昨日、愛媛の実家で母と暮らしていたおばが亡くなったという。
86歳くらいではなかったろうか。
当ブログにも何回か登場しており、最近は記憶がまだらになってきてしまったようだが
入院していた病院で心不全で亡くなった。
同居していた母はずっと暴言を吐かれたり、暴力をふるわれていたので、
私はいつか母がおばを殺してしまったり、または母が自殺を図るのではないかと
心配していた。だから、認知症的な症状も酷くなる前に亡くなったのは不幸中の幸いと
言うのが私と姉の共通の見解。このおばがいたために、私は結婚してから
母の家に帰った事は2回くらいしかない。そもそも自分の実家という訳でもない。
2000年、私の結婚が決まって、母子3人暮らしを解散し、
母は耳が遠いおばのサポートをするべく愛媛の実家に、姉は都内で一人暮らしを開始。
母はそのとき62歳くらいだったが、一念発起し車の免許を取得。
車が無くては成り立たない田舎で頑張ってきた。
自然は豊かだが松山市内からも離れ、娯楽もない所だ。
母よりも一回り年上のおばは、早くに無くなった母親の代わりに弟妹6人の
母親代わりになり、独身を通しずっと農協で働いた偉い人ではあったはずだ。
だがそれゆえに離婚して住む家のなくなった母が戻って同居することにも
実は反対であったらしく、ことある毎に「出て行け」「出戻り」そして私や姉が
生活費をきちんと送っていても「なぜあんた達は母親を押しつけて面倒をみない」
とか、家計を厳しくチェックされたり年々姉妹間DVがどんどん悪化していき、
母は心底疲れ切っていた。
かなり耳も遠く、一人で生活するには支障も出ていたし免許も返上してからは
母が病院の送り迎えをしていたのだが、世話になってお互い様という意識はなかったようだ。
母が泣いたり弱音を吐いて同居をやめたいという度、
厳しい環境であるのは重々承知ながら
「おばさんの面倒をみると言ったのだから最後までみなくては中途半端ではないか」
と私も姉も諭してきた。
その母の重荷がいきなり軽くなり、母自身が一番拍子抜けしているはずだ。
おばの醜悪な姿を何年も見聞きしてきたので、母がもう苦しまずに済むと思うと
ほっとしたというのが正直な感想だ。DV加害者から逃れたらやはり同じ気持ちだろうか。
ママ、13年間よく頑張った。