1999年11月20日付琉球新報に、臥牛吐を訪ねて慰霊祭を行った元開拓団の人たちの記事がある。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-95995-storytopic-86.html
同記事には、〈開拓団は1940(昭和15)年から42(同17)年にかけて今帰仁、南風原、恩納の三村から約千人が入植〉とあるが、〈約千人〉という数は三村だけでなく沖縄県からの一般開拓民全体の数か、もしくは敗戦時の三村(臥牛吐開拓団)と青雲開拓団とをあわせた数ではないかと思う。『沖縄県史7移民 各論編6』には以下のように記されている。
〈一般開拓民は、『満州開発四十年史』補巻によると、四十三年十二月現在で竜江省臥牛吐崗子屯にある南風原・恩納・今帰仁の分村に一九三戸、六五〇人、同じく竜江省青雲の沖縄郷に四二戸、四二人、さらに三江省方正県の伊漢通に鹿児島との混成で二四八戸、八八〇人が入植している、と記されている。さらに『朝日新聞』(鹿児島沖縄版、昭和十五年十一月九日づけ)によると、浜江省五常県小山子の九州村開拓団にも沖縄出身者がいることになっている。従ってこれらを総計すると(『朝日新聞』の断片記事等により推計)、一〇〇〇人前後の一般開拓民がいたことになろう〉(565ページ)。
『沖縄県史7』では、ほかに満蒙開拓青少年義勇軍として送出された人数を〈最終的にはほぼ五〇〇~六〇〇名とみるのが妥当ではないか〉としていて、これとあわせて〈沖縄からの満州農業移民は、およそ一五〇〇人前後になるのではないかと思う〉(同)としている。
なお、上記引用では〈四十三年十二月現在で〉〈竜江省青雲の沖縄郷に四二戸、四二人〉とあるが、真壁村(現糸満市)、浦添村(現浦添市)、知念村(現南城市)出身者による青雲開拓団ではその後、大幅に人口が増えている。
前田正敏著『青雲開拓団誌』によれば、1943(昭和18)年3月に団長、幹部、指導員、先遣隊の計30人が〈竜江省竜江県孫家屯に入植〉し、同年6月〈補充隊員、並びに先遣隊の家族七十名余渡満〉。さらに1944(昭和19)年3月〈本隊第一陣八十六名渡満入植〉、同年7月〈本隊八十五名渡満入植〉、9月〈本隊六十八名渡満入植〉、1944(昭和19)年3月に〈本隊九〇名渡満入植〉と続いている。
1945(昭和20)年1月時点での青雲開拓団の構成人員は以下のように記されている。
〈沖縄県より団体編成で入植した団幹部、指導員、先遣隊、本隊の外入植者の縁故関係で大阪、東京、そして九州の疎開先などから呼び寄せた人々、別目的で渡満した沖縄県出身者が願い出て現地入団したり、また入植地で生まれた子供たちなどで、団の総人口は五百三十三名、百五〇世帯となった〉(62~64ページ)。
そして、1945年9月に〈臥牛吐開拓団、青雲開拓団武装解除され、ソ連軍に連行されてチチハルに避難した。/臥牛吐六百余名、青雲五百余名計一千余名の開拓団員はチチハル中学校と満拓公社社宅に収容されて難民生活を始める〉(67ページ)と記されている。
琉球新報の記事には〈引き揚げ開始時には930人いたが、二週間かけて移動する間に栄養失調や伝染病などでどんどん犠牲者、脱落者が出た。佐世保に着いた時は300人だったという〉と記されている。敗戦による避難と難民生活、引き揚げの過程で開拓団の人たちが味わった苦しみと犠牲の大きさが、その数字から分かる。
『南風原町沖縄戦戦災調査2 兼城が語る沖縄戦』の「対談 満蒙開拓団」でも以下のように語られている。
〈伝輝 軍は一早く引き揚げて、私達はほったらかされて……。私の団は総数300名ぐらいでしたが、男は次々と現地召集されて、戦後の時残っていた男は5名でした。何で、政府や軍は、前もって対策をしてくれなかったのか、今だに疑問に思います。
幸信 土地が広いということで渡満したが、実際はたいへんでした。先遣隊でも17名中6名の退団者が出ましたからねえ。
伝輝 亡くなった人が全体の3分の2以上ですから、兵隊にとられて戦死した人もだいぶいましたからね〉(81ページ)
〈伝輝 最近、胸をしめつけられるのが、中国残留孤児の問題です。私の団で34~35名の子供がいたんです。その中から、祖国の土を踏むことができたのは、たった2人です。残りは全部栄養失調で亡くなったんです。テレビを見るたびに「現地の人にあずけておれば、いつかはこうして会えたのになあ」とただそれだけが悔しくてなりません。現地の人でもらい手はたくさんいたんです〉(同)。
今年の沖縄戦慰霊の日(6月23日)の沖縄タイムスに以下の記事が載っていた。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-06-23_7486/
戦争で真っ先に犠牲になるのが幼い子供であり、お年寄りや病弱者、障害を持つ人たちである。戦争の犠牲となった多くの子供たちが中国の地に眠っている。沖縄人が中国で体験したこのような歴史に、もっと目を向けたい。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-95995-storytopic-86.html
同記事には、〈開拓団は1940(昭和15)年から42(同17)年にかけて今帰仁、南風原、恩納の三村から約千人が入植〉とあるが、〈約千人〉という数は三村だけでなく沖縄県からの一般開拓民全体の数か、もしくは敗戦時の三村(臥牛吐開拓団)と青雲開拓団とをあわせた数ではないかと思う。『沖縄県史7移民 各論編6』には以下のように記されている。
〈一般開拓民は、『満州開発四十年史』補巻によると、四十三年十二月現在で竜江省臥牛吐崗子屯にある南風原・恩納・今帰仁の分村に一九三戸、六五〇人、同じく竜江省青雲の沖縄郷に四二戸、四二人、さらに三江省方正県の伊漢通に鹿児島との混成で二四八戸、八八〇人が入植している、と記されている。さらに『朝日新聞』(鹿児島沖縄版、昭和十五年十一月九日づけ)によると、浜江省五常県小山子の九州村開拓団にも沖縄出身者がいることになっている。従ってこれらを総計すると(『朝日新聞』の断片記事等により推計)、一〇〇〇人前後の一般開拓民がいたことになろう〉(565ページ)。
『沖縄県史7』では、ほかに満蒙開拓青少年義勇軍として送出された人数を〈最終的にはほぼ五〇〇~六〇〇名とみるのが妥当ではないか〉としていて、これとあわせて〈沖縄からの満州農業移民は、およそ一五〇〇人前後になるのではないかと思う〉(同)としている。
なお、上記引用では〈四十三年十二月現在で〉〈竜江省青雲の沖縄郷に四二戸、四二人〉とあるが、真壁村(現糸満市)、浦添村(現浦添市)、知念村(現南城市)出身者による青雲開拓団ではその後、大幅に人口が増えている。
前田正敏著『青雲開拓団誌』によれば、1943(昭和18)年3月に団長、幹部、指導員、先遣隊の計30人が〈竜江省竜江県孫家屯に入植〉し、同年6月〈補充隊員、並びに先遣隊の家族七十名余渡満〉。さらに1944(昭和19)年3月〈本隊第一陣八十六名渡満入植〉、同年7月〈本隊八十五名渡満入植〉、9月〈本隊六十八名渡満入植〉、1944(昭和19)年3月に〈本隊九〇名渡満入植〉と続いている。
1945(昭和20)年1月時点での青雲開拓団の構成人員は以下のように記されている。
〈沖縄県より団体編成で入植した団幹部、指導員、先遣隊、本隊の外入植者の縁故関係で大阪、東京、そして九州の疎開先などから呼び寄せた人々、別目的で渡満した沖縄県出身者が願い出て現地入団したり、また入植地で生まれた子供たちなどで、団の総人口は五百三十三名、百五〇世帯となった〉(62~64ページ)。
そして、1945年9月に〈臥牛吐開拓団、青雲開拓団武装解除され、ソ連軍に連行されてチチハルに避難した。/臥牛吐六百余名、青雲五百余名計一千余名の開拓団員はチチハル中学校と満拓公社社宅に収容されて難民生活を始める〉(67ページ)と記されている。
琉球新報の記事には〈引き揚げ開始時には930人いたが、二週間かけて移動する間に栄養失調や伝染病などでどんどん犠牲者、脱落者が出た。佐世保に着いた時は300人だったという〉と記されている。敗戦による避難と難民生活、引き揚げの過程で開拓団の人たちが味わった苦しみと犠牲の大きさが、その数字から分かる。
『南風原町沖縄戦戦災調査2 兼城が語る沖縄戦』の「対談 満蒙開拓団」でも以下のように語られている。
〈伝輝 軍は一早く引き揚げて、私達はほったらかされて……。私の団は総数300名ぐらいでしたが、男は次々と現地召集されて、戦後の時残っていた男は5名でした。何で、政府や軍は、前もって対策をしてくれなかったのか、今だに疑問に思います。
幸信 土地が広いということで渡満したが、実際はたいへんでした。先遣隊でも17名中6名の退団者が出ましたからねえ。
伝輝 亡くなった人が全体の3分の2以上ですから、兵隊にとられて戦死した人もだいぶいましたからね〉(81ページ)
〈伝輝 最近、胸をしめつけられるのが、中国残留孤児の問題です。私の団で34~35名の子供がいたんです。その中から、祖国の土を踏むことができたのは、たった2人です。残りは全部栄養失調で亡くなったんです。テレビを見るたびに「現地の人にあずけておれば、いつかはこうして会えたのになあ」とただそれだけが悔しくてなりません。現地の人でもらい手はたくさんいたんです〉(同)。
今年の沖縄戦慰霊の日(6月23日)の沖縄タイムスに以下の記事が載っていた。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-06-23_7486/
戦争で真っ先に犠牲になるのが幼い子供であり、お年寄りや病弱者、障害を持つ人たちである。戦争の犠牲となった多くの子供たちが中国の地に眠っている。沖縄人が中国で体験したこのような歴史に、もっと目を向けたい。