「風流無談」第2回:琉球新報2007年7月7日付朝刊掲載
初代の防衛大臣に就任以来、放言をくり返してきた久間章生氏が、ついに辞任した。長崎への原爆投下は「しょうがない」という発言内容のデタラメさを考えれば、辞任は当然のことだろう。それにしても、「美しい国」づくりを掲げる安倍内閣の下に集まった政治家たちの酷さは目に余る。
去る四月十七日、伊藤一長前長崎市長が、選挙運動中に暴力団員に射殺されるという事件が起こった。それからまだ二カ月余りしか経っていない。本来なら八月九日をひかえ、例年以上に原爆の犠牲者や後遺症に苦しんでいる被爆者を思いやり、非暴力と平和を訴えるのが政治家の務めだろう。それと相反する発言をやってのける久間氏の感覚は何なのか。自らの発言が引き起こす影響を予想できない政治判断能力とあわせて、どこか狂っているとしか思えない。
問題はその狂いが、久間氏個人の資質として片付けられないことにある。小泉内閣から安倍内閣へと続くこの数年間で、戦争の犠牲者に対する内閣の対応は二つに分かれている。久間氏の発言の源には、そのような対応の二極化の問題があるように思う。
一つは靖国神社に祭られている人々、つまり天皇のために命を捧げたとされる皇軍兵士への手厚い哀悼である。中国や韓国からどれだけ批判を浴びても、小泉前首相は靖国神社参拝をくり返した。安倍首相にしても、首相就任以来現在まで参拝はしていないが、靖国神社に対する姿勢は小泉氏と変わりないし、むしろより肯定的と言っていい。
その一方で、戦争で犠牲になった民衆への対応はどうか。原爆投下は「しょうがない」と言ってのける久間氏の感覚は、被爆した民衆の犠牲に対する冷酷さの表れであり、それは日本軍によって引き起こされた民衆の犠牲を否定しようとする安倍内閣の冷酷さと通じるものがある。
従軍慰安婦と呼ばれる戦時性奴隷や強制連行された朝鮮人・中国人への対応。あるいは、沖縄戦の「集団自決」の軍関与を否定する動き。そこに示されているのは、日本軍の蛮行がもたらした民衆の犠牲を否定することで「軍の名誉回復」を図ろうという意思である。それは靖国神社に祭られている皇軍兵士を賛美するのと対極にあると同時に表裏一体のものだ。
広島・長崎への原子爆弾投下にしても、大量無差別殺戮を狙った米軍の民衆への蛮行であり、戦争犯罪以外の何ものでもない。日本の降伏を早めるために核兵器の威力を見せつける必要があったのなら、日本近海の無人島に投下して、人命の被害を少なくすることも可能だったはずだ。日本軍であれ、米軍であれ、民衆に多大な犠牲を強いた蛮行にはきちんと批判すべきだろう。
しかし、今の安倍内閣では、それと逆の動きばかりなのだ。それは過去の戦争に関してだけではない。現在進められている新たな有事=戦争の準備に関しても同様である。
久間氏には、もう一つ見逃せない発言がある。六月二十四日に宮古島市を訪れた久間氏は、市内で記者会見し、〈下地島空港の自衛隊利用について「下地島はいい場所だ」と地理的な利用価値を指摘、地元の同意が得られるなら使用したいとの意向をにじませた〉(琉球新報六月二十五日付朝刊)という。
六月二十四日といえば、与那国島の祖納港に米軍の掃海艦二隻が寄港し、岸壁では抗議行動が取り組まれて、大きな問題となった日だ。表向きは参議院選挙の応援となっているが、久間氏が同じ日に宮古島を訪れた理由はそれだけだろうか。私には、久間氏の行動と発言が、対中国を想定した島嶼防衛のために、宮古島・石垣島・与那国島を自衛隊と米軍の一体化した拠点として利用しようという意思を積極的に示したものに見える。
すでに宮古島では、東シナ海の軍事的な電子情報を収集・分析するための地上電波施設の設置が進められ、二〇〇九年度をめどに約二百人規模の自衛隊部隊を配備する計画も打ち出されている。下地島空港の軍事利用の圧力も、さらに強まっていくはずだ。
今後、過疎や財政危機にあえぐ離島の自治体の弱みにつけ込み、日本政府は振興策と引き替えに自衛隊配備や米軍の民間施設利用を迫ってくるだろう。だが、基地と振興策をからませる政府の手法は、沖縄県民から自立能力を奪う麻薬そのものだ。それに依存した結果、東シナ海周辺で日・米と中国の軍事強化が対抗的にエスカレートしていけばどうなるか。ニューヨークで起こった9・11事件のあと、沖縄観光が受けた打撃を忘れてはいけない。たとえ小さな軍事衝突であっても、そのとばっちりをもろに受けるのは沖縄県民なのだ。
日・米の軍事拠点ではなく、中国をはじめとした東アジア諸国との文化や経済交流の拠点として、政治的・軍事的緊張を和らげる役割を積極的に果たす。それこそが私たちが沖縄戦から学んだ教訓を生かす道である。
初代の防衛大臣に就任以来、放言をくり返してきた久間章生氏が、ついに辞任した。長崎への原爆投下は「しょうがない」という発言内容のデタラメさを考えれば、辞任は当然のことだろう。それにしても、「美しい国」づくりを掲げる安倍内閣の下に集まった政治家たちの酷さは目に余る。
去る四月十七日、伊藤一長前長崎市長が、選挙運動中に暴力団員に射殺されるという事件が起こった。それからまだ二カ月余りしか経っていない。本来なら八月九日をひかえ、例年以上に原爆の犠牲者や後遺症に苦しんでいる被爆者を思いやり、非暴力と平和を訴えるのが政治家の務めだろう。それと相反する発言をやってのける久間氏の感覚は何なのか。自らの発言が引き起こす影響を予想できない政治判断能力とあわせて、どこか狂っているとしか思えない。
問題はその狂いが、久間氏個人の資質として片付けられないことにある。小泉内閣から安倍内閣へと続くこの数年間で、戦争の犠牲者に対する内閣の対応は二つに分かれている。久間氏の発言の源には、そのような対応の二極化の問題があるように思う。
一つは靖国神社に祭られている人々、つまり天皇のために命を捧げたとされる皇軍兵士への手厚い哀悼である。中国や韓国からどれだけ批判を浴びても、小泉前首相は靖国神社参拝をくり返した。安倍首相にしても、首相就任以来現在まで参拝はしていないが、靖国神社に対する姿勢は小泉氏と変わりないし、むしろより肯定的と言っていい。
その一方で、戦争で犠牲になった民衆への対応はどうか。原爆投下は「しょうがない」と言ってのける久間氏の感覚は、被爆した民衆の犠牲に対する冷酷さの表れであり、それは日本軍によって引き起こされた民衆の犠牲を否定しようとする安倍内閣の冷酷さと通じるものがある。
従軍慰安婦と呼ばれる戦時性奴隷や強制連行された朝鮮人・中国人への対応。あるいは、沖縄戦の「集団自決」の軍関与を否定する動き。そこに示されているのは、日本軍の蛮行がもたらした民衆の犠牲を否定することで「軍の名誉回復」を図ろうという意思である。それは靖国神社に祭られている皇軍兵士を賛美するのと対極にあると同時に表裏一体のものだ。
広島・長崎への原子爆弾投下にしても、大量無差別殺戮を狙った米軍の民衆への蛮行であり、戦争犯罪以外の何ものでもない。日本の降伏を早めるために核兵器の威力を見せつける必要があったのなら、日本近海の無人島に投下して、人命の被害を少なくすることも可能だったはずだ。日本軍であれ、米軍であれ、民衆に多大な犠牲を強いた蛮行にはきちんと批判すべきだろう。
しかし、今の安倍内閣では、それと逆の動きばかりなのだ。それは過去の戦争に関してだけではない。現在進められている新たな有事=戦争の準備に関しても同様である。
久間氏には、もう一つ見逃せない発言がある。六月二十四日に宮古島市を訪れた久間氏は、市内で記者会見し、〈下地島空港の自衛隊利用について「下地島はいい場所だ」と地理的な利用価値を指摘、地元の同意が得られるなら使用したいとの意向をにじませた〉(琉球新報六月二十五日付朝刊)という。
六月二十四日といえば、与那国島の祖納港に米軍の掃海艦二隻が寄港し、岸壁では抗議行動が取り組まれて、大きな問題となった日だ。表向きは参議院選挙の応援となっているが、久間氏が同じ日に宮古島を訪れた理由はそれだけだろうか。私には、久間氏の行動と発言が、対中国を想定した島嶼防衛のために、宮古島・石垣島・与那国島を自衛隊と米軍の一体化した拠点として利用しようという意思を積極的に示したものに見える。
すでに宮古島では、東シナ海の軍事的な電子情報を収集・分析するための地上電波施設の設置が進められ、二〇〇九年度をめどに約二百人規模の自衛隊部隊を配備する計画も打ち出されている。下地島空港の軍事利用の圧力も、さらに強まっていくはずだ。
今後、過疎や財政危機にあえぐ離島の自治体の弱みにつけ込み、日本政府は振興策と引き替えに自衛隊配備や米軍の民間施設利用を迫ってくるだろう。だが、基地と振興策をからませる政府の手法は、沖縄県民から自立能力を奪う麻薬そのものだ。それに依存した結果、東シナ海周辺で日・米と中国の軍事強化が対抗的にエスカレートしていけばどうなるか。ニューヨークで起こった9・11事件のあと、沖縄観光が受けた打撃を忘れてはいけない。たとえ小さな軍事衝突であっても、そのとばっちりをもろに受けるのは沖縄県民なのだ。
日・米の軍事拠点ではなく、中国をはじめとした東アジア諸国との文化や経済交流の拠点として、政治的・軍事的緊張を和らげる役割を積極的に果たす。それこそが私たちが沖縄戦から学んだ教訓を生かす道である。