ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

かさぶた ②

2013-07-13 10:19:37 | 日々の暮らし・思い出
瘡蓋の事での自律心というのをさっき書いたけど、

何故かさぶたを取りたいのにじっと耐えているのかといえば、

かさぶたを取ったら結果的に治りが遅い事を自分がわかっているから。

それがわかるから(取りたい→取る)にならない。

ベンジャミン・リベットの意識実験を思いだす。

じっと耐えるのは自発的自由意志によるものだ。

無意識からの命令が「気になるものは気にならないようにすべし」なんじゃないか・・

そこで意識は、かさぶたを取りたくなる・・・

だが、取ったらどうなるか・・今までの経験が甦る・・

経験に学べ・・が浮かぶ・・

いや、取ってしまいたい・・早急に解決したい・・

それが本当の解決か?・・・

ううっうう・・取りたいけど我慢する・・その欲求がのさばりそうになるのを耐える・・

取らない!・・・これが自発的自由意志だ。誰かに命令されたわけじゃない。

自らの苦しみの果て(そうでもないか・・)の意志だ。

耐えた!耐えることが出来た!

こういう経験をかさぶたを含め多く経験することが人間成長の礎になるのではないか・・・

今日はなんだか選挙モードなのかなぁ・・
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かさぶた

2013-07-13 10:02:50 | 日々の暮らし・思い出
かさぶた のことを「瘡蓋」と書くようだ。変換してわかった。

傷の蓋。なるほど。

今、鼻の穴の中に瘡蓋がある。コレが気になる。

何のきっかけで出来たのか覚えがないんだけど、もう1週間は在る。

さっき洟をかんだらちょっと小さいのが取れた。痛くはなかったけど。

鼻の中のは適当に湿り気があるので、治りが遅いように感じる。

鼻の中に限らず瘡蓋があるとそれを取ってしまいたくなる。

無理に取ると皮膚が赤くなって、そのうちそれが又瘡蓋になる。

何度こういう経験をしたろう。

取ったら傷の治りが遅くなるとわかっているのにやってしまう。

いや、今回の鼻の中のはじっと耐えてるよ。

取りたくなるけど、じっと耐えてる。

こういうの、自分で自分を律しているというんだろうな。

そんな大層な・・と思う人もあるかもしれないけどもさ。

原理というか、そういうものは対象がどれほど大きくても小さくても一緒かなと思う。

鼻くそも瘡蓋も政治も一緒かなと思うよ。

瘡蓋は気になる。普段と違ってぼこっと出っ張ってるから、

そこを取って普段通り平らにしたいと思ってしまう。

そこの部分を正常にしたいという無意識の願望かと思われる。

だが、それを無理に引っぺがすのは無謀というべき。

良かれと思って(良かれと思ってないか・・)いっときの快感の為に、

やってしまう・・これで平らになった、すっきりしたぁ♪って。

だけど、その後・・ヒリヒリする。癒えてない古傷が傷む・・

鼻の穴の中の場合、湿っているときは痛まないけど、

乾いてくると、鼻の動きでその皮膚が引きつれ生傷が痛む。

あ~あぁ、取るんじゃなかった・・・

これもわかっちゃいるけど止められないという煩悩なんだろう。

自然に治るのを待てない。

結果を急ぐ。

目先のやりたい気持ちに囚われる。

青い本の最初の方のアレ・・

・・諸事を考え行なうに当たり、その思い為すこと(瘡蓋無理剥がし)が、

果たして(結果として・・だと思うけど)

終局において自己を含めた・・・永遠の幸福に・繁栄に資するものであるか、

どうかを検討し、一次的(・・・)の目前の結果にとらわれないように、

心して居ります。

・・という奴もこういうことを云ってるんだと思うよ。
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利他の心

2013-07-12 15:58:53 | ひとの幸福
利他の心は誰でも生まれつきみんな持っている。

それを人間から取り去る事は出来ないようになっている。

人間の芯には何故かそれが在る。

在るのだから、他から「利他行をせよ」なんて言われなくとも、

やるつもりがなくても、やってしまうものだ。

放っておけばいいんだ。

放っておけず、あれこれ口出ししてしまう。

釈迦が生きていたら、こういう現象に苦笑しているだろうか・・・
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2013-07-12 09:58:05 | 本を読んで
去年読んでた「せいめいのはなし」の中で養老先生の発言の一部のコレ。

「どうして脳が秩序を持ちたがるのか前から不思議に思っていました。

しつこいんだけど、どうして意識は止まった物(ここでは漢字の“物”になっている)しか扱わないんだろうか。

情報のことを問題にし始めた以来いつも思うことです。

意識は起こっている現象自体を扱わないというよりも、扱えないんですね。

ランダムでも秩序的でもいいんですが、

世界があって意識はそれをとらえる。

そのとらえ方として、止まっているもの(ここではひらがなの“もの”になっている)しか扱えないから、

動的平衡の平衡状態を拾うようになっている。

進化的にいえば、そのほうが合理的です。

平衡状態になったらすぐに意識が拾う。

でも、平衡にしてしまうと時間の問題が消えちゃうんですよね。」

そしてそれに福岡ハカセは「そうなんです。そこなんです。」と返している。


養老先生もしつこいんだろうけど、私もしつこいな。

いや、ここで何を云っているのか、わかってない、というのが

頭のどこかにしまわれてあったんだろう。

なので、何かのキッカケでそれは「こういうことなのか!?」がやって来ることがある。


「平衡状態になったら意識がすぐに拾う。

でも平衡にしてしまうと時間の問題が消えちゃうんですよね。」

平衡になったら意識がそれを拾う、ということは、

顕在意識に上がって来るものは動的平衡の姿ということ。

そして意識は常に「今ここ」に在る。

過去の事を思い出しているのも「今ここ」の意識であり、

過去の意識なんて言ってもそれを思い出しているのは「ジャスト今ここ」。

時間の問題が消える・・とはよく云ったものと思う。

意識は「今ここ」にしか無いということだろう。

どうして脳が秩序を持ちたがるのか?という養老先生の?は

意識が「今ここ」にしか存在し得ないからなんじゃないか・・

なので、当然、浮上する意識は常に平衡状態を表わすことになる。

時間というものはひとや宇宙の動きを表わすために、人間が作りあげた観念だから、

絶対の世界に在るわけじゃない。

(考える)という相対的にしか出来ないシステムの中で(考える)ことをすると、

時は消えてしまう・・絶対の世界では無いということになる・・のは凄く面白いことだ。

考える・・・のはこれだから面白い。
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ひとからなんと言われようと ③

2013-07-12 09:23:35 | ひとの幸福
なんでこんなタイトルなのかと言われそうだけど、

自分が加害者だと人から思われる・誤解されることの恐さを覚悟するとはどういうことか・・

考えたくて書いているわけなんだ。

ミス北鉄のユイちゃんは加害者になるより、被害者になることを選んだ。

勿論無意識的にだと思うけど。

それは加害者になることが恐かったから。

母が失踪したこんな状況だけれども、私は東京に行きたいと父や兄に言ったら、

父や兄が猛反対するか、賛成するか、渋々賛成するか、

どうなるのかはやってみないとわからないことではあるけれど、

こういう状態で行くと言えない自分だと、

自分でわかっていたのだろう。

それを言うことが頭に浮かんだけど、出来なかったのかもしれない。

こういう場合の加害者意識は(人を傷つけたくない)という優しさから始まる。

(自分だけしたいことをするのは自分勝手なことである)というプログラムもあるのかもしれない。


一昨日書いた、釈迦についての解釈(他の文献から)である、コレ。

釈迦は自分の心の問題を解決したいと、妻や子や国を捨てたような、

“とんでもなく自分中心主義者”だった。

そんな釈迦より、ユイちゃんは自分中心主義者じゃなかった。

長い目で観ると、自分中心主義者で居る方が結局のところ、

周りも幸福になるのかと思われる。

このことがもっとポピュラーになるといいんだけどなぁ。

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ミス北鉄のユイちゃん 

2013-07-11 17:37:55 | テレビを見て
NHK朝の連ドラ「あまちゃん」に出て来るユイちゃんの荒み(すさみ)について

何日か前に書いた。

荒むのって、加害者にはない態度なのかもしれない・・

(被害者なんだから荒んで当然という免罪符を手に入れて堂々と荒んだ・・云々)とか書いた気がする。

自分の僻み根性ととても似ている。

自分が可哀相だと思って泣いた事もあるんだよ、私。

その涙ってなんか偽物っぽかった気がする。

私は不当な被害を受けている被害者なんだから、それに抗議する気持ちや、

悲しむ気持ちになって当然・・・

当然な気持ちを表に出して何が悪いのっ!!・・という感じ。

第二次大戦下、ナチスによる不当な被害を受けた人たちは“荒んだ”んだろうか。

自分たちを可哀相な人たちだと堂々と“荒んだ”んだろうか???

「荒む」っていう言葉がユイちゃんの最近の様子にぴったりなんだけど、

「荒む」って本来どういう意味なんだろう???が今浮かんだ。

広辞苑を見てみると・・・面白い・・

[荒む・進む・遊む]とあるよ!

①湧いてくる勢いの赴くままになる。

②詩歌などを吟ずる。

③心をとめて愛する。

④⑤とあって⑥は荒れてこまやかさがなくなる。荒廃する。

他に、苦しめ痛めつける。“心に留めて愛する”。いとい捨てる。きらい避ける。

⑥の(荒廃する)が意味として一番相応しいとは思うのだけど・・・

ユダヤ人が迫害されたときの心の様子と、

ユイちゃんの心の様子とではまるで違うものがあると感じる。

そんなの当たり前だよってすぐに決めないでね。

ユダヤ人のその時の感情は“荒む”・・というようだったんだろうか・・?

ユイちゃんや僻んで泣いた時の私は⑥の荒廃するという意味じゃなくて、

⑥の中にある“心に留めて愛する”や③の「心をとめて愛する」の方にも近いと感じる。

ナルシシスト系みたいな・・そうだ、自己陶酔!

可哀相な自分に酔っている。

これは本当の被害者じゃない。

本当の被害者は自己陶酔なんかしない。

ユイちゃんや僻んでいる時の私は、自ら被害者になることを選んで、

それを楽しんでいる。

楽しくって笑ってはいないけど、自分をそう仕立て上げて、それに酔っている。

迫害されたユダヤ人とはまるで違う。

当たり前だよ、ってやっぱり言われそう。
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ひとからなんと言われようと・・②

2013-07-11 12:12:35 | ひとの幸福
他に被害を与えても、相手がそれを被害と捉えなかったら、被害者はいないことになる。

簡単な例で言うと、赤ちゃんだ。

よく登場願っているイブとアダムという小さな子供たちの例で書くね。

3才のイブが0才のアダムに蹴りを入れたり、叩いたりしても、

0才は身体が傷みを感じたら泣くけど、痛みがそれほどでなかったら、

勿論泣きもしないし、蛙の面にしょんべん状態、屁の河童状態。

目の前で何度もそういうのを見て来たよ。

(こういう態度は自分を苛めているということである)というプログラムがないから、

なんとも思わない。心は傷つかない。

もうじき4才のイブは散々「そういうことしちゃダメ!」と言葉や顔つきで教育されているから、

頭には既にそういうプログラムが鎮座している。

加害者も被害者もいる。

元々はなかったはずなんだけど、社会の中でそうなって来た。

そういうことなら人という社会の中で違う在りようも可能性としてあるはずである。

周りの人の在りようで加害者も被害者のない心の世界が培われるはず・・・

と思うんだけど・・・





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「ひとからなんと言われようと・・・」

2013-07-11 09:47:51 | ひとの幸福
「ひとからなんと言われようと・・・」という言葉がある。

ひとから賞賛の声を浴びて、そういう思いが湧いてくるということはあまりない。

人から非難の声を浴びて・・・ということだろう。

何故そういう声を浴びるのかというと、

自分が何かの加害者になっていると人から思われ、糾弾されて。

故意に人を傷つけたひとは加害者。

被害を受けたと思ったら、相手は加害者。

被害者がいるから加害者がいる。

ミス北鉄のユイちゃんのことでも書いたけど・・・


心のことで考える・・・先ず心が先で身体はその後だと考えてるから。

本当の被害者って在るのか????

故意に人から心を傷つけられたら被害者と言える・・・

でもこれも怪しい・・

それ以前にその人は今回の加害者に何か被害を与えたという場合もあるかもしれない。

被害と加害のサイクルだ。

サイクルには終わりがない。だからこそサイクルだ。

サイクルを止めるには・・・?

心の被害者という存在は本当の本当は在り得ないんじゃないか・・という仮説を持っている。

全ては繋がり合って存在しているのが事実なら、

加害者も被害者もないのが本当だから。

具体的に考えると・・・

ず~っとこんなことばかり書いているから、察しのいい人はもういいよ、

と言うかなぁ。

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自分の為?

2013-07-10 15:15:56 | ひとの幸福
人の為にやると思ってやる場合とそうではない場合と、

見分けはどこでつくのか??

例えば、ベビー用のよだれかけやガーゼハンカチや、

ベビードレスや靴や帽子を縫って作った。

その品物は娘のベビーの為のものである。

私の為のベビードレスではないのは勿論。

人の為にやるという偽的意識でやったのか、そうじゃないのか、

実際の所どっちなのか、どうしてわかるのか???

それはその物が自分の手から離れてからなのかと思う。

相手がそれを受け取ってちゃんと有難うと言うか・・・

それをちゃんと大事にするか・・

ちゃんと喜んでいるか・・

捨てたりしないか・・

喜ばなかったら許さないぞ・・(ちょっとオーバーか)

・・こんな思いがやって来たら、ちょっと厄介だね~

こういうのは結果的に言って、ひとの為になってないということかな。

自分の満足心の為にひとを利用してるといえるかな。

ちくちく縫っているときはその物しか頭にない・・

この位のサイズでいいのかな・・

これならちくちくしないかな・・

この紐は結びやすいかな・・

こっちのレースの方がこれに合うかな・・

自分の手から離れたら、その物は頭になくなる。

こういうのが偽的意識で生きてない・・ということだろうか。

それは常に「今ここ」に生きている状態とも言えるかな。また・・

娘のベビー誕生はキッカケで、そのキッカケのお蔭で、

楽しい暇つぶしが出来たということなのかもしれない。
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利他 と 釈迦

2013-07-10 14:35:07 | ひとの幸福
仏教で「利他」という言葉がある。

ほとんど仏教について勉強してない。

時折、これってどういうことなんだろう?とネットで調べるくらい。

「人の為」という思考について思ったことを綴った後、

釈迦は「利他」ということを説いたんだろうか?が浮かんだので、

調べてみた。

こう書かれてあった・・・以下。

・・・釈迦はカピラ国という王国の王子として生まれ,

何一つ不自由のない幼少期を送った。

しかしやがて「人生には老,病,死という避けがたい苦しみがある。

いくら地位や財産があってもこの苦しみは消えない。

真の幸福は精神世界の中にしか見いだせない」

と考えるようになり,ある晩こっそりと城を出て身一つで出家し,

その後何年もの厳しい修行を続けた末,菩提樹の下で悟りを開いた。

この時から彼はブッダ(目覚めた人)と呼ばれるようになったのである。

これが釈迦の前半生である。立派な話に思える。

しかしよく考えるとこの話,実は

「まったく自分勝手な人の,自己中心の半生記」である。

釈迦の眼中には,他人の利益や幸福など全くない。

自分一人が幸福を求めて出家し,一人で努力したというだけのことで,

自分以外の者には全く関心を持っていない。

釈迦という人は,ブッダになるまでは恐るべき自己中心主義者だったのである。

その姿勢は,彼が悟った後も続いた。

悟りの喜びを噛みしめながら,

「もうこれで私の心配事はすべてなくなった。

あとは寿命が来るまで楽しく安らかに一人で暮らしていけば私の人生は完結する」と思っていたのである。

もし彼が本当にそうしていたら,この世に仏教という宗教は現れなかったはずだ。

ところがこれを天界で見ていた梵天という神が,釈迦のところへ降りてきて,

「どうぞ皆の利益のために,あなたの体験を説き示してください」と懇願する。

初めは嫌がっていた釈迦も,梵天の熱意に負けて,

とうとう布教活動を開始する。

他者を指導するためにどのような活動をしたのか。

ここが問題だ。

困っている人の苦労を我が身に引き受けて,代わりに苦しんだのか。

修行したくてもできない人の代わりに,

自分が修行してそのパワーを分けてあげたのか。

釈迦はそういったことはなにもしなかった。

彼がやったのは,仏教僧団という組織を作り,

そこに入ってきた出家の弟子たちを教育し,

自分が辿ってきたのと同じ道を皆が歩んでいけるように環境を整えた。

それがすべてである。

釈迦は「この世には,私たちを救済してくれる不可思議な絶対者などいないのだから,

悟りへの道は,私がやったのと同じように,

各人が自分で歩むしかない。

私は,その道を最初に歩いた先輩として皆を指導する。

・・・以上ネットからの情報です。この情報は怪しげなものではないと思います。


いや、実に面白い文章だった。

釈迦をなるほどと納得できる文章だ。

利他など出来ない。それぞれの自分が自分の為にやるだけ。

釈迦は自分がそうなったような環境を整えただけだった。

実際その環境をその通り整えられたのか、

それで、釈迦と同程度の人が出現したのかはどうかはわからないけど・・

そういう人もいたんだろう。

それにしても2500年も経ってこの世がこんな程度ということはあまり成果が出てないとも言えるかな。

それを山岸さんは「宗教だけではないでしょう」という文章にあるように、

別の方法を私たちに示してくれたんだろうな。研鑽という。

自分が自分で歩むけれども、共にという方法を。

あのなんとも奇妙な青い本もそういう役割を持っているのかと私は思っている。


「利他」という行為をするようにと釈迦は教えたわけじゃない。

「利他」は行為を表わす言葉じゃなくて、

人間の本来の在りようを表わす言葉なのかと思う。

人間という存在は利他的になっている・・というか、

単独で成立し得ないのが人間だから、利他とか意識してなくても、

自分がしたことが結果的に利他になってしまう。

そういうことなのかと思う。
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変わらないもの ②

2013-07-10 13:38:13 | ひとの幸福
さっき書いたことだけど、「いや、そうなってないよ」

「そうじゃないこといっぱいあるよ」・・て言われそう。

子に対して酷い親もあるじゃんか・・

自立的でも自律的でもない人いるじゃんか・・

一体も糞もないよこの世の中・・とか、

成長したいなんてちっとも思ってないよ・・とか。

そういうことは確かにあるね~ うんうん・・

でもさ、私がさっき書いたのは人の本質のこと。

元々そういうもので在るという奴。

謂わばひとの芯のようなもの。

芯だから、本質的でないものが周りにいっぱいくっ付いていると見えない。

周りにいっぱいくっ付いた付属品が本体と一体になっちゃって、

付属品がそのひとそのものになっちゃっているように見える場合もあるかもしれないけど、

一皮一皮付属品を剥がすと本質が見えて来るし、

付属品がいくらたくさん付いていても、

隙間から本質がどうしてもきらきら光っちゃう。

ひとが苦しむ姿ってそういう光があるせいなんだと思う。

元々主体的や自律的や自立的でなかったら、振り回されてもなんとも思わないし、

もともと全てが一体でなかったら、

自分が独りぼっちだと寂しく思うことなんかないからね。

子供を放ったらかしにしたり、傷つけるその時、

楽しくてたまらないというひとはいないしね。

上に書いたようなことが本質でなかったら、独りぼっちが当たり前ということだし、

子を傷つけても心の奥まで屁の河童状態で当たり前だし。
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変わらないもの

2013-07-10 13:08:42 | ひとの幸福
そうなっている、というのは過去から今までのことで、

これからはわからない・・・という(そうなっている)事と、

いつまでも何があっても変わらない(そうなっている)事とがある。

部屋のインテリアはコレコレこんなふうになっている・・・

学校の東側は空き地になっている・・・

会社ではこうすることになっている・・・

日本ではこうするようになっている・・・

こういうのは上に書いた方でいろんなことで変わることがある。

部屋のインテリアなんてすぐ変わることもある。

(会社ではこうすることになっている)事も、経営者が変わると変わることがある。

社員が変わることで変わることがある。

(日本ではこうすることになっている)事も時代やいろんな多くの出来事で変わる。

・・・こういう(そうなっている)はインテリアや空き地という空間のことや、

ひとの行為や規則のことを指している。


時代や国やメンバーによっても変わらない、(そうなっている)ものって、

いうものもある。

例えば、私は女という身体になっている・・・というのもそうかな。

まぁ、身体は形だから、整形したら男になるということもあるか?

私には二本の手と二本の脚が在るようになっている・・・

・・これも違うか・・物質的なものは無くなることもあるからね~

地球の隣は金星と火星になっている・・・これも変わる可能性があるか???

ううん・・・・考えると、形のあるもので変わらないものは無いのか??

なんだか当たり前な結論だね~

(そうなっている)もので何があっても変わらず(そうなっている)もの、あった。

それは人間というものの本質。生命の本質。生命の在りよう。

・・なんじゃないか。

謂わば目に見えない、形のないものだ。

生命・人間の成長したい、進化したい、幸福になりたい、という本質。

ひとの本質は主体的で在ること。自立的で在ること。自律的で在ること。

子に対する親の愛、が在ること。

全ては一体になっているということ。

これら(そうなっている)ものはいつになっても変わらないんじゃあるまいか・・・
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乙姫様からの玉手箱

2013-07-09 11:20:03 | 日々の暮らし・思い出
石垣から戻ってもう10日以上経つんだけど、

昨日義父がこれを書いたから読んでくれとノートを持って来た。

石垣島でのあれこれは心が満足するものだった・・・

人生最高の時間だった・・・

この旅が老齢の自分には不安ではあったけど、ドクターのオーケーやら、

皆の賛成で来ることが出来てよかった・・・

まるで竜宮城に連れられた浦島太郎のようだった・・・

ということは、乙姫様から貰った玉手箱を開けるとあっという間にお爺さんに

なってしまうから、決してそれは開けてはならない・・・

いや、既にお爺さんなんだけど・・・

健康で長生きするのは玉手箱を開けないことだ・・・

というようなことがもっと美文調にもっと情緒的に書かれてあった。


さっき書いたブログみたいに、

早くに我が家に帰って来たかった義父と認識してた私は、

彼にとって石垣での時間が楽しくなかったんだろうと勝手に思っていたんだけど、

彼なりにその時間を満喫していてくれてたのかと思った。

石垣に着いたその晩、彼の次男と孫夫婦と花嫁になる孫娘と私たち夫婦とで、

居酒屋で夕食を共にしたんだけど、

ざっくばらんな雰囲気で皆で話したり笑ったりとても楽しい時間だった。

その時の義父はビールの大ジョッキとお代わりに中ジョッキも所望され、

とてもいい笑顔をしていた。

私が今まで見たなかで、一番の笑顔のように感じた。

それ以外にも遠くに住んでいる孫娘やら曾孫たちやら息子たち一同に会えて、

いっぱい言葉をかけてもらって、嬉しかったのかなぁと思う。


玉手箱を開けるということがどういうことなのかわからないけれど、

不注意で開けないようにしないとなぁ。

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こころの落ち着き

2013-07-09 09:19:45 | ひとの幸福
「あ~、そうなっているんだ」というつぶやきはなんて落ち着くんだろう。

こちらから見てびっくりするような事でも、

この地方(この国)では、そんなふうになってるんだって・・・

なんて聞くと、あ~そうなんだ と落ち着く。

そうなっているわけはわからなくても、そうなっている、と聞くと、

妙に心が落ち着くのはどうしてなんだろう???



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義父の石垣

2013-07-09 09:13:41 | 日々の暮らし・思い出
外は暑い石垣で式やらなにやらの用事以外はホテルの部屋に籠もっていた義父は、

石垣での何日が過ぎた後、毎朝のように「今日は帰るんか」と。

何日に帰ると説明はしていたんだけど、

帰りたい気持ちが強かったのか、その説明が届かなかったよう。

そんなある日、夫がナンヤラの用事でもう少し居るから、もうちょっと帰るのを待ってくれと、言った。

義父はその話を聞き間違えたのか、

沖縄では結婚式の後、そういうシキタリがあるのかと思ったようで、

ここではそうなっとるんやなぁ、と納得したようだった。

それからはいつ帰るのかと言わなくなった。

どんな理由であれ、そこに居ることを納得してる方が義父にとっていいと思ったので、

彼の聞き間違い?を訂正せずにいた。

“そうなっているものは受け入れる”という彼の在りようによって、

彼自身の気持ちが落ち着いたのかと思った。

“そうなっているもの”は世の中にいろいろあるし、

人によってもそれは違うだろう。

その事がどんなに良くないと見える現象でも、

よい事でも、“そうなっている”ということには違いない。

(なっている=在る)ので、

「在るものは受け入れる」と彼はなっているのだろう。

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