バスは途中、スーパーに寄ってトイレを借りたり水を買ったりしてから、サイパン熱帯植物園に向かった。植物園はタッポーチョ山東側の麓にあった。園の職員から説明を受けつつ園内の植物を見て回り、用意された熱帯果実を味わった。
写真は植物園内からの眺め。鉄塔が建っている山はタッポーチョ山。植物園の近くには「死の谷」と呼ばれた谷があり、タッポーチョ山一帯は日米両軍の激戦地であった。その戦闘の様子を三ヶ野大典『悲劇のサイパン 絶対国防県の崩壊』(フットワーク出版)は次のように記している。
〈タッポーチョ山周辺には多数の負傷者や軍属、一般邦人が砲爆撃を避けて集まっていた。サイパンには河川が少ない。水源地は東側中部のドンニイの水源地と、ガラパンの水槽タンクにたまる天然水が頼りだったため、自然の遮へい物の多いこの地区に集まって来たのだ。一般邦人は着のみ着のままで、背負えるだけの衣食しか持っていなかったため、早くも食べ物に困る者も多かった。山中のあちこちで負傷者の苦しげなうめき声や、赤ん坊の泣き声が毎夜聞こえた。
(六月)二十二日、タッポーチョ山に対する米軍の本格的な攻撃が始まった。戦車五十両を押し立て、ガラパンの南側、タッポーチョ山の東側、ラウラウ湾方面の三方面から包囲する形で前進した。米軍は日本軍の防御戦の中核である二三〇高地の東側の三四三高地と二八六高地に猛攻を加えた〉(112~113ページ)。
〈翌二十三日もタッポーチョ山南麓での攻防は続き、二八六高地、三四三高地では手榴弾を投げ合う白兵戦を展開した。新たに投入された米軍第二十七歩兵師団主力は、タッポーチョ山東北側を走る一九二高地の西側に向かって攻撃を加えた。同地の日本軍は、自然の洞窟や高地を利用して、前進して来る米軍を側射し、頑強な抵抗を続けたので、米軍は一歩も前進できなかった。そこは幅が一千メートルもない狭い谷間で、米軍はこの谷間を”死の谷”と呼んだ〉(114ページ)。
〈二十五日夜、米軍はタッポーチョ山頂付近に迫り、山頂をめぐる争奪戦は夜半まで続いた。このころから米軍の掃討戦は徹底的だった。どんな小さな洞窟、くぼみも見逃さず前方に動く影に向かって容赦なく火炎放射器で猛火を浴びせ、銃弾、手榴弾を撃ち込んだ〉(120ぺージ)。
〈タッポーチョ山頂の争奪は、二十五日午後から一層激化した。米軍は二個大隊の兵力で迫り、日本軍歩兵第百三十五連隊は、わずか百八十人の兵力で必死に防戦した。しかし、米軍は日本軍が逆襲に転じると後退して迫撃砲の集中砲火を浴びせ、次第に日本軍を追いつめて行った。
山頂は二十六日夕、遂に米軍の手に落ち、同夜、日本軍は夜襲をかけたが奪回できなかった。山頂の陥落により日本軍の残存兵が山のあちこちに孤立したが、同山の一週間の攻防では連日連夜、日本軍の勇戦が続いた。
中でも歩兵第百三十五連隊第六中隊(中隊長・大津中尉)は二十三日から二十六日まで山頂南西の高地に踏み止まり、米軍迫撃砲群を急襲、撃滅した。日本軍はタコツボや岩陰を利用し、米軍が接近すると銃剣をふるい、手榴弾を投げて立ち向かった。しかし、一発の手榴弾に対して、米軍からは必ずその何倍もの砲弾が返ってきた。
大津中尉はさらに二十六日、大隊への復帰命令が出ると、生き残った十五人で敵陣を突破し、米軍百五十人を襲撃して本隊に復帰した。しかし、山頂をめぐる戦闘では、日本軍はあちこちで戦死者を遺棄したまま後退するというこれまでになかったことが起きた。
すでに収容する余力も時間もなくなりつつあった。タッポーチョ山の陥落は戦局の決定的な分岐点になった。以後、日本軍の指揮は混乱し、これがまた統一した戦闘を阻害することになった。陸海軍の高級指揮官の数が多く、命令が入り乱れたのも混乱に拍車をかけた。例えば戦闘に参加する部隊がある半面、命令だからといって後退する部隊もあった。
指揮官を失った兵の中には、戦火を逃れて北方へ退避する一般邦人、原住民に交じって、夢遊病者のようにさまよう者もいた。衣類を脱ぎ棄て丸裸になり、性器を出して訳の分からないことをわめきながら歩く者もおり、極限の条件下に置かれ、錯乱状態に陥った人間の姿がそこにあった〉(122~123ページ)。
沖縄戦では日本兵や住民は沖縄島の南端へと追いつめられていくのだが、サイパン島では北端へと追いつめられていく。米軍に投降することを許されなかった兵士と保護されることを許されなかった住民に、逃げる場所のない島嶼戦の悲惨な状況がその先に待っていた。
写真は植物園内からの眺め。鉄塔が建っている山はタッポーチョ山。植物園の近くには「死の谷」と呼ばれた谷があり、タッポーチョ山一帯は日米両軍の激戦地であった。その戦闘の様子を三ヶ野大典『悲劇のサイパン 絶対国防県の崩壊』(フットワーク出版)は次のように記している。
〈タッポーチョ山周辺には多数の負傷者や軍属、一般邦人が砲爆撃を避けて集まっていた。サイパンには河川が少ない。水源地は東側中部のドンニイの水源地と、ガラパンの水槽タンクにたまる天然水が頼りだったため、自然の遮へい物の多いこの地区に集まって来たのだ。一般邦人は着のみ着のままで、背負えるだけの衣食しか持っていなかったため、早くも食べ物に困る者も多かった。山中のあちこちで負傷者の苦しげなうめき声や、赤ん坊の泣き声が毎夜聞こえた。
(六月)二十二日、タッポーチョ山に対する米軍の本格的な攻撃が始まった。戦車五十両を押し立て、ガラパンの南側、タッポーチョ山の東側、ラウラウ湾方面の三方面から包囲する形で前進した。米軍は日本軍の防御戦の中核である二三〇高地の東側の三四三高地と二八六高地に猛攻を加えた〉(112~113ページ)。
〈翌二十三日もタッポーチョ山南麓での攻防は続き、二八六高地、三四三高地では手榴弾を投げ合う白兵戦を展開した。新たに投入された米軍第二十七歩兵師団主力は、タッポーチョ山東北側を走る一九二高地の西側に向かって攻撃を加えた。同地の日本軍は、自然の洞窟や高地を利用して、前進して来る米軍を側射し、頑強な抵抗を続けたので、米軍は一歩も前進できなかった。そこは幅が一千メートルもない狭い谷間で、米軍はこの谷間を”死の谷”と呼んだ〉(114ページ)。
〈二十五日夜、米軍はタッポーチョ山頂付近に迫り、山頂をめぐる争奪戦は夜半まで続いた。このころから米軍の掃討戦は徹底的だった。どんな小さな洞窟、くぼみも見逃さず前方に動く影に向かって容赦なく火炎放射器で猛火を浴びせ、銃弾、手榴弾を撃ち込んだ〉(120ぺージ)。
〈タッポーチョ山頂の争奪は、二十五日午後から一層激化した。米軍は二個大隊の兵力で迫り、日本軍歩兵第百三十五連隊は、わずか百八十人の兵力で必死に防戦した。しかし、米軍は日本軍が逆襲に転じると後退して迫撃砲の集中砲火を浴びせ、次第に日本軍を追いつめて行った。
山頂は二十六日夕、遂に米軍の手に落ち、同夜、日本軍は夜襲をかけたが奪回できなかった。山頂の陥落により日本軍の残存兵が山のあちこちに孤立したが、同山の一週間の攻防では連日連夜、日本軍の勇戦が続いた。
中でも歩兵第百三十五連隊第六中隊(中隊長・大津中尉)は二十三日から二十六日まで山頂南西の高地に踏み止まり、米軍迫撃砲群を急襲、撃滅した。日本軍はタコツボや岩陰を利用し、米軍が接近すると銃剣をふるい、手榴弾を投げて立ち向かった。しかし、一発の手榴弾に対して、米軍からは必ずその何倍もの砲弾が返ってきた。
大津中尉はさらに二十六日、大隊への復帰命令が出ると、生き残った十五人で敵陣を突破し、米軍百五十人を襲撃して本隊に復帰した。しかし、山頂をめぐる戦闘では、日本軍はあちこちで戦死者を遺棄したまま後退するというこれまでになかったことが起きた。
すでに収容する余力も時間もなくなりつつあった。タッポーチョ山の陥落は戦局の決定的な分岐点になった。以後、日本軍の指揮は混乱し、これがまた統一した戦闘を阻害することになった。陸海軍の高級指揮官の数が多く、命令が入り乱れたのも混乱に拍車をかけた。例えば戦闘に参加する部隊がある半面、命令だからといって後退する部隊もあった。
指揮官を失った兵の中には、戦火を逃れて北方へ退避する一般邦人、原住民に交じって、夢遊病者のようにさまよう者もいた。衣類を脱ぎ棄て丸裸になり、性器を出して訳の分からないことをわめきながら歩く者もおり、極限の条件下に置かれ、錯乱状態に陥った人間の姿がそこにあった〉(122~123ページ)。
沖縄戦では日本兵や住民は沖縄島の南端へと追いつめられていくのだが、サイパン島では北端へと追いつめられていく。米軍に投降することを許されなかった兵士と保護されることを許されなかった住民に、逃げる場所のない島嶼戦の悲惨な状況がその先に待っていた。