の中に押し寄せるには、まだ時間がかかった。
わたしたちは、現実をまだそう簡単につかめなかった。 ~ 』
それだけ死と隣り合わせで人間扱いされない過酷な日々を生きてきたからこそ、自由の実感は感じ取れなかったのだと思います。
自由になる日を何度も夢で先取りし、そのたびに過酷な現実に引き戻された収容所生活。
だからこそ、手にした自由を現実として把握できない状況だったのだと想います。
しかし、数日後にその実感を『~それまで感情を堰き止めていた奇妙な柵を突き破って、感情がほとばしる』ように受け止めることができるようになります。
『 ~ あなたを取り巻くのは、広大な天と地と雲雀の歓喜の鳴き声だけ、自由な空間だけだ。
あなたはこの自由な空間に歩を運ぶことをふとやめ、立ち止まる。あたりをぐるりと見回し、頭上を見上げ、そしてがっくりと膝をつくのだ。
この瞬間、あなたはわれを忘れ、世界を忘れる。たったひとつの言葉が頭の中に響く。何度も何度も、繰り返し響く。
「この狭きよりわれ主を呼べり、主は自由なひろがりのなか、われに答へたまへり」
どれほど長いことその場にひざまずいていたのか、何度この言葉を繰り返したか、もう憶えてはいない…だがこの日この時、あなたの新しい人生は始 まったのだ、ということだけは確かだ。そして一歩また一歩と、ほかでもない新しい人生に、あなたは踏み込んでいく。
あなたはふたたび人間になったのだ。 ~ 』
主への問いは、大いなるものに生かされて在ることに対する 心の内から湧き上がる歓喜にも似た感謝の思いだったのでしょうか。
自分を遮るもののない限りない自由を 思う存分享受できる喜びに満ち溢れた思いだったのでしょうか。
自分の人生を歩むことのできる人間になったのだという思い。
その喜びは、人間であることの人生を否定された収容所生活の裏返しでもあったのでしょう。
人間が人間として生きることのできない収容所生活を強いたのも人間であることの痛切な痛みを感じてしまいます。
このような悲劇を繰り返してはならないのだという思いを改めて強く感じます。
しかし、こうして自由を得た人々のその後の人生も辛く苦しいものだったのです。
権力や暴力からの圧迫から解放されたことで、今度は自分が力と自由を意のままに行使していいのだと履き違えて、不正を働いてしまう心の屈折。
自由を得てもとの暮らしにもどっても、過酷な収容所生活体験に対しておざなりの言葉や決まり文句しか返してくれない周囲への不満。
収容所で唯一の心の支えにしていた愛する人に二度と会うことのできない失意の念。愛する人の喪失した現実が、収容所生活の中での苦悩を超える底なしの失意の念を抱かせてしまうのです。
フランクル自身も、両親と愛妻とは再会できませんでした。
『 ~ 収容所にいたすべての人々は、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にないことは知っていたし、またそんなことをこも ごも言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることのできるの は、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。 ~ 』
解放されたことが終わりではなく、新たな苦難の始まりでもあったのだということ、そしてその苦難を乗り越えて今の姿があるのだという事実。
『それでも 人生はあなたを待っている』
改めて写真を見ながら、フランクルが語る言葉と、アウシュビッツの正門の向こうで待っていた70年の人生を懸命に生きてこられた元収容者だった人々の姿に 心打たれるものがありました。