ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

震災で我が子を失い・・・

2013-07-09 08:39:48 | ひとの幸福
震災で自分の小さな子供を失った女の人がこの前テレビのドキュメンタリーに出ていた。

その人は後に新しい子供を授かって暮らしているんだけど、

その子供に集中したり、冗談に笑ったり、楽しく感じたりするとき、

死んだ子供に申し訳がない、といった罪悪感に襲われるという。

子供だけ死んで、自分が生き残ってのうのうと幸福でいいんだろうか・・・

笑ったりしてていいんだろうか・・・

喜んだり、楽しんだりしてはいけないんじゃないか・・・

・・そんなことを思う、と言っていた。

わかる気がする。

けれど、多分、亡くなった子供はあの世でそんな母親を責めたりしないだろう。

そういうことを思う、そのことがその子の魂が成仏しないことになる・・・

そういった内容の本を読んだことがある。

鵜呑みにするわけじゃないけど、ひとの苦しみを喜ぶ魂なんてないと思うので、

そういった見解はもっともかなと思ってる。

まだ死んでないから実際のところわからないけどね。

自分さえよければいい、なんてその母親は思ってないのは勿論で、

だからこそ、幸福を感じる自分に罪悪感を持ってしまうのだろう。

自分さえよければいい、というように人間は元々なってない。

そう思う。本質的にそうだ。

だって、(自分さえ)という在りようがこの世では成立しない。

観念の世界にだけ、それはあるのだろうけど、

事実の世界には存在出来ない。
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役に立つ ②

2013-07-08 13:29:34 | ひとの幸福
今の世界にはまだ「人の為に」という思考が必要ということはあると思う。

さっきそう書いた。残念ながら今の世の中には必要なんだろう。

どうしてかって・・・自分さえよければいい、という意識が

堂々とまかり通っているからだろう。

だから、今のところ「人の為に」という思考が尊重されている。

人間の意識がもっともっと成長進化したら、

そんな思考は要らなくなる。

この世に病人が居なくなったら、病院は要らなくなるのと一緒だ。
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役に立つこと

2013-07-08 11:20:27 | ひとの幸福
今回東京に車で行った。

二人なら運転を交替できるし、自動車道の料金が日曜日は半額だし。

新幹線に乗るまでに時間がかかる所に住んでいるから、

母の病院まで新幹線利用で行くのとほぼ同じ所要時間だしね。

運転する時によく思うことで書いたこともあるけど・・・

運転する時に人の為にと思って運転する人はいないと思う。

けれど、結果としてその運転が他者の為になっている。

夫々が安全に留意して運転している。

それぞれが何らかのわけがあって、その時その場で行きたい所に向かって運転しているのだろう。

謂わば自分のやることに専念している。

傍を走る他者の為に運転してはいない。

サッカーや野球のチームワークと一緒かと思う。

ピッチャーはピッチャーのやることに専念してる。

ファースト、セカンド、サード、内野手、外野手、みなそうだ。

自分のやる事に専念している事で全体がうまく行く。

こういうメンバーが決まった団体、組織だからそうだというわけじゃない。

普通の道や高速を走る車の一台一台が野球での一人の選手だ。

車を運転してる時、故意的な乱暴な運転に遭うとひやっとするけど、

そういう場合の人は自分さえよければいいとなっているのかもしれない。

そういう人じゃない多くの人は、

自分のやることを真面目にやっているだけなんだけど、

自分さえよければいい、というわけじゃない。

結果として全体の為になっている。

こういうことは運転に限らない。

ブログに文章を書きたいから、パソコンを買って使っているけど、

結果としてパソコンを作る会社で働く人たちの為に幾らかはなっているだろう。

部品を作る会社のひとも・・その原料関係の人も・・・

こうして自分が自分の為に生きていること、

自分の為に食べて着て寝て使って暮らしていることが、

結果として自分以外の人の為になっている。

お米を作る人、衣類を作る人、流通業の人、サービス業の人等々・・・

計り知れない多くの人の仕事によって私は生きていることが出来るし、

そういう会った事もない人の暮らしを自分を含め、多くの消費者が結果的に支えている。

作る人がないと使えないし、使う人がいないと作らないし。

買う人がなければ売れないし、売る人がないと買えないし。

(受け取る人がいないと渡せないし、渡す人がいないと受け取れない)

今はお金を介在した社会だけど、お金が介在してもしなくてもそれは同じことだ。

一方だけで成立するものはこの物質界にないのかと思う。

植物が存在するだけで動物が生きられるのと同じ原理なのかと思う。

植物は動物の為に犠牲的に生きているわけじゃない。動物も又。多分。

なんでこんなこといちいち書いているかというと、

人の為(自分以外の者の為)にと思う、そういう顕在意識は

本来の人間に要らないんじゃないか・・

・・そう思ったからなんだ。

本来の私たち人間という生命に「人の為」なんて思考は要らない。

(今の世界にはまだそれが必要ということはあると思う。念のため書くけど)

ただ人間で在るだけで結果的にどうしても人の為になってしまう。

それはこの世の人間(肉体と精神を持つ)が事実として他と離れて存在してないからだと思う。

福岡伸一ハカセの文章にもあったけど、私たちの身体は単なる淀み。

他と離れて存在する固体ではない。空間的にそういう存在だ。

これはそう思う思わないというレベルのことじゃないんで、しょうがない。

そうなっているんだもんね~

時間的にもそうなのは勿論だよね。

いきなり私という人間が無からぽっとこの世に出現したわけじゃない。

ここまで書いたのは形あるものとしての人間のことだけど、

形のない生命である意識・精神も同じ。

今ここに在る自分の意識も自分以外である多くの他者の意識無しではこうなってない。


なんだか私たちはとてつもなく豊かで深い世界、宇宙、生命そのものだ。

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箸もつけない厳しさ・・

2013-07-07 17:35:59 | ひとの幸福
心にもないお付き合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさが実践出来る・・・

・・云々の文章が青い本にあって、

(寄進とは社寺などに金銭・物品を寄付すること。

寄付というのは必ずその相手の為というのがあるということか)

これって厳しいことだなぁと思って読んだことがあるけど、

何かをお前の為にしてやった・・みたいな

ありがとうという言葉を強要するような感じの人の行為に対して箸もつけない・・

ということなんだろうか・・?

そういう傾向がある人が自分の為に何かをしてくれそうな気配を感じたら、

そういうものは受けない、ということを云っているんだろうか・・・?

なんか、ちょっと違う気がする・・・

そういう傾向が大いにある人も、やるときは、

ありがとうと言われたいと思ってやってるんじゃないと思うけど・・

いや、やる時に“人の為”と思ってやること自体が“お付き合いの寄進”なんじゃないか・・

今、ぱっと思った。

あの人にこれを作ろう、これをあげよう、と思う時でも、

自分がそうしたくてするという心には“人の為”という思いなんか浮かばないはず。

自分がしたくてしたことが結果として人の役に立ったということはあるだろうけど、

自分がやる時に“人の為”があると、それは“偽”になる。

人の為にやる、ということについてはこんなふうなことを以前にも考えたことがあるけど、

それが「お付き合いの寄進」という言葉と同じ意味なんじゃないかと思ったのは初めてだ。

「心にもないお付き合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさを実践できる」の、

“心にもないお付き合いの寄進”なんだとわかるのは自分の心のことだ。

他者が今までずっと(人の為にと思いながらやっていた)とわかったとしても、

(そんなこと、わかるだろうか???)

今回は違うかもしれない。他者の心はわからない。

そうではないだろうかと推測することができるだけだ。

けれど自分の心はわかる。

自分の心がお付き合いの寄進状態なのか、そうじゃないのか、自分にしかわからない。

自分の心が“人の為”なんていう(偉そう状態)になっているかいないか、

自分だけがわかる。

何をするにも自分がただ、それをやりたくてやる状態でいれば、

見返りを求めたり、恩着せがましい気持ちにはならない。

いつでも快適な気持ちで生きられる。

そういうことになると思う。

まだなってない私はそう思う。
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返礼?

2013-07-07 16:42:09 | ひとの幸福
見返りを求めてしまう・・というようなことは世の中に多い。

私も十分たくさん経験がある。

小さな子供が家の手伝いをして親から「役に立ったわぁ」と言われるとすごく喜ぶけど、

その事に喜びを感じてしまうのは人の本質なんだと思う。

手伝っているその最中もやりたくてやっていると気持はルンルンだ。

そしてその後お母さんからニコニコと「ありがとう!」と言われると有頂天になる。

もっと家の手伝いをしたくなる。そこまではいい。

どうしてそれが「ありがとう」と言われないと気が済まなくなるんだろう。

自分のしたことが人の役に立ったか立たなかったかが、

とても気になる人は多い。

ほとんどの人が手伝いをした後に子供に「ありがとうね」と言う・・その数多くの経験から、

「ありがとう」と言われて当然!になるのかなぁ。

いつも言われていて、ある時それを言わない人に遭遇すると、

「なんだ、この人おかしいっ!」になるのも不思議じゃない。

そう思わない子どもも居るかもしれないけど。

さて・・・

「ありがとう」を言うことが義務になるとしんどい。

ありがとうを言う暇もないことも人生にはある。

自分がやりたくてやったことをひとから認められたいというのもなんなんだか・・

この頃は感謝感謝感謝とよく聞く。

感謝したくて感謝するのはいいけど、

感謝せねばならぬ・・になるのは・・人生は苦だ・・ということになる。

感謝し忘れると、ナンダカンダと堂々と文句を言う人も世の中には居る。

感謝の言葉という見返りを求めてしまうのは、

社会の中でそうなったんだけど、

親や周りの影響を受けたまま、共に気持ちよく生きるための点検をせずに、

そのまま固持してる状態といえるかなぁ。

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犬のえさ

2013-07-07 10:03:31 | ひとの幸福
石垣から戻ってからイブと接していた事を思い出していた時に、

他にもっと別の接しようがあったんじゃないか・・そんな思いがどうしても湧いて来ていた。

そんな時に若い頃の貧乏旅行で行ったヨーロッパでの出来事を思い出した。

ドイツだったか、フランスだったか、憶えていないんだけど、

駅の構内で犬を連れていた婦人が居て、

傍に居た私は持っていたソーセージかなんかをその犬にやろうとした。

何の考えも無しにそうしようとしていた自分だった。

その時その婦人はにっこり笑って、「やめてね」というような動作をした。

それを見聴きして、とても恥ずかしく思った私だった。

犬の餌はどういうものを何時にやるとか決めてあったのだろう。

そんなこと今思えば当たり前なんだけど、当時の私は今より馬鹿だった。

その婦人が怒った顔で「なにするの!やめて」と言ったら、私はどんな反応が出たろう。

恥かしいより、もっと別の感情が出たかもしれないと思う。

“怒る”ということはその行為(勝手に餌をやろうとしたこと)を謂わば、

“よくないこと”と決めつけて観ることから始まる。

にっこり笑って私の行為を制止した婦人は、私の行為を“無知”と観たのかと思う。

実際がどうだったかはわからないけど、そう考えられる。

その行為を“無知”と観たら怒ることは出来なくなる。


イブが弟のアダムを蹴ったり、敲いたり乱暴したとき、

愛されたいが元での嫉妬ではないか、という理屈はあったけれど、

感情の辺までそれは降りて来てなかった。

だから、「やめようね」とは言ったものの、

にっこり笑って制止するというすっきりしたところまで行ってなかった自分だった。

自分の行為にまだ迷いがあったことをはっきり思いだせる。

「頭でわかって実行出来るに練習要る」という言葉のように、

まだまだ練習が足りない自分だけど、

この婦人のことを思い出したことはこれ以後なんらかの作用を

私に投げかけてくれるんじゃないかと幾らかの期待があるよ。

さて、どうなりますか・・・
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トラブル事前回避

2013-07-06 17:08:20 | ひとの幸福
小さな子供と親のやりとりをこの間いろいろと見る機会があった。

昔の自分を思いだすのもあれば、

私はこういうことはしなかったなぁ、と思うこともあった。

それが「トラブル事前回避」。

私はとにかく平和主義者なのか超面倒くさがり屋なのか、

子供となんやらかんやら揉めるのがイヤだった。

子供が駄々を捏ねたりするのは自分が面倒だったので、

そういう展開にならないように、自分に都合よく動いていたなぁと思う。

これからアレをしよう、というときに、

それ以外の、子供が興味を引くようなものは周りに置かなかったり、

子供がそれ以外のことに関心が向かないように意識してたなぁと思った。

小さな子連れである自分が今これをしたい、(風呂入れとか、炊事とか何かの用事とか)

ということがはっきりある時に、

それを実現出来るのは子供もそれに協力体勢になって居るという状態が必要だ。

その時子供が駄々を捏ねたりしていたら、

その時自分がしたいことが出来ない。

また、後でこうするからねなんて、その場の子供を騙して、

ツケを後に回すことも後が面倒くさい展開になるから避けてたなぁ。

かといって、子供を願い実現の為に犠牲にしたということでもない。


関心を持っているものがそこにあるとわかったら、

好奇心旺盛な子供がそれを触りたい、遊びたい、に“なる”に決まっている。

そう“なるように”仕向けておいて、

いけませんだの、やりたいだの、とわぁわぁ交戦するのが本当にイヤだったから、

とにかく穏便に和やかにやりたいことが展開するように配慮してたなぁと思う。

偉そうに言ってるんじゃないよ。

そうじゃないことも実際たくさんあったと思うけど、都合よく忘れたんだろう。

嫌な事は忘れるのも私は得意みたいだ。

でも、この事も憶えていたわけじゃなかった。

我が家から離れていたこの間のその時、

そうじゃない人たちのやり取りを見て、思い出したんだ。

揉めないように(“ならないように”)してた、というのは確かにあるなぁ。

あぁ、なんでそんなことをこの場で言うんだろ???

トラブりたいのかなって普通に思った。

小さな子供の特性である好奇心旺盛なこと、やりたい気持ちがたくさんあること、

そういう面が在ることを考慮して動いていた自分だったのかと思う。

いや、そんなふうに意識的に思ってたわけじゃない。

当時はとにかく自分が楽したいから、イヤな思いをしたくないから、

やりたいことをスムースに実現したいから、だけだったんだろうけど。

でもその方法は周りに居る人(この場合小さな子供)と共に、でなければ、

そう“ならない”ことだなぁと思うよ。

この、共に、というのは存在の特質をその通り受け入れ、それを活かす、ということだろうか・・

子供はやりたい気持ちいっぱいなこと、

好奇心旺盛なこと、生命力の固まりなこと、

そういう面が在ると観察し、認識し、それを活かして願いを実現する方法かなぁ。
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潮騒のメモリーズのユイちゃん

2013-07-06 15:49:08 | テレビを見て
朝の連ドラ『あまちゃん』見てる。

ここのところナンダカンダと見ない日もあったけど。

ミス北鉄の足立ユイちゃんが荒んですっかり変わった・・けど、

今日辺り、だいぶ快復でなにより。

父親が倒れ、良妻賢母?の母親が何故か行方不明になり、

何故かユイちゃんは荒んだ。

昨日見なかった私は夫からあまちゃんの母(小泉今日子演じる)と、

ユイちゃんのやり取りを聞いた。

全くキョンキョンの言う通りで、荒むより東京に行けばよかったのだけど、

ユイちゃんは何故か荒むことを無意識のうちに選んでしまったのだろう。

何故そうしたか???・・・

ユイちゃんがそうなるのも無理ないという見方も出来る。

僻み根性の強い私はわかる気がする。

そういう時って、自分を被害者に仕立てる方が楽なんだと思う。

自分を被害者にして、加害者(この場合行方知れずになった母親?)を恨んでいればいい。

自分を、被害を被った可哀そうな人にしておけば楽なんだ。

被害者だから荒んで当たり前という免罪符を手に入れて、

堂々と荒んでいたのだろうと思う。

自分のそういう時の心をよ~く観察すると、

こういう場合の被害者的心情ってなんだか微妙にえらそうになる。

誤解のないようについ言いたくなるけど、自分がまるで何も悪くないのに、

いきなり後ろの車に追突されて怪我するようなのは本当の被害者と思うけど、

ユイちゃんのような場合、そりゃ母親がこんなときに行方知れずになるのは大ショックだけれど、

きっと母親には何かわけがあるに違いない・・・

幸い父親もだいぶよくなったし、兄が居るから私は行きたい東京に行こう・・・

と、なって、自分の意志を遂行できる展開も可能性としてはある。

(荒んだユイちゃんは父親を看なくなった。

東京に行っても看なくなるのは一緒だ)

けど、ユイちゃんは荒む方を選んだ。悲劇のヒロインを選んだ。

いいことなにもないのに・・・

・・僻み経験のたくさんある私はついついこんなお節介を思ってしまう。

心情的被害者を選ぶ心理って確かにあると思う。

母が居ないのに兄と病後の父を置いて東京に行くことは、

あのユイちゃんにとって、彼等を自分の被害者にすることだったのだろう。

加害者になるより、被害者を選んだ、無意識的にそういう行動をとったのかと思う。

私も交通事故の加害者になるより、被害者になった方が気が楽と思う・・・

ひとが自分の運転ミスで(何の悪意も無く)死んでしまうなんて辛すぎる。

そんな経験と自分が何の非も無く交通事故に遭って死ぬ経験とどちらか選べるんだったら、

殺すより自分が死ぬ方が気が楽なんじゃないかな。

こんなの想像でしかないのは勿論だけど、

過失致死罪という“加害者”は選んでなるわけじゃないけど、

ユイちゃんの例でいうと、

加害者(実際は加害者でもなんでもないけど)になるには強い意志がなければ出来ない。

東京に行ってアイドルになるという自分の意志より、

加害者になりたくないという意志が強かったのだろう。

ひとがどう言おうとやりたいことをやるという意志がちょっと足りなかったのかもしれない。

・・・全く勝手な解釈ではありますが、

こんなことを思った私でした。
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告別式

2013-07-06 09:58:48 | 日々の暮らし・思い出
火葬場へ遺体を運ぶ前、棺にみんなで花を入れた。

娘や姪っ子たちはおばあちゃんへと書いた手紙を入れた。

母が可愛がっていた猫の写真も姪が入れていた。

その場で普段涙など見せない兄や弟が泣いていた。

兄嫁さんも姪もいとこも夫も涙していた。

私もなんだかわからない涙(そのとき)が止まらなかった。

悲しくてたまらないという涙じゃなかった。

兄たちもそうだと思う。

愛した、愛された、その記憶の全てがひっくるまって一瞬に自分にやって来る・・・

そんな感じの涙だったのかと今は思う。

告別式なんて要らないんじゃないかなんて思ったこともあったけど、

こんな涙の為にそれはあるんじゃないかと思った。


・・・友人が昨日のブログを読んでメールをくれて、それの返信をしてるときに、

こんな思いが出てきたんだ。

書いているうちにそうなった。やっぱり書くことは面白い。

表現て、(表現しよう)として、するんじゃなくて、

内にあるものが自然と表に出て来る現象なんだと思った。
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母は死んだ

2013-07-05 16:26:44 | 日々の暮らし・思い出
30日に母の入院した病院に夫と着いた。

部屋に入った時は上気した顔をしていた。肺炎で熱があったのだろう。

着いて15分後くらいの時、無呼吸状態になり、あっという間に真っ青な顔色になり、

30秒ほどで弱々しく息を吹き返し、

また30秒位してから、無呼吸になり、少ししてくっと息を吸い、

それきり二度と息を吐かなかった。

別れの言葉も言わないうちに母は逝ってしまった。

「来たよ~」と言って、顔をなでたり、頬擦りしたり、冗談を言っただけだった。

そんなに早く逝ってしまうと思っていなかった自分だった。

亡くなってすぐにその場に居た姪が「叔母さんが来るのを待っていたみたい」と言った。

そんな言葉を聞いて余計に涙が溢れた。

石垣島から私が戻った晩に急変し、翌朝入院して、

それから三日目の死だった。

兄も弟も近くに住んでいたけど、死に目に会えたのは遠い地に住む私だった。

面白い現象だと思った。

姪っ子二人と兄嫁さんと夫と私の5人と看護士さんがその場に居た。

後でその看護士さんがこんなふうに家族が見守る中で息を引き取ることは

本当に少ないんですよ、と言っていた。

運というものを感じた。


母と私。なかなか面白い組み合わせの二人だったなぁ。

兄と弟と私の3人兄弟で私は真ん中。中学生くらいの時だったか、

「あんたは知らないうちに育ってた」と母が言ったことがあった。

ということは、私以外の兄や弟にはそれなりの関心があった・・ということだろう。

それを聞いた時に寂しい思いをしたのを憶えている。

そのくらい母にとって関心を持たれない存在だったのだろう。

あまり干渉を受けなかったのだと思う。

賢かったとか、可愛かったとか、悪さばかりしたとか、

そんなふうな私ではなかったからなのか、そのわけはよくわからないけれども。

意識的に母が私にそうしたということじゃないのは勿論だけど、

そんなふうな環境だったことは私にとって有り難かったなぁと今は思う。


告別式で久しぶりに会った母方のいとこが叔母さんはバイタリティがあって、

さっぱりしていた、と言っていたけど、

母はいとこの前でもそういう人だったんだろう。

生前元気だった頃の母の話を何人からか聴いた。

同居していた姪っ子は「たくさんのみよこ語録があるよ」と言っていた。

そんなのを聴けたのも楽しかった。

母の事はなんか書きたいことがいっぱいある気がするけど、

今日はこれで終わりしにしよう。
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