「なぜ勉強しなきゃいけないの?」
皆さんは自分のお子さんにこう聞かれたとき、明確に返答できますか?
今日、久々に学校説明会で理事長の言葉を聞いて、私は改めて自分の膝をトンっと叩きました。
勉強は、それぞれの専門分野において、ひとの役に立つために、するのです。
例えば、医者なら医学の分野で、教師なら教育の分野で…
それぞれがそれぞれの専門分野で社会貢献するために勉強は必要なのです。
... もちろん、ひとの役に立つためには、まずは自分が勉強しなければなりません。
つまり、勉強は自分のため、そしてひとのために、するものなのです。
ひとのためになると、ひとから感謝され、自分も嬉しくなります。
だから、勉強は「いやな」ものではなく、「楽しい」ものなのです。
なんと、明解なのでしょう!
1年生でも理解できます。
私は、父親から今となっては「虐待」と言われるであろう「教育」を受けて育ちました。
女の子なのに、小さい時から「げんこつ」「平手打ち」は日常茶飯事。
1年生の時、両手両足を縛られ真っ暗な部屋に放り投げられたこともあります。
「私は絶対にここの家の子じゃない」
「なんで私はこの世に生まれてきたんだろう」
私は小さい時からずーっと考え続けていました。
でも、中学生になっても高校生になっても大学生になっても、その答えは明確に出ませんでした。
ところが、社会人になって初めて、その答えが出たのです。
私は教員を目指し大学の教育課程で小・中・高の教職免許を取得しました。
当然、公教育の場に自らの糧を求める予定でした。
しかし、そんな父親との確執や家庭の事情で、なるべく地元には帰りたくなかったのです。
が、当時は臨時採用の口しかなく、その収入は家賃にも満たない額でした。
そこで自活するために、大学近くの進学塾にとりあえず就職し、生計を立てながら2年目の採用試験に再挑戦するつもりでした。
そんな時、初めて担当した受験生。
この子たちが、合格発表の日。
学校の先生よりも、家よりも、どこよりも、真っ先に塾に来てくれて…
「先生、合格したよ!今まで本当にありがとう!」
そう言ってくれたのです。
正直、私は、当時、「塾」なんてものは「必要悪」だと思っていました。
世間もまだそういう目で「塾」をとらえていました。
でも…
「自分には自分を必要としてくれるひとがいるんだ」
「こんな自分に、ありがとうって言ってくれるひとがいるんだ…」
それは、幼い時から自分の存在価値を問い続けていた私が、初めて
「生きていて良かった!」
と思えた瞬間でした。
そして、その時こそ
「ひとはなぜ生きるのか」
「なぜこの世に生まれてきたのか」
大袈裟かもしれないけれど、その答えをやっと見つけ出した瞬間でもあったのです。
私には「ひとのために勉強するんだよ」なんて教えてくれる人は誰もいませんでした。
小学校の教員をしていた父でも、です。
人は「ひとのため」になるために、生きるのです。
人は決して1人では生きていけません。
だから人の間、と書いて「人間」と言うのです。
動物は子孫を残すために生き、そして死んでいきますが、人間はそれだけではないのです。
もっと素晴らしい使命を負って「生きる」のです。
それはもの心ついた時から幾度となく自分自身に問い続けてきた疑問に対する、明確な回答でした。
孤独な独居老人も、いじめられ自殺を考えている子どもも…
「自分は一人ではない」
「自分はひとの役に立つ人間なのだ」
そう自覚できたなら、決して自ら命を絶つことは無いはずです。
今日、理事長の言葉で、私は自分の「使命」に改めて気付かされました。
自分が死ぬときに自分にこう問いかけたいと思います。
「おまえは、どれだけの人間に、ありがとう、と言ってもらえたか?」
「おまえは、何人のひとを笑顔にしたか?」
「おまえは、自分のため、そしてひとのために生きたか?」
その答えは、きっとその「ひと」たちが握っているのでしょう…
皆さんは自分のお子さんにこう聞かれたとき、明確に返答できますか?
今日、久々に学校説明会で理事長の言葉を聞いて、私は改めて自分の膝をトンっと叩きました。
勉強は、それぞれの専門分野において、ひとの役に立つために、するのです。
例えば、医者なら医学の分野で、教師なら教育の分野で…
それぞれがそれぞれの専門分野で社会貢献するために勉強は必要なのです。
... もちろん、ひとの役に立つためには、まずは自分が勉強しなければなりません。
つまり、勉強は自分のため、そしてひとのために、するものなのです。
ひとのためになると、ひとから感謝され、自分も嬉しくなります。
だから、勉強は「いやな」ものではなく、「楽しい」ものなのです。
なんと、明解なのでしょう!
1年生でも理解できます。
私は、父親から今となっては「虐待」と言われるであろう「教育」を受けて育ちました。
女の子なのに、小さい時から「げんこつ」「平手打ち」は日常茶飯事。
1年生の時、両手両足を縛られ真っ暗な部屋に放り投げられたこともあります。
「私は絶対にここの家の子じゃない」
「なんで私はこの世に生まれてきたんだろう」
私は小さい時からずーっと考え続けていました。
でも、中学生になっても高校生になっても大学生になっても、その答えは明確に出ませんでした。
ところが、社会人になって初めて、その答えが出たのです。
私は教員を目指し大学の教育課程で小・中・高の教職免許を取得しました。
当然、公教育の場に自らの糧を求める予定でした。
しかし、そんな父親との確執や家庭の事情で、なるべく地元には帰りたくなかったのです。
が、当時は臨時採用の口しかなく、その収入は家賃にも満たない額でした。
そこで自活するために、大学近くの進学塾にとりあえず就職し、生計を立てながら2年目の採用試験に再挑戦するつもりでした。
そんな時、初めて担当した受験生。
この子たちが、合格発表の日。
学校の先生よりも、家よりも、どこよりも、真っ先に塾に来てくれて…
「先生、合格したよ!今まで本当にありがとう!」
そう言ってくれたのです。
正直、私は、当時、「塾」なんてものは「必要悪」だと思っていました。
世間もまだそういう目で「塾」をとらえていました。
でも…
「自分には自分を必要としてくれるひとがいるんだ」
「こんな自分に、ありがとうって言ってくれるひとがいるんだ…」
それは、幼い時から自分の存在価値を問い続けていた私が、初めて
「生きていて良かった!」
と思えた瞬間でした。
そして、その時こそ
「ひとはなぜ生きるのか」
「なぜこの世に生まれてきたのか」
大袈裟かもしれないけれど、その答えをやっと見つけ出した瞬間でもあったのです。
私には「ひとのために勉強するんだよ」なんて教えてくれる人は誰もいませんでした。
小学校の教員をしていた父でも、です。
人は「ひとのため」になるために、生きるのです。
人は決して1人では生きていけません。
だから人の間、と書いて「人間」と言うのです。
動物は子孫を残すために生き、そして死んでいきますが、人間はそれだけではないのです。
もっと素晴らしい使命を負って「生きる」のです。
それはもの心ついた時から幾度となく自分自身に問い続けてきた疑問に対する、明確な回答でした。
孤独な独居老人も、いじめられ自殺を考えている子どもも…
「自分は一人ではない」
「自分はひとの役に立つ人間なのだ」
そう自覚できたなら、決して自ら命を絶つことは無いはずです。
今日、理事長の言葉で、私は自分の「使命」に改めて気付かされました。
自分が死ぬときに自分にこう問いかけたいと思います。
「おまえは、どれだけの人間に、ありがとう、と言ってもらえたか?」
「おまえは、何人のひとを笑顔にしたか?」
「おまえは、自分のため、そしてひとのために生きたか?」
その答えは、きっとその「ひと」たちが握っているのでしょう…