「風流無談」第17回 2008年11月1日付琉球新報朝刊掲載
子どもの頃、隣にアメリカおじーと呼ばれている人がいた。その屋敷には大きな池があり、食用ガエルのオタマジャクシや鯉がいるというので、上級生や同級生らと一緒に忍び込んだりした。アメリカという言葉から連想したのだろう。見つかると鉄砲で撃たれる、と子どもらの間では噂されたりして、それが一段とスリルを生んだ。ヤナワラバーたちが勝手に入り込み、屋敷の人はさぞ迷惑だったろう。ただ、子どもたちの想像力を刺激し、冒険に誘うものがそこにはあった。
あの人はアメリカに移民に行き、成功して帰ってきた偉い人だそうだ。それくらいの知識は小学生でも持っていた。しかし、アメリカおじーと呼ばれていた人が、名を平良新助といい、若き日に謝花昇とともに活動し、沖縄における民権運動の魁であったことや、民謡「ひやみかち節」の作詞者でもあったことを知ったのは、ずっと後のことだった。
〈平良新助は明治の中期中学半ばにして自由民権の実践運動に飛び込んだ先駆者の一人である。彼は民権運動の同志のうちの最年少者であったが、頗る悲憤慷慨家で同志の中でも特異の存在である。謝花、当山にしたがって奈良原知事の悪政と斗い、参政権獲得運動に各方面を馳駆した。のちに当山久三と共に海外移民の重要性を説き、単身ハワイに渡り、当山の移民運動を実質的に推進し辛苦によく堪えてハワイ移民の基礎を築いた。……此の民権運動の斗志として、また海外移民の先駆者としての平良の名は謝花、当山と共に沖縄県民の永く忘れ得ぬところである。〉
大里康永は『平良新助伝』で平良の人となりをそう紹介している。一九五三年に帰郷した平良は今帰仁村字越地に家を建て、晩年をそこで過ごしている。亡くなったのは一九七〇年というから、私が小学校四年生の頃だ。その最晩年の日々をヤナワラバーたちが屋敷に入り込んで乱していたわけで、遅まきながら迷惑をかけたことをお詫びするしかない。
さる十月二十九日は、若き日の平良新助に多大な影響を与えた謝花昇の命日であった。一九〇八(明治四一)年のこの日、謝花は精神の病や慢性胃腸カタルの悪化によって四三年の生涯を閉じている。今年は没後百年にあたるので、県内紙の文化・学芸欄で特集なり評論の連載が企画されるのではないかと思っていたのだが、期待はずれに終わった。かつてあれだけ論じられ、芝居や小説にも取り上げられた謝花が、今このように忘れられているのは何故なのだろうか。
成熟した高度資本主義のもとでは反権力の抵抗モデルとしての謝花の使命は終わった。団塊世代の吉本隆明エピゴーネンならそう言って訳知り顔で片づけそうだ。しかし、八〇年代バブルの臭いがする知のお遊びから離れ、あらためて謝花の書いた文章を読み、その実践活動を見直してみれば、今も古びることのない同時代性を持って謝花の姿が立ち現れてくる。
沖縄の社会状況にしても、謝花が生きた時代と現象的には大きく変わっているようでも、本質においてはどうか。ダム建設や林道工事、米軍基地建設で荒れ果てるヤンバルの森林。本土資本・海外資本の進出が進む一方で、高失業率と貧困問題を抱えた経済。巨大な米軍基地に占拠されているだけでなく、民間地域に米軍関係のセスナ機が墜落しても県警のまともな捜査さえできない主権喪失の政治。これらにサトウキビをはじめとした農業の問題を加えれば、沖縄が抱えている問題の本質は変わらず、むしろより悪化した現実として露呈しているのではないか。
「義人」「悲劇の英雄」としての謝花像が偶像化されたものであり、杣山開墾への取り組みや民権運動の質に問題点が指摘されるにしても、自らが生きている時代、地域の問題に全精力をもって取り組み、理論追求と政治実践を同時になし得た謝花のような人物は、そういるものではない。
〈県政批判と簡単に言うものの、現在の感覚でとらえては大変な誤りである。それは官威や公権力の重圧がモロに襲いかかる明治中期を時代背景にした、よほどの覚悟を要する抵抗行為であり、決して第三者的な批評ではなく、当事者間の倒すか倒されるかの政治闘争である〉
伊佐眞一氏は『謝花昇集』(みすず書房)でそう記している。奈良原知事や沖縄の旧支配層、時の琉球新報などの激しい攻撃にさらされ、謝花は倒された。謝花らの活動拠点であった沖縄倶楽部は瓦解し、若き平良新助は東京の外国語学校に進む。一九〇一年、謝花は神戸駅にて発狂、故郷の東風平で不遇のまま生を閉じたのは、よく知られていること……とは必ずしも言えない。
時代が二回りも三回りもし、謝花昇について知らない若者も多い。百年の時を経た今日において、同時代としての謝花の姿を示し、若い世代に伝えていく。それも県内紙の、とりわけ文化・学芸欄の役割ではなかろうか。
子どもの頃、隣にアメリカおじーと呼ばれている人がいた。その屋敷には大きな池があり、食用ガエルのオタマジャクシや鯉がいるというので、上級生や同級生らと一緒に忍び込んだりした。アメリカという言葉から連想したのだろう。見つかると鉄砲で撃たれる、と子どもらの間では噂されたりして、それが一段とスリルを生んだ。ヤナワラバーたちが勝手に入り込み、屋敷の人はさぞ迷惑だったろう。ただ、子どもたちの想像力を刺激し、冒険に誘うものがそこにはあった。
あの人はアメリカに移民に行き、成功して帰ってきた偉い人だそうだ。それくらいの知識は小学生でも持っていた。しかし、アメリカおじーと呼ばれていた人が、名を平良新助といい、若き日に謝花昇とともに活動し、沖縄における民権運動の魁であったことや、民謡「ひやみかち節」の作詞者でもあったことを知ったのは、ずっと後のことだった。
〈平良新助は明治の中期中学半ばにして自由民権の実践運動に飛び込んだ先駆者の一人である。彼は民権運動の同志のうちの最年少者であったが、頗る悲憤慷慨家で同志の中でも特異の存在である。謝花、当山にしたがって奈良原知事の悪政と斗い、参政権獲得運動に各方面を馳駆した。のちに当山久三と共に海外移民の重要性を説き、単身ハワイに渡り、当山の移民運動を実質的に推進し辛苦によく堪えてハワイ移民の基礎を築いた。……此の民権運動の斗志として、また海外移民の先駆者としての平良の名は謝花、当山と共に沖縄県民の永く忘れ得ぬところである。〉
大里康永は『平良新助伝』で平良の人となりをそう紹介している。一九五三年に帰郷した平良は今帰仁村字越地に家を建て、晩年をそこで過ごしている。亡くなったのは一九七〇年というから、私が小学校四年生の頃だ。その最晩年の日々をヤナワラバーたちが屋敷に入り込んで乱していたわけで、遅まきながら迷惑をかけたことをお詫びするしかない。
さる十月二十九日は、若き日の平良新助に多大な影響を与えた謝花昇の命日であった。一九〇八(明治四一)年のこの日、謝花は精神の病や慢性胃腸カタルの悪化によって四三年の生涯を閉じている。今年は没後百年にあたるので、県内紙の文化・学芸欄で特集なり評論の連載が企画されるのではないかと思っていたのだが、期待はずれに終わった。かつてあれだけ論じられ、芝居や小説にも取り上げられた謝花が、今このように忘れられているのは何故なのだろうか。
成熟した高度資本主義のもとでは反権力の抵抗モデルとしての謝花の使命は終わった。団塊世代の吉本隆明エピゴーネンならそう言って訳知り顔で片づけそうだ。しかし、八〇年代バブルの臭いがする知のお遊びから離れ、あらためて謝花の書いた文章を読み、その実践活動を見直してみれば、今も古びることのない同時代性を持って謝花の姿が立ち現れてくる。
沖縄の社会状況にしても、謝花が生きた時代と現象的には大きく変わっているようでも、本質においてはどうか。ダム建設や林道工事、米軍基地建設で荒れ果てるヤンバルの森林。本土資本・海外資本の進出が進む一方で、高失業率と貧困問題を抱えた経済。巨大な米軍基地に占拠されているだけでなく、民間地域に米軍関係のセスナ機が墜落しても県警のまともな捜査さえできない主権喪失の政治。これらにサトウキビをはじめとした農業の問題を加えれば、沖縄が抱えている問題の本質は変わらず、むしろより悪化した現実として露呈しているのではないか。
「義人」「悲劇の英雄」としての謝花像が偶像化されたものであり、杣山開墾への取り組みや民権運動の質に問題点が指摘されるにしても、自らが生きている時代、地域の問題に全精力をもって取り組み、理論追求と政治実践を同時になし得た謝花のような人物は、そういるものではない。
〈県政批判と簡単に言うものの、現在の感覚でとらえては大変な誤りである。それは官威や公権力の重圧がモロに襲いかかる明治中期を時代背景にした、よほどの覚悟を要する抵抗行為であり、決して第三者的な批評ではなく、当事者間の倒すか倒されるかの政治闘争である〉
伊佐眞一氏は『謝花昇集』(みすず書房)でそう記している。奈良原知事や沖縄の旧支配層、時の琉球新報などの激しい攻撃にさらされ、謝花は倒された。謝花らの活動拠点であった沖縄倶楽部は瓦解し、若き平良新助は東京の外国語学校に進む。一九〇一年、謝花は神戸駅にて発狂、故郷の東風平で不遇のまま生を閉じたのは、よく知られていること……とは必ずしも言えない。
時代が二回りも三回りもし、謝花昇について知らない若者も多い。百年の時を経た今日において、同時代としての謝花の姿を示し、若い世代に伝えていく。それも県内紙の、とりわけ文化・学芸欄の役割ではなかろうか。