「風流無談」第18回 2008年12月6日付琉球新報朝刊掲載
十月二十一日付本紙朝刊の論壇に藤岡信勝氏が投稿し、前々回の「風流無談」(十月四日付朝刊掲載)に反論していた。それに対する私の反論が十一月四日付朝刊の論壇に載った。その中で私は、梅澤隊長がいた本部壕入口やその周辺に、歩哨(番兵・衛兵)が配置されていなかったのかどうかを藤岡氏に問うた。それに対する藤岡氏の回答・反論は今に至るまでなされていない。おそらく藤岡氏はこの問題について考えたことがなくて、答えきれないのだろう。
すでに明らかなように、十月三十一日に下された大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審判決において、宮平秀幸氏の新証言や、藤岡氏の「意見書」は厳しい判断を下された。
〈秀幸新証言は、それまで自らが述べてきたこととも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している〉
〈秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない〉
小田耕治裁判長は以上のように〈秀幸新証言〉を〈虚言〉と断じ、さらに「藤岡意見書」についても〈一方に偏するもので採用できない〉としたのである。これは妥当な判決である。控訴審では論じられなかったが、歩哨の問題一つを考えてみても、〈秀幸新証言〉はそもそもあり得ないことを言っているのだ。
秀幸氏は、本部壕入り口にかかった毛布の陰に隠れ、梅澤隊長が座間味村の幹部と話すのを三十分にわたって聞いた、と証言していた。しかし、そんなことができるはずがない。
沖縄戦において、第三十二軍は厳しい防諜体制を敷いていた。とりわけ慶良間諸島は海上特攻隊の秘密基地が置かれたので、住民は島外に出ることを禁じられ、座間味島では身分証明の布切れを持たされるなど、より厳しい防諜体制が敷かれていた。しかも、三月二十五日の夜は米軍上陸を間近にし、本部壕はその対応に追われ、緊張した状況にあった。
それなのに本部壕入口や周辺に警戒にあたる兵が一人も配置されず、秀幸氏が三十分も話を盗み聞きできたというのなら、梅澤隊長は戦闘や防諜のイロハもわきまえない阿呆であったと言っているに等しい。だが、実際はそうではなかった。座間味村の幹部らと本部壕に行き、梅澤隊長と面会した宮城初枝氏は、手記に以下のように記している。
〈艦砲射撃の中をくぐってやがて隊長の居られる本部の壕へたどり着きました。入口には衛兵が立って居り、私たちの気配を察したのか、いきなり「誰だ」と叫びました。/「はい、役場の者たちです。部隊長に用事があって参りました」と誰かが答えると、兵は「しばらくお待ち下さい」と言って壕の中へ消えて行きました。/それからまもなくして、隊長が出て来られたのです〉(宮城晴美『母が遺したもの』新・旧版三十八~九ページ)。
秀幸氏の新証言と初枝氏の手記を比べてみれば、どれが戦場の事実を語っているかは一目瞭然であろう。本部壕の入口で衛兵が立哨にあたっていて、近づいたとき誰何されたという初枝氏の手記は、ごく自然に納得できる。衛兵の目の前で盗み聞きした、と秀幸氏や藤岡氏は言いはるつもりだろうか。
この問題について、控訴審判決はさらに注目すべき判断を下している。本部壕を訪れた座間味村幹部らに「自決するでない」と言った、という梅澤氏の主張に対し、判決は〈控訴人梅澤の供述等は、初枝の記憶を越える部分については、到底信用し難い〉とする。そして、〈控訴人梅澤が本部壕でのことを憶えていなかったとすれば、それはなぜか〉ということを分析した上で、こう記すのである。
〈控訴人梅澤の語る本部壕での出来事は、一見極めて詳細でかつ具体的ではあるが、初枝から聞いた話や初枝から提供されたノート等によって35年後から喚起されたものであり、記憶の合理化や補足、潜在意識による改変その他の証言心理学上よく知られた記憶の変容と創造の過程を免れ得ないものであり、その後さらにくり返し想起されることにより確信度だけが増したものとみるしかない〉
つまり、梅澤氏が「戦闘記録」や「陳述書」などで述べてきた「自決するでない」と言ったという〈記憶〉は、戦後三十五年も経ってから初枝氏の証言やノートに接して〈喚起され〉、自分に都合のいいように〈合理化や補足〉〈潜在意識による改変〉がなされて〈創造〉されたものであり、梅澤氏本人がそう信じ込んでいるだけだというのだ。判決文では慎重な言い回しだが、これは本部壕の件についての梅澤氏の証言は、偽りの〈記憶〉に基づく虚構であると言っているに等しい。
元より、梅澤氏の証言が虚構であるなら、秀幸氏の新証言が〈虚言〉でしかないのは当然であろう。藤岡氏の「意見書」も含めて、「集団自決」(強制集団死)の原因と責任を、座間味村の幹部らにおっかぶせようとした控訴人側の主張は、完全に破綻したのである。
十月二十一日付本紙朝刊の論壇に藤岡信勝氏が投稿し、前々回の「風流無談」(十月四日付朝刊掲載)に反論していた。それに対する私の反論が十一月四日付朝刊の論壇に載った。その中で私は、梅澤隊長がいた本部壕入口やその周辺に、歩哨(番兵・衛兵)が配置されていなかったのかどうかを藤岡氏に問うた。それに対する藤岡氏の回答・反論は今に至るまでなされていない。おそらく藤岡氏はこの問題について考えたことがなくて、答えきれないのだろう。
すでに明らかなように、十月三十一日に下された大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審判決において、宮平秀幸氏の新証言や、藤岡氏の「意見書」は厳しい判断を下された。
〈秀幸新証言は、それまで自らが述べてきたこととも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している〉
〈秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない〉
小田耕治裁判長は以上のように〈秀幸新証言〉を〈虚言〉と断じ、さらに「藤岡意見書」についても〈一方に偏するもので採用できない〉としたのである。これは妥当な判決である。控訴審では論じられなかったが、歩哨の問題一つを考えてみても、〈秀幸新証言〉はそもそもあり得ないことを言っているのだ。
秀幸氏は、本部壕入り口にかかった毛布の陰に隠れ、梅澤隊長が座間味村の幹部と話すのを三十分にわたって聞いた、と証言していた。しかし、そんなことができるはずがない。
沖縄戦において、第三十二軍は厳しい防諜体制を敷いていた。とりわけ慶良間諸島は海上特攻隊の秘密基地が置かれたので、住民は島外に出ることを禁じられ、座間味島では身分証明の布切れを持たされるなど、より厳しい防諜体制が敷かれていた。しかも、三月二十五日の夜は米軍上陸を間近にし、本部壕はその対応に追われ、緊張した状況にあった。
それなのに本部壕入口や周辺に警戒にあたる兵が一人も配置されず、秀幸氏が三十分も話を盗み聞きできたというのなら、梅澤隊長は戦闘や防諜のイロハもわきまえない阿呆であったと言っているに等しい。だが、実際はそうではなかった。座間味村の幹部らと本部壕に行き、梅澤隊長と面会した宮城初枝氏は、手記に以下のように記している。
〈艦砲射撃の中をくぐってやがて隊長の居られる本部の壕へたどり着きました。入口には衛兵が立って居り、私たちの気配を察したのか、いきなり「誰だ」と叫びました。/「はい、役場の者たちです。部隊長に用事があって参りました」と誰かが答えると、兵は「しばらくお待ち下さい」と言って壕の中へ消えて行きました。/それからまもなくして、隊長が出て来られたのです〉(宮城晴美『母が遺したもの』新・旧版三十八~九ページ)。
秀幸氏の新証言と初枝氏の手記を比べてみれば、どれが戦場の事実を語っているかは一目瞭然であろう。本部壕の入口で衛兵が立哨にあたっていて、近づいたとき誰何されたという初枝氏の手記は、ごく自然に納得できる。衛兵の目の前で盗み聞きした、と秀幸氏や藤岡氏は言いはるつもりだろうか。
この問題について、控訴審判決はさらに注目すべき判断を下している。本部壕を訪れた座間味村幹部らに「自決するでない」と言った、という梅澤氏の主張に対し、判決は〈控訴人梅澤の供述等は、初枝の記憶を越える部分については、到底信用し難い〉とする。そして、〈控訴人梅澤が本部壕でのことを憶えていなかったとすれば、それはなぜか〉ということを分析した上で、こう記すのである。
〈控訴人梅澤の語る本部壕での出来事は、一見極めて詳細でかつ具体的ではあるが、初枝から聞いた話や初枝から提供されたノート等によって35年後から喚起されたものであり、記憶の合理化や補足、潜在意識による改変その他の証言心理学上よく知られた記憶の変容と創造の過程を免れ得ないものであり、その後さらにくり返し想起されることにより確信度だけが増したものとみるしかない〉
つまり、梅澤氏が「戦闘記録」や「陳述書」などで述べてきた「自決するでない」と言ったという〈記憶〉は、戦後三十五年も経ってから初枝氏の証言やノートに接して〈喚起され〉、自分に都合のいいように〈合理化や補足〉〈潜在意識による改変〉がなされて〈創造〉されたものであり、梅澤氏本人がそう信じ込んでいるだけだというのだ。判決文では慎重な言い回しだが、これは本部壕の件についての梅澤氏の証言は、偽りの〈記憶〉に基づく虚構であると言っているに等しい。
元より、梅澤氏の証言が虚構であるなら、秀幸氏の新証言が〈虚言〉でしかないのは当然であろう。藤岡氏の「意見書」も含めて、「集団自決」(強制集団死)の原因と責任を、座間味村の幹部らにおっかぶせようとした控訴人側の主張は、完全に破綻したのである。
おはようございます。
宮平陳述書では次のようになっています。
>本部壕は外から分からないような偽装がほどこされていました。入口は、琉球マツの枝で覆われています。見ると、そこに乾パンが一袋、引っかかっていました。私は急に空腹を覚えて、その乾パンを食べ始めました。
乾パンでも勝手に食べることはないでしょう。上官に見つかったら半殺しです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1475.html
(藤岡氏の琉球新報投稿では「ビスケット」になっていたのですか?)
本年も宜しくお願いいたします。
今年は渡嘉敷島に1泊旅行に行くつもりです。何か見ておくべき場所があればお教え下さい。
>阪神さん。
恩納河原について、「鉄の暴風」を始め数編の戦記・体験談に、そこが「玉砕場」であるとの誤記がされています。だが、軍が住民に集結を命じた場所は「ニシ山盆地」であり、そこに流れる川は「フィジガー(比地川?)」です。
恩納川はA高地の西側、渡嘉敷の北西側にある狭い谷間に流れる小川です。地形は狭谷ゆえに渡嘉敷部落住民の多くが米軍攻撃に備えて、その一帯に避難小屋などを作っていたと思えます。
曽野綾子は、「恩納川(原)」と「ニシ山盆地」の混同を利用して、「場所の指定はないですね。思い思いに避難小屋を作ってあったですよ(安里)」・「(恩納河原へ行くのは)誰いうともなくです(古波蔵村長)」などと言わせて、住民は自主的に「玉砕場」に集まったかのような印象を、読むものに与えようとしています。詐術的記述と言うしかないです。
そういう訳で、厚ましくも、「恩納川(原)」と「ニシ山盆地」を見比べてきて頂きたいと思うのですが、ハブの危険もあって難しいかも知れませんね。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1442.html#id_4f32f37d
26日 渡嘉敷⇒オンナガーラの避難小屋
27日 ⇒ウフジシクビ⇒オンナガーラの避難小屋(伝令来る)⇒北山(ニシヤマ)の部隊本部に着くが「あっちへ行け」
28日 ⇒玉砕場(フィジガーの盆地=ニシヤマ盆地の下)(手榴弾不発) ⇒戦隊本部壕(追い返される) ⇒第ニ玉砕場へ(兵隊の指示)
赤松隊が展開していたニシヤマの複廓陣地は、現在の「国立青年の家」敷地と重なる広い地域です。玉砕場(フィジガーの盆地=村資料では「フルノチビ」)はその北側の外で、米軍進出陣地と複廓陣地に挟まれた場所と成ってしまいました。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu01.pdf
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu02.pdf
第ニ玉砕場(ワーラヌフルモー?)は、多分玉砕場が危険すぎるので兵隊に行けと指示された場所なのでしょうか、やはり複廓陣地の北東側外縁と思われます。
リンクされた地形図では、①が自決地の石碑場所で、そこを含む北側へ降りる盆地の一帯が「玉砕場」のようですね。
⑥がいわゆる「恩納河原」で、今、下流にダムが造られていますが、それほどに狭い谷間だということでしょう。
私は一昨年の夏行きましたが、その時は「「恩納河原」と「北(ニシ)山盆地」の違いを分かってませんでした。
現地に行った事も無いわたしがいうのも何ですが、
最初の石碑場所は自決地ではなくそこに降りる口にあったようですね。今はどうなのでしょうか?
「オンナガーラ」は「恩納川」。もともと「川」であって「河原」ではないのでしょう?
どうもその辺の混同がいまだに。
>「オンナガーラ」は「恩納川」。もともと「川」であって「河原」ではないのでしょう?
仰るとおりです。沖縄語「カーラ」は、日本語「川」です。