海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

家と土地

2010-10-08 20:15:28 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 南風原開拓団の人々は臥牛吐でどのようにして土地や家屋を手に入れたのか。南風原町教育委員会『南風原町沖縄戦戦災調査2 兼城が語る沖縄戦』に「対談 満蒙開拓団」が載っている。その中に元開拓団員の野原広知氏、新里幸信氏、嘉手苅伝輝氏の以下のような証言がある。一部に差別表現があるがそのまま引用する。二カ所( )で言葉を補ってある。

〈広知 …茨城県の内原訓練所に行ったのは、昭和15年3月です。そこで1ヶ月間の訓練を受けて、恩納・今帰仁・南風原の「集合開拓団」の団長のひとりとして、現地視察に行きました。私が内原訓練所にいる時から、団員は沖縄で訓練を受けていたんです。満州へ視察に行ったのは4名でした。まず、黒河省を視察したが、国境にも近いし、それに匪賊も出て「家族を連れて行くには問題がある、責任が持てない」ということで断念し、次の龍河(江?)省を選んだんです。何か所かが指定されていて、その中から選ぶことができたんです。
 そこは、鮮人の所有していた水田があって、さらに拡張できる見通しがあったんです。熟地もあり相当の畑地が得られる、近くに放牧場があって畜産ができる、また学校や精米・製粉所も造ることができるというも見通しも得られたので決めました。鮮人や満人は別の場所へ移してありました。そうしないと、住む所が散り散りになり、20キロも30キロも離れると学校が不便になってしまう。まとまって住むとなると、どうしても現住民(ママ)を移動させんといかん、これには少し抵抗がありましたね〉(75ページ)

〈広知 先遣隊として、現地入りしたのが昭和15年5月20日ですから、沖縄を出発したのは13日じゃないかなあ。
幸信 広知さんといっしょでした。行く時、だいぶシカシカしましたね。船は那覇から出航し鹿児島に着き、汽車で門司へ、門司からは船で大連へ、大連から現地まで汽車というコースでした。匪賊や馬賊が出るということで、名々銃を持っていました。
広知 現住民の家を開けて(ママ)もらって、1年間住みました。生活物資は、満拓公社から支給されました。この1年間は、共同で畑を耕し、5月というとここでは農作物の時期が終わっているため、野菜や家畜の飼料を造りました〉(76ページ)

〈広知 (満州に)着いた時、住宅は満人の住宅をあけてもらっていました。いろんな見通しをしてからでしか家族招致はしないということでしたから、初めは集団経営でしたが、家族招致してからは班経営になりました…〉(77ページ)

〈広知 私達の方は、終戦になってから現住民にやられたのが多いんです。いじめた所は仕返しされたんですね。私達は満人とは案外うまくいってたんです。チチハルに収容された時、満人がお見舞いに来るくらいだったらしいです。
伝輝 私達の所は山手で、しかも現住民が入っていない所でしたので、トラブルはなく、現住民の友達もいたくらいです…〉(79ページ)

 開拓移民が住んだ土地や家屋の多くは、野原広知氏の証言にあるように、現地住民の土地・家屋を日本・満州政府が強制的に取り上げ、与えたものだった。嘉手苅伝輝氏の証言に〈現住民が入っていない所〉とあるが、そういう土地にしても開拓団が勝手に開墾し、所有できるものではない。日本社会文学会(編)『近代日本と「偽満州国」』(不二出版)所収の孫玉玲「日本帝国主義による東北農業の略奪」には以下のように記されている。

〈日本侵略者は「治安維持」「危険地」という名目で、武力で農民を土地から引き離し、無理矢理土地所有権を放棄させた。そして、それらの農民の土地を「地主不明の土地」という名目で没収し、移民用地とした。このほか、農民を元々の耕作地から追い出し、日本からの移民に「譲渡」し耕作させた。この形式で農民の土地が略奪されたのは黒竜江省が最も多く、虎林、密山、穆稜、綏陽、東寧の五県だけでも、強制的に転居させられた中国原住民は、四、〇〇〇戸余りにのぼる。『満州開拓年鑑』の統計によれば、一九四三年までにこれら強制転居させられたいわゆる「国内開拓民」は、四〇、七七一戸、各戸五人として計算すれば、二〇万人に達するのである。
 五万戸に近い農民は日本侵略者の武力による追い出しによって、先祖代々の生存の糧としてきた土地を差し出させられ郷里を離れ、よその土地での生活を余儀なくさせられたのであった。元々の土地を離れなかった農民は、日本移民あるいは日本移民開拓団の小作あるいは作男に身を落とし、その生活状況はいわずもがなのことであった〉(105ページ)。
 
 同論文で孫氏は、日本帝国主義が〈「地籍整理」、「土地売買賃借」、強制的「買収」、武力的略奪などの多様な手段と形式で、東北の広大な土地を略奪した〉(105ページ)ことや、「開拓事業」による「略奪的農業経営」の実態を明らかにしている。
 元からその土地に住んでいた人々からすれば、沖縄の開拓団も略奪の一翼を担っていたことは言うまでもない。敗戦を機に、関東軍に見捨てられ、置き去りにされた開拓団の人々は、苦難の逃避行を強いられ、多くの犠牲者を出す。その悲劇はしかし、満洲という傀儡国家のもとで、開拓団の人々も侵略と略奪の一翼を担っていたことと切り離して論じることはできない。


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