ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

カラオケに行って来た

2013-07-25 16:56:04 | 日々の暮らし・思い出
すごく久しぶりにカラオケに行って来た。

楽しかった。

長谷川きよし「黒の舟歌」「灰色の瞳」

美空ひばり「悲しき口笛」「乱れ髪」

藤山一郎「長崎の鐘」「東京ラプソディ」

テレサ・テン「つぐない」「時の流れに身をまかせ」

越路吹雪は「愛の賛歌」「サントワ・マミー」

都はるみ「あんこ椿は恋の花」ブレンダ・リー「この世の果てまで」

八代亜紀「舟歌」メリー・ホプキン「悲しき天使」

・・・なんだかなんの脈絡も無いね~

結構初めて歌った歌も多い。

メリー・ホプキンは私ぐらいの年代の人は知ってるだろうな・・

「悲しき天使」これ当時すごく好きで、

一生懸命英語の歌詞を覚えて歌ったよ。

今日、何十年振りかで歌ったけど、やっぱり好きだった。

物悲しい歌、ふて腐れた歌、投げやりな歌、そういう歌が何故か好きなんだ。

もちろん健全な歌も好きだけど。


この前自分の心を観察したキッカケをくれた友達と一緒。

今日はあれを書いたせいか、かなり自分の意識を自覚出来てた感じ。

そんなんで、(どんなんで?)

勝気な彼女とも調和できててとても楽しかった。


アクセス解析

2013-07-25 09:11:51 | ひとの幸福
今、グーブログで1週間だか、普段は見られないアクセス解析というのをやってくれて、

それでそのページを見たら、

去年の文章にアクセスした人があったようで、

どんなことを書いたのかと私も読んでみた。

私もその読者の一人で、それを読んでみて、

今ここでどんな言葉を私が連ねることになるのか今はわからないけど、

やってみようと思った。

以下がその文章、引用するね。


「見ようとすると見えない・・・こういう表現で量子の性質を云うことがある。

見ようとすると見えない・・・・じゃあ、

見ようとしなければ見えるのか?という表現がそこに可能になる。

見ようとするのも、見ようとしないのも、何かがそこに“在る”ことはわかっているという前提があるはずだ。

在る何かが見えるためには見ようとしない・・・ことが要る、ということになる。

~“しようとしない”という意識は、

別名“在りのままでいい”という意識、心の在りようではないか。

在りのままでいい、となっていたら当然それに対し何かを“しようとはしない”。

だって、そのままでいいのだから。

在る何かを見ようとすると見えない、ということはこの世に幾らでもある。

まだかまだかと待っているとなかなか着かない。(早く着こうとしている)

まだかまだかと待っているとお湯が沸かない。(早く沸かせようとしている)

眠ろう眠ろうとすると眠れない。(対象である私の身体を早く眠らせようとしている)

止めよう止めようとすると続く。(対象・・私の食いすぎ、今やっている紛争)

勉強させようとすると勉強しない状態が続く。(対象・・我が子)

社会を変えよう変えようとすると、変わらない。

この~しようとする、というのは、対象に対して行動する前の意志のこと。

やはり量子力学は意識力学だと思う。しつこいね、私も。(^^)」

・・・以上。


(見ようとしない)という心の状態とは、どんなことだろう?

例えば怖いお化けが居る幽霊屋敷で、怖いもの見たさに入ったけど、

そこからお化けが出てきそうな所には目を向けないでいること???

それは(見ようとしない)という心の状態ではなく、

単なる(見たくない)という意志なんじゃないか・・


やっぱりコレ、(眠ろう眠ろうとすると眠れない)で考えよう。

とてもポピュラーなこの例、多分多くの人に経験あると思う。

それの反対がコレだ。

(眠ろうとしない)で“居ると”眠れる。

これがそういうことだろう。

“在りのままでいい”という意識、心の状態。

在りのままでいい、となっていたら当然それに対し何かを“しようとはしない”。

だって、そのままでいいのだから・・という文章のように、

夜中に何故か目覚めてしまった自分を、

(そのままでいいよ)と受け入れられることが、

そういう心の在りよう。

こんな時間に起きてちゃいけない、と叱咤激励して眠らせようとする自分は、

見ようとすると見えない・・・の性質通り、

自分を眠らせようとすると眠れない、現象となる。


眠らせようとしなければ眠れる=(眠ろうとしない)で居ると眠れる。

意識は量子なんじゃないかという仮説を持っているんだけど、

(そのままでいいよ)という心の在りよう・意識の状態の、

その量子は愛という意識、愛という量子なんじゃないかな。

判断・否定することなく、

そのままでいいよ。

在るがままでいいよ。

それは愛だ。

子供が何をしても、何をしなくても、否定、非難すること無い、

非難したとしても、すぐに受け入れる、母の愛のような。

むかし流行った「愛は勝つ♪」という歌があったけど、

愛は究極的には勝つんじゃないかと思うよ。


うん、愛は眠れる。夜中に目覚めちゃってもすぐに眠らせてくれる。






あまちゃんの葛藤

2013-07-24 14:35:54 | テレビを見て
今朝の「あまちゃん」

ウニ丼を食べながら「わかんね~」とつぶやくあまちゃん。

あまちゃんは若い頃のお母さんの事と今の自分のことを

どう考えていいのかわからないのかもしれない。

あまちゃんの心は・・・勝手に書いてみるね

・・・母は若い頃、鈴鹿ひろみの影武者をやらされて、

それはいけないことで、

当時の芸能界のいろんなナンヤカンヤの犠牲になった。

だが、それがキッカケで母は父と結婚した。

そのせいで自分が生まれた。

もし母が歌手デビューかなんかしてたら、

父と結婚することも無く、この自分の存在はない・・・

・・以上憶測によるあまちゃんの心。

まさしく葛藤だ。


若き日のあまちゃんママは、

最初もその後も太巻さんの話しに渋々でも納得してたんじゃないかな。

影武者であっても潮騒のメモリー♪の歌声が聞こえて来るのは嬉しかったというし。

それを嬉しく感じた、ということは影武者になったことを受け入れていたということなんじゃないか・・・

もし、当時のあまちゃんママが影武者をやらせられたと怒っているとしたら、

聞こえてくる歌声を嬉しくは感じられないんじゃないか・・・・・

悔しさだけが込み上げて来るんじゃないかなぁ。

けど、渋々の納得は後にいろんな弊害が起こるのは当然といえば当然。

なんで渋々の納得をしたかといえば、

この人と関わっていればいつか歌手になれるという自分の欲だ。そう言ってた。

その欲の実現のために、影武者を考えついた太巻さんと関わった。

その欲の実現のために影武者を引き受け続けた。

実現方法を間違えてたのかもしれない。

でもでも、それが悪いというわけでもない。

法律的に言うといけないのかもしれないけど。


渋々の納得というのも一つのキッカケだし、

その後もいろんなキッカケが作用して、あまちゃんママは

秘密を聞いてた父であるタクシー運転手と結婚し、あまちゃんが生まれた。

影武者をやらされた、と捉えて、それを非難・否定視してしまうと、

今こうして生きている自分の存在というものを

どう考えていいのかわからなくなるんだろう。


そもそも影武者云々の現象が起こっている真っ最中、

あまちゃんママは意識不明だったわけじゃないし、

ロボットだったわけじゃないので、

一方的に騙されて、影武者をやらされた、って言えないよね。

あまちゃんが(影武者事件が在った)とだけ捉えるなら、葛藤はない。

影武者事件もあり、

それがキッカケで若き日の父と母との心の交流があり、

それをキッカケに他にもいろんないろんな事があり、

若き父母は結婚ということになり、

あまちゃんが誕生した。

そんなふうなたくさんのキッカケが一つでもなかったら、

あまちゃんは生まれなかった。

全てはそれぞれがそれぞれの意志で行なったことなのだとわかれば、

誰も恨む事は出来ないし、

あまちゃんも自分の存在を葛藤など無く、その通り受け止められるはず。


事実は誰もがその都度自分の意志で行為・行動をしてる。

ただそれに100%の納得が無いことや、

100%の納得がなくても、そうすることを自分で選択したという、

その時の意識に自覚がないことから、

不平や不満や非難や敵視が生まれるんじゃないかな。

今日のあまちゃんを見てそんなことを考えた私でありました。

さて、実際のあまちゃんはどうなるやら・・・

楽しみだね~





2013-07-23 16:49:39 | 日々の暮らし・思い出
今朝は5時に起きて海沿いの国道をスロージョギング。

誰にも会わなかった。車も一台も通らなかった。

こんなに早い時間に歩くのは久しぶり。

帰宅してシャワー浴びて新聞めくってたら、

畑に行こうとなった。

キュウリ、ナス、ミニトマト、ピーマン、オクラと、

うずら豆みたいな豆も収穫。

さやが茶色になって、はじけそうになったので採った。

夫の叔母さんから頂いた種が見事発芽して、こうして豆になった。

去年枝豆を所望して夫に畑で作ってもらったけど、

さやはついたけど、ほとんど実にならなかったから、今回嬉しい。

キュウリが採れるより、豆が採れるなんて初めてなんで、ちょっと素敵。

栽培が高度な感じがする。ホントはそうでもないのかもしれないけど。

庭にむしろを敷いてそこにさやを乾かしてる。

赤い甘い煮豆の原料がうちで採れるなんて、

我が家ごとながらやっぱり凄いなぁって思う。

畑は凄い。太陽も凄い。雨も凄い。種も凄い。

でもどれもちょうどよく降ったりやんだり、照ったり照らなかったりしてくれたら

どんなにいいだろうと思うよ。

田んぼが大雨で池みたいになっているのを見た。

米を作っている人の気持ちはどんなものだろうか。

天候がすぐに経済に関係するから・・・

単にがっかりするだけじゃないだろう・・・

優越感 に浸ること

2013-07-23 16:23:34 | ひとの幸福
「あそこの奥さんたら、息子が東大出たとか、麻布に住んでるとか、

何気なく会話に入れて、自慢したいのが丸見え。

そんなこと自慢するなんて馬鹿じゃないのっ」

(あそこの奥さん)は息子が東大を出たことや、

麻布に住んでいるということに優越感を持っているのかもしれない。

この発言をした人は、

そんなことに優越感を持つなんて程度が低い、みたいな優越感がある。

優越感の中身、事柄は違うけど、

私の方が上だ、ということで自分を保っている。

そういう位置に居ないと心が安定しない。

小さな頃から、人に負けるなと言われたことや、

ずっと成績をつけられて、上とか下とか絶えず評価されて来たから仕方ない。

そうなるようにされて来て、

そうなったものを又、評価されるなんてあんまりだ。








「あまちゃん」 

2013-07-22 09:30:51 | テレビを見て
今朝の「あまちゃん」

あまちゃんママの過去の話がほとんどだった。

そのせいか?あまり面白く感じなかった私だ。

私はこのドラマに何を求めているんだろ??

ユイちゃんママはその後どうしてるのか???

気になる。

ユイちゃんはこれからどうなるのか?

気になる。

ユイちゃんパパはこれからどんな感じなのか???

気になる。

あまちゃんは岩手にいつ帰るのか???

それとも帰らないのか???

このドラマがどう終わるのか???

気になる。

けど、あまちゃんママと大吉さんの行方は気にならない。

気になることがあるのは結構いいなぁ。



反抗期

2013-07-22 09:23:57 | ひとの幸福
もうじき4才になるイブは第一反抗期の真っ最中なんだろう。

乳幼児期の脳波ではなくなる時期と一致しているんだろうな。

自我が芽生えるとき。

「反抗期」というのを広辞苑で調べると、第一反抗期が3~4才、

第二反抗期が青年前期だという。

自我の発達過程で起こる周囲のものに反抗的態度を強く示す時期だそう。


反抗期を経験しない子供は殆どないと思う。

周囲の人物全員が神さまのようだったら、反抗する気持ちは出て来ないのかな。

あの世や天国では反抗するというようなことはないのかな。

いわば絶対的世界だから。

こう考えると、

この世が相対的世界だからこそ、反抗期はある。

自意識の無い赤ちゃん時代、2才くらいまでは鵜呑み世代だから、

周囲のすべてを赤ちゃんは受け入れるので、いわば絶対的世界に住んでる。

けれど、戦争したり紛争を起こしたりイライラしたりしてる未熟な大人の中で育つわけだから、

そういう大人が作ってきた世界を絶対的に受け取ってたら、

進歩が無い。自分も周囲も現状維持だ。

私たち人間が進歩成長するという宿命を持っているから、

この世が相対的世界なのか、

この世が相対的世界だから、私たち人間は進歩成長するしかないのか、

どっちなんだろ???



稀勢の里

2013-07-21 17:45:34 | テレビを見て
千秋楽の今日、琴奨菊に負けたよ。

負けるんじゃないかという予想してた。

今場所始まってから一旦は諦めていた横綱への道が、

横綱に勝って、周りも期待が起こって、彼もその欲が又出てきたのかと思うよ。

欲に目がくらむとやばい。

欲を実現するのには、欲に目をくらませず、

捨て身で相撲を取るのが一番。

横綱の白鵬に勝ったときはまだ捨て身が生きてたんじゃないかなぁ。

先場所が好調だったわけをもっと自分が明らかにできたらよかったのになぁ、と

親みたいに思うアホな私です。

彼に比べるとサッカーの本田選手は強い。

捨て身でやってみての確かな実感があるんだろうな。

稀勢の里も横綱を倒す実力はあるのに、欲に目がくらむと、

実力を発揮できなくなる。

彼はもしかして万年大関かしら・・・

それにしてもスポーツも面白いもんだ。

どの世界も同じなのかもしれないね。



鈍感力

2013-07-21 16:14:28 | 言葉
ここにパソコンが在る・・という事を、

「ここにパソコンが在る」と捉える意識は事実に即応している、と言える。

ここにパソコンが在るにもかかわらず、目の見えない人は

「ここにパソコンが在る」と捉えられない、ということがある。

いわば、目が故障中。

又、あそこにパソコンが在るにもかかわらず、

他の事に関心が行っていると、

あそこにパソコン??知らないなぁ・・になる。

これは目の故障じゃなくて、人の意識の特色。

意識は多くの事実の中から自分に関心の在るものだけ、

ピックアップするようになっている。

また、パソコンを見たら今の日本じゃほとんどの人がパソコンだと認識するだろうから、

ひとによって変わるということはないけど、

ひとの起こす現象をどう認識するか、どう関心を持つか、

というのは人によって違う。

自分がピックアップしたものだけが自分の人生を創るということは言える。

唯一無二の意識であり、人生だ。

悩んだり苦しんだりする人生より楽しい人生がいい。

渡辺淳一さんの本に「鈍感力」というのがあったようで、

読んだことがないんだけど、人からの言動に敏感になってしまうと、

あまりいい方向に事が運ばないというような内容なのかと勝手にそのタイトルから思ってる。

些細な事にこだわっていると大事なものを見失う。

いま、ネットで「鈍感力」を検索したらこんなのも出てきたよ。

「・・・あの小泉元首相までが中川幹事長や塩崎官房長官に、

『目先のことに鈍感になれ』とアドバイスしている」・・・という文章があったよ。

大局的見地とかいうのもそうなんだろうな。

大局的見地でものを見ると、結構鷹揚になるということはあるだろうな。

「大局」というのは「物事の全体のなりゆき。」ということのようだから、

全体を観る、鳥瞰的に観る、経緯も観るということで、

部分だけ見てるのよりやはり鷹揚になるのは避けられないのかも。

生命の力を信じる・・みたいな感じもしてきたぞ。

母を思う・・・

2013-07-21 15:24:14 | 日々の暮らし・思い出
母のことが話題になると涙が出て来てしまう。

何の涙なんだろう?!?

悲しいという感じはしない。寂しいのか???

母の私に対する愛、そういったものが私にはなくなってしまった。

絶対の愛を受けることがもう無い、そんな感じがしてしまう。

不器用な愛だった、と思う。

えらそうに聞こえるかもしれないけど。

愛が伝わるようにすればよかったのに・・・

・・・そっくりその言葉が自分に還ってくる。


子供がまだ小さいのに死の床に居る母親の気持ちはどんなものだろう。

この世で一番辛い思いなんじゃないかと思う。

それと子供を亡くしてしまうという母親の気持ち、

これもこの世で一番辛いという気がする。

母親の愛って一方通行だ。本当にそう思う。

子供から見返りを期待しない。

期待する場合があっても、その期待が裏切られても傷つかない。

それほど落胆しない。

そんなこと当たり前だと観念してるのかもしれない。


言葉 と 動いてる私

2013-07-21 09:11:02 | 言葉
ここにいろいろ考えたことなんかを書いてる。

考えることの実況中継。このブログを利用して考えてる。

書かないと考えられないから。

それを書いてる自分と書かれた言葉は別もの。

自分という私は動いてる人間で謂わば相対者。

書かれた言葉は思いや考えであって、人間そのものじゃない。

自分の意識の管理者は自分以外にないんだけど、

あくまで管理者であって、所有者じゃないともいえる。


「考え」「思想」「思考」は目には見えないもの。

私という人間は目に見える。心ころころでしょっちゅう変わる。

食前食後で思いも変わる。

ちょっとしたことで喜んだり、ちょっとしたキッカケで暗くなったりする。


書くことで考え、考えることで生み出される言葉は、

私という動くものから放れる。手綱から放れた馬と同じで。

いや、書いている最中も私が書いてると思えないことがある。

今というその時の私の周辺に漂っている考えのような思いのようなものを、

コレは何なんだろう?何を言ってるんだろう???

と、なって、それを探しながらパソコンの文字に変換してるような・・・

そんな感じがする。

だから、その言葉とあんたは全然違うじゃないかっ!って、

言われたとしても、「そうですね~ 本当ですね~」と言うしかない。


私の手が動いて文字になった言葉を動いてる私が読むと、

面白いなぁとか、なるほどなるほどとか、なかなかの文章だなぁとか、

これはちょっとなぁとか、これって違うんじゃないかとか、・・・思う。


山岸さんの「条理と相対者を切り離して考える・・・」という文章も

こういったことなのかなぁと思う。

「自覚」 と 「喋るな」

2013-07-21 08:39:24 | ひとの幸福
昨日手のひらに「J」とマジックで書いといたけど、

意識を自覚している時間が長くなったとは感じられなかった。

やってみてそうだろうな、と思ったよ。

「自覚しよう」と思っても、自覚状態にはならないのは当然だ。

自覚は行為や行動じゃないもんね~

自覚してこうしようと思うその(こうしよう)の(こう)は行為行動だけど、

(自覚して)は意識の状態を表す言葉なんじゃないかな。

広辞苑で見てみよう・・・①自分のあり方をわきまえること。

やっぱり(あり方)であって、(やり方)じゃないね。

「喋るな」の方がきっと効果があるんじゃないか。

(喋る)は行為を表す言葉だから。

今までも喋らないことでの効果は感じたことがあるのに、

ぱっと反応してついつい喋っちゃう。

そういう自分だということは自覚してるよ。うん。

無意識からの指令でぱっと動くロボット状態のことが多い。

手のひらになんて書こうか・・・

言うな 反応するな 喋るな・・どれも長いな。

じっとしてろの「J」にするか・・・

きっと又、やれなかった・・と書きそな感じ。

なんというタイトルにしようかな・・

2013-07-20 09:25:49 | ひとの幸福
「ひとのことを何とかしようとするな。

その人のことはその人がやる。

その人に委ねたらいい。

人の行為を問題と観るから、それを解決しようとなって、

行為が起こるから、問題に“なる”

何もしなかったら問題にならない。

よかれと思って口出し手出し。

善意あるから、そうせずには居られない。

わかっちゃいるけどやめられない。

こういう心がのさばっている間はこういう世界が続く。

こういう心が“何とかしようとしない”“ひとのことはその人に委ねる”へと、

変わる為の方法が青い本にも書かれてある。

それ以外の本でも結構ある。仏教にもある。

在るがまま(思い・行為)を認め合う=委し合い

こういった内容の本は青い本が出版された時代より飛躍的に増えている。

けど、青い本ほどしつこいわかりにくいものは少ない。

青い本はわからないからいい。

彼の思いをわかりたい、幸福になりたいという情熱だけがそれを読み解かせる。

世界の幸福を思うなんて流行らないかもしれないけど、

それに繋がる道は全ての自分という一人一人が幸福になるということ以外にない。

他と共に存在しているのが人間だし、生命はすべてそうなっている。

個に全が見え、全は個に影響を与える。

そのサイクルはどんなこともそうだ。


他者の、自分の、何とかしようとするという思い、そこから起こる行為をも、

それをなんとかしようとする思いで観てないか?

それをなんとかしようと行為してないか? 

そのときその時の自分の意識を観察すること。

それはそれぞれの自分にしか出来ないことだ。

いま、自分の意識がどうなっているのか、自覚していること。

そうしないと無意識からの命令に服従するロボットだ。

過去から来る次に繋げたくない思考・見方にストップをかけるのは、

自分の意識に留意することから始まる。

注意してないと、スルスルっと自動的に出たがる。


頭の中にあるものの整理。そして、自分への手紙だ、コレ。

手のひらにマジックで『自覚』と書いておこうかな。

目立つのもいやだから『JIKAKU』か『JI』とか、

流行の「じぇじぇ」をもじって『JJ』もいいかも。

いや、それもいいけど、『喋るな』もいいだろうな。

特に夫との間では、ぱっとすぐ喋るから。

観葉植物

2013-07-19 11:04:42 | 日々の暮らし・思い出
玄関の前に吊るしておいた観葉植物の、葉っぱが斑入りの、名前は知らないんだけど、

それが水をちゃんとやってもなんとなく元気がなくて、

葉っぱの先が黄ばんだりしてた。

栄養が足りないのかなぁ、なんて思って液体肥料をやってみたけど変わりがない。

昨日気づいた。暑がってる!!!んだ。

そうか、そうだったのか!!

で、昨日、日陰の軒下に場所を変えた。

今朝見たらいきなり元気そうになって、嬉しそうにしてる。

あぁ、ごめんね~ 気づかなくって・・とホントに思って、

それにそう声かけた。聴こえたかな~

その時々で相応しい場所がある。自分から動けない植物だから

ちゃんと観察して、私がやらなけりゃ可哀相なことになる。

この暑さは彼らにも堪えてる。


伯母さん

2013-07-19 10:36:13 | 日々の暮らし・思い出
母が亡くなって19日。

昨日母の姉である伯母さんが亡くなったと連絡が入った。

仲良い夫婦は死ぬ日が近いということを聞いたことがある。

姉妹でもそうなんだろうか。

伯母は具合が良くなかったようで、あえて妹の死も知らせなかったという。

それでよかったと思う。

伯母は90才は過ぎていた、何歳だったのだろう・・

私が子供の頃の伯母が浮かぶ。母と違って上品な美しい人だった。


伯母の妹である母は明治生まれの舅と姑が居た家に嫁いで、

その頃の常識の、(嫁は一切服従)を守っていたのだと思う。

私の祖母である姑に口答えなんか一回もしなかったと思う。

そのせいか祖母や祖父が亡くなる前の母について印象が薄い。

生き生きしていた姿が思い浮かばない。

けれど、夏休みに行く伯母の家では、

母は生き生きと明るく楽しげに振舞っていたのを思い出す。

舅や姑の居ない伯母の家で過ごすことが当時の母の何よりの楽しみだったのかと思う。

母や母を大事にしてくれた伯母も亡くなり、

一つの時代が終わるんだなぁと感無量になる。

あの世で母と伯母は会ったろうか。

あら、みよちゃん、来てたの!?なんて笑っているだろうか。