哺乳動物はヒト (Homo sapience)を除いて4足歩行である。犬、猫を始めとする大部分の哺乳動物は4符リズム(1,2,3,4)(1,2,3,4)(1,2,3,4)・・・・を身体に刻み付けているはずである。 ところがヒトはナックル歩行を経て2足歩行に進化した。 その理由については幾つかの仮説があるが、ともかく右足、左足の (1,2) (1,2) (1,2)・・・・の繰り返しが、体内リズムの基本エレメントになった。
足が体内リズムを作ったということは足が2拍子を単位とする「時間」を形成したといえる。 そして歩行から自由になった手は自由に物を持ちそれを操作することにより、脳のシナプス領域に「空間」の概念をより精緻に形成することができるようになった。 ヒトはある進化的段階で足が時間を分担し手が空間を分担するようになった。 犬や猫にも時間や空間の認識はあると思うが、ヒトだけが手足の分業によってそれぞれ高度の概念を操れるようになったといえるのである。
少なくとも俳句や和歌の詩形は二音あるいはその倍の四音の区切りの音律で読むようになっている。
例えば蕪村の句「秋風のうごかしてゆく案山子かな」は(あき)(かぜ)(の△)(うごかし)(て△)(ゆく)(かがし△)(かな)と二拍のリズムで読み下すと心地がよい(△は間の拍)。あるいは同じく蕪村の「月天心貧しき町をと通りけり」は(つき)(てんしん)(まずしき)(まち)(を△)(とおり△)(けり)となる。実際はこのような拍は意識せずに読み下している。音律的な必然性があるのかよくわからないが、俳句では2拍のリズムが単調な連続音階にならぬように、さらに構文の上層に5x7x5の区切りを付けている。
二拍を基本とするリズムが脳で時間を形成し、この時間な流れに沿って意識が生ずると考える。リズム→時間→意識といったシークエンスである。意識が時間を生ずるのではなく、時間が意識を生むのである。いわば時間というプラットフォームの上で意識が生成するといえる。そうすると言語がない音楽にけるリズムでも意識は生成するかという問題がある。これについては、ヒトの言語は動物の原始的な発声の進化産物であると仮定すれば、音楽はその歴史的な回帰といえそうである。
参考文献
坂野信彦 『七五調の謎をとく』 大修館書店 1996年
追記:「文学の時間性」について論じた九鬼周造(『時間学:文学の形而上学』)は、57調あるいは75調の12音が俳句や和歌の詩形の単位であるとし、これは人間の一呼吸のリズムに同期したものであるとした。
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