京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

時間についての考察 VIII アリストテレスの時間論

2024年10月31日 | 時間学

 

 アリストテレス( BC384-322)は古代ギリシャが産み出した偉大な自然哲学者である。彼はエーゲ海北岸のイオニア系植民都市スタゲイロスに生まれた。17歳でプラトンのアカメディアに入門、20年間そこで学ぶ。BC343年にはマケドニアに招かれ皇太子(後のアレキサンダー大王)の家庭教師を務めた。BC3355年にアテナイに戻り、郊外に自ら主催する学園リュキオンを創設し、様々な研究を主導した。その後起こった反マケドニア運動のために故郷のカルキスに難を逃れそこで亡くなった(享年62歳)。アリストテレスは知の全域を貫通する根源的な問題である「存在」についての書「形而上学」(全14巻)をまとめた。

  時間論については『自然学』(アリストテレス全集第3巻)で述べている。最初は難解な「今」論を展開している。さらにアリストテレスは時間とは「前と後ろに関しての運動の数」であると定義している。ともかく運動という概念が強調され、存在はすなわち運動である、時間は運度の計測によって生ずるものであるという。空間と時間から速度(運動)が派生するといったニュートン力学のモードと違って、まず運動があるとする。相対論ではまず光速が絶対的な量として登場し、空間や時間はそれに隷属しなければならない。アリストテレスの考えはある意味時代に先駆けていた。

  「前と後ろに関しての運動の数」とすれば、時間とは純粋に物理的に定義されるパラメーターかと思える。一方で、アリストテレスは「時間は運動の何か」であるとしても、「たとえ暗闇であって、感覚を介して何も感じられない場合でも、何ならかの動きが我々の心のうちに起こりさえすれば、それと一緒に何らかの時間も経過したと思われる」としている。さらにアリストテレスは「今が前の今と後ろの今との二つであると我々の心が語る時、このときに我々はこれが時間であるというのである」と述べている。いわば脳内での生理的運動(変化)も含めて時間の発生を措定している。すなわち現実に物理的運動を観察しなくても、脳でそれを想起すれば時間が生ずることになる。そうすると自然の『運動の数』を計測するのは人の脳なので、一体どちらが時間発生の根底なのかという問題が生ずる。

 仮にヒトが世界から消滅したらどうなるだろうか?それでも宇宙、地球や他の生物の変化や運動はあるだろう。しかし、それを検知する全てのヒトの脳がなければ時間は消滅するのか?そんなわけがあるはずない。物理的時間、生物的時間(体内時計)、心理的時間はいずれも実存する。

心理的時間が実存するから物理的時間は実存しないとするのが一部の思弁家である。構造生物学者で虫好きの池田清彦氏もその一人である。彼は「放射性元素Aの半減期が5時間であると言うことによって、時間の物理的客観性を措定することはできない。ある時、Aが崩壊する現象によって計測された半減期の5時間と、別の時、Aが崩壊する現象によって計られた5時間が、等価、等質であると考える根拠はどこにもない」と述べている。そして「すなわち、時間が計測され得るためには、我々の内なる同一性の意識の存在が不可欠なのである」としている。彼の前の方の言明は、実は相対論の世界では実際に起こる現象である。ニュートン力学の心理作用にならされた「同一性の意識を持つ」人間には、どうひっくりかえっても想起できず、これを不可思議で矛盾した現象として捉えるのである。言ってみればこの現象こそ、心理的時間の外に物理的な時間が実存することを証明した決定的な事例と言って良い。彼はさらに言語こそ時間を生み出した最基底の形式であるとしているが、言語のなかった頃のヒトの祖先の時代にも時間は存在し流れていた。言語はいわば心理的時間を生み出すために必要だったとは言えるかも知れない。小説『モモ』の中でミャハエル・エンデはマイスター・ホラにこう言わせている。「光を見るために目があり、音を聞くために耳があるのと同じように、人間には時間を感じるとるために心というものがある」心こそ人の言語である。

 参考図書

出隆、岩崎充胤訳「アリストテレス全集 3 」自然学 岩波書店 1976年

池田清彦 『科学は錯覚である』洋泉社 1996

 

追記(2023/11/12)

宇宙の森羅万象における変化や運動のプロセスが時間だと言える。高浜虚子に「去年今年流れる棒のようなもの」と言う有名な俳句があるが、この棒のようなものが時間である。それは第4次元そのものと考えられる。

追記(2024/10/31)

ベルグソンも運動というものは分けてはいけないと述べている。分けて空間化してみなければ気のすまない人間の知性は誤りを犯してしまうと主張する。線分ABをみて運動というものを純粋にみれなくなるという。運動は「直観」でとらえるべきであるというのだ。(高桑純夫著「近代の思想」毎日新聞1957)

 


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