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令和元年、5・8、精神と修行※1
[自己の善悪を批判し得る者は幸いなり]
人生の生き方、運命を開いていく根本を示しています。
このことを習慣化できれば、いかなる難解も解いていくことができます。それほど、素晴らしいことばです。
振り返ってみると、人を批判することはできても、自分を批判することは、なかなかできるものではありません。それは本人に、『自己批判の基準』がなければ、どうにもなりません。では、どのような基準を持てばいいのか?
それは〈この道〉によって、〈善とは、悪とは〉何かを知ることです。その基準は〈人から離れたところには、真実の自己批判は生まれない〉とあります。
善とは、(今、思っていること、行なっていることが、人のためになっているのか?)
ここで自己批判が生きてきます。《人に言われて、されて、嫌なことは言わない*しない》
するならば《人に言われて、されて、ためになり嬉しくなることを、努力する》ことです。
私の場合は、『御神尊様に出会った喜びを伝えたかった』
何しろ砂の中からたったひと粒の、出会いと表現しても、足らないくらいの、輝かしい出会いでした。
若い頃から、友人、知人、紹介された人に会っては、御神尊様を伝えるために、あるきました。ところが、自分のことばかり主張していると、見放されて、肝心の目的は達成されません。
だから、自分のことを見つめながら、相手の言葉に耳を傾けて、そのことが、自己を知り、見つめることに繋がり、相手に足らないところを教えられたのです。
《神の前に立つとは、人の前に立つ》ことです。自他の間でこそ、自己の善悪は見えてきます。
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