この著は混迷する文明社会を考察する一助となる。一番考えされられたのは、多数決=民主主義という考えは誤りだという指摘だ。これは少数者をコミュニティから排除してしまうからとしている。単純多数決ではなく、少数意見でも自分が無視されたと思わせない社会の例として、南スーダンのダサネッチという部族の生活を挙げている。しかし、はたして文明社会でそんなやりかたが通用するのだろうか?高知県窪川町の原発誘致問題などが日本での例として取り上げられているが、あまり納得できる話ではなかった。
たしかに未開部族社会には本能的(innate)とも思えるコミュニケーションの方法があるようだ。今西錦司(人類学者・サル学の開祖)はその著「ダーウィン論」(中公新書479)で、未開部族民が以心伝心でもって共同作業における分業をおこなうと述べている(p105)。ポナペ島の島民は、誰の命令や打合わせもないのに、各自適切な作業をばらばらに行って立派な小屋を建てたそうである。この部族社会の労働における平等な分業体制が、少数者を排除しない民主主義を成立させているのかもしれない。しかし、これは文明の発達した開発諸国では適用できる話ではない。それに代わるのは、スイス型の直接民主主義と無制限討論方式しかないが、これはすごく時間のかかるものだ(下村湖人「次郎物語:後編」のテーマだったような気がする)。よほど気の長い民族でないと無理っぽいし、クダクダ議論しているうち、プーチンみたいな気の短いらんぼう者にたちまちやられてしまうだろう。
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