あずまクラブ(越前の守)です。正しい心の探究をします。

”人間は夢とロマンを持つから動物とは決定的に違う”から始めます。正しい心の探究です。

小倉智昭 「なぜ逃げなかったか、という言い方はそんなにおかしいことではないと思う」

2011-10-19 23:25:41 | 日記
日刊ケボチ より転載です。

【平野復興相発言】 小倉智昭 「なぜ逃げなかったか、という言い方はそんなにおかしいことではないと思う」

小倉「この部分だけ抜き出して考えると、津波で犠牲になった関係者は『ふざけるな』と思うかもしれませんが、
親しい友人が助かったはずなのになぜ逃げなかったか、なんてバカだったんだという言い方はそんなにおかしいことではないと思う」

田中大貴アナも「愛情を持って出た言葉ですよね」という。しかし、平野のバカ発言で問題なのは、亡くなった同級生を例にとって、「バカみたいなやつもいる」とした部分。

津波で亡くなられた多数の方々を対象にしていると受け取られても仕方がない。

小倉らは震災復興の財源を決める第3次補正予算の審議を前に、国会でゴタゴタさせたくないとの配慮で庇ったのだろうが、復興担当大臣の発言としては極めて不適切だ。
http://www.j-cast.com/tv/2011/10/19110393.html?p=2

【大震災】 平野担当相「私の同級生みたいに逃げなかったバカなやつがいる。彼は亡くなったが、しようがない」…津波避難で★7
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1318983901/

あんたねえ、自民政権時代に、麻生元首相の「失言」とやらをそこまで手取り足取りフォローしたか?

フジはいつまでこいつをのさばらせるの?

視聴者を敵に回すことを承知でやってるとしか思えない。自爆覚悟か。
この政権は何にもしなくてもゴタゴタしてるよ。今さらかばったってもう遅い。いい加減にしろ!
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農業と心中のTPP反対は愚だ

2011-10-19 23:03:37 | 日記
原則は競争力がある国はTPPを賛成し、ない国は反対する。
TPPに賛成すれば、否応なく競争することになる。
負けた製品は他国に頼ることになる。
どれだけ競争力のある製品を持てるかが、国力になる。
経済の世界のみを見れば、その通りだが、
軍事力を加味すると、別の世界になる。
自国の製品が負けそうになると軍事力で圧力をかけるのである。
石油の確保のために軍隊が動いているのは誰もが知っている。
市場拡大に軍事力が利用されているのだ。
TPPの完全無視もいけないが、諸手を上げての賛成もできない。
日本の軍事力が不完全なままでは、不利なのだ。
経済評論家には軍事知識が必須である。

経済発展の政策が皆無の状態で、TPPを進めると傷が深いです。
つまり競争力をつけるための体力が増税によってなくなるのです。
民主党政権での賛成は危ない選択ですね。


【正論】評論家・屋山太郎 産経

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉に参加するかどうかで、与党の民主党が割れている。TPPをめぐる党内の会合で、山田正彦前農水相は191人の署名を集めて、強い反対論を展開していた。言論界でも、東谷暁氏らが「平成の開国が国を滅ぼす」式の反対論を唱えている。

貿易協定の歴史に理念あり

 農水族、農水官僚も含めて、この人たちは世界の安全や経済の成長がどういう枠組みで発展してきたのか考えたことがあるのか。

 第一次大戦も第二次大戦も、開戦に至った動機は、各国が経済的利益を追求した結果、ブロック経済の独善に陥り、傷を深めたからだ。この反省に立って戦後、GATT(関税および貿易に関する一般協定、後のWTO=世界貿易機関)がつくられて、各国が共通の貿易ルールを設定し、経済活動の輪を広げていくことになった。

 交渉は、東京ラウンド、ウルグアイ・ラウンド、ドーハ・ラウンドなどと名付けられ、一回の交渉に約10年を費やして、貿易自由化を徐々に進めてきた。先進国と途上国が貿易を自由化しようというのであるから、交易条件が異なり過ぎて、うまくは進まない。

ウルグアイ・ラウンドは農業の自由化問題で行き詰まった。1993年、日本は細川護煕政権時代にコメの関税化を呑(の)む大英断を下した。これが予定通りに進行すれば、現在の800%のコメ関税は漸次、引き下げられ、今頃は関税ゼロが実現していたかもしれない。だが、続いて行われたドーハ・ラウンドで農業問題が進展せずに、交渉は打ち切りとなった。

国際潮流に完全に乗り遅れた

 一方で、農業以外の分野で貿易を進めたいという国や農業を含んでも妥協の余地がある国が、互いに貿易協定を結ぶ風潮が強まってきた。交易の態様によって、EPA(経済連携協定)やFTA(自由貿易協定)と形は変わるが、日本は農業部門がほとんど自由化を拒否しているので、農業が支障にならないFTAばかりだ。完全に世界の潮流に乗り遅れている。貿易のGDP(国内総生産)に占める割合は、先進諸国の集まり、OECD(経済協力開発機構)34カ国中最低となっているのだ。
 私はかつて、ジュネーブのWTOで貿易交渉を取材したことがあるが、同じ農産品を抱えていても市場を広げた方が得をするということを悟った。貿易は、比較優位の品物が世界に広まり、世界中の人が最良の物を最も安い価格で手に入れられるのが理想である。

日本の農水官僚や農業団体、族議員は将来の利益を見ず、自由化といえば闇雲(やみくも)に反対するだけだ。バナナを自由化しようとしたときには、青森県のリンゴ農家が大反対した。リンゴが売れなくなるというのだ。だが、自由化に踏み切ると、青森リンゴの改良が進んで多種類のリンゴを供給するようになった。今では台湾や
中国に輸出され国内消費も格段に増えた。

 アメリカンチェリーの輸入自由化に当たっても、山形県を中心とする産地が猛反対したが、今や、山形産サクランボは「高級品化」を遂げる一方、米国のサクランボも大粒化している。日本のサクランボの生産額は、あるシンクタンクの試算によれば、この17年間で1・5倍に増えている。

 東谷氏は、米韓FTAは多分、発効しないと述べていた。米韓が発効しないから日本も焦るなという理屈は奇妙だ。が、オバマ米大統領は、国賓として訪米した韓国の李明博大統領との間で米韓関係を経済・貿易分野も含めた「多元的戦略同盟」に格上げすることで合意した。韓国は協定発効後、5年間で農業対策を講ずることになる。同じ経済基盤に立つことは安全保障上も重要な意味がある。

米韓FTAで日本空洞化加速

 日本はTPPへの反対理由として、自国の「農業保護」しか見ていないが、韓国は自動車、テレビなど非農業部門の生産性や所得が上がってこそ、自国農産物の消費も増えるのだと理解している。
 日本がTPPに加盟するもう一つの意味がある。米韓同盟が経済を加えた多重性を追求しているごとく、米国を中心に太平洋を取り巻く国々との連携を強化し、安全保障の効果を高めることだ。

 米韓FTAの発効を機に、円高に伴う日本企業の韓国への流出は加速するだろう。日本企業が韓国で製造して米国に売る場合、関税の2・5%はなくなるからだ。加えて、日本の法人税率が40%なのに対し韓国の法人税率は24%、電力料金は日本の4割と安い。

 コメを守ることは日本経済を守ることにならない。農業分野では蔬菜(そさい)、果樹で自立している農家は少なくない。成功している分野ほど国や農協が口を出していない。土木業からの新規参入の希望は多いから、参入を自由にするための農地法の改正が不可欠である。

 コメ問題の解決法は二つある。一つは規模拡大する農家に厚い補助をすること。二つ目はコメの品種改良を行う一方、関税を自ら引き下げていくことだ。こうした農業構造の流れを阻害しているのは農協の存在と知るべきだろう。(ややま たろう)
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国家と関税自主権

2011-10-19 17:33:27 | 日記
幸福メンタルクリニック さんより 転載です。

国基研だより 平成23 年10月号 第18 号より転載
評議員長 井尻千男氏  

     国家と関税自主権

ヨーロッパの古い城郭都市へ行くと、ここが元税関、と今でも確認できる。もしそのガイドが愛郷心豊かな人であれば、往時の繁栄を笑顔で自慢するだろう。
 
その城郭の外には豊かな田園が広がっている。ところどころに散在する集落は農民の住まいである。城郭内には商工業者が住み、城郭外には農民が住んでいる。
その美しい光景を眺めながら、一つの疑問にとらわれた。農民は昔から城外に住んでいたのだろうか、と。今でこそ機械化が進んで農業人口は少なくなったが、近代化以前の農業従事者は全人口の六、七割に達していたはずだから、商工業者だけで城郭都市をつくれるはずはない。農民も城内に住んで、日の出とともに耕作地に行き、日没時には城内に戻る。そして、収穫した農産品は直ちに城内に貯蔵する。野盗の横行、異民族の侵入と略奪にも備えねばならない。
 
古代ギリシャの都市国家成立以来、国家にとって税金と関税は必須の条件であり、不可欠のものだった。運命共同体としての国家を自覚した時から、それは法
と秩序のためにも不可欠だった。つまり経済的秩序のみならず、政治的秩序のためにも不可欠だったのだ。だから関税自主権は主権国家の第一条件に数えられたのである。

古代にも中世にもたくさんの都市国家があった。特にギリシャ以西のヨーロッパに多かった。都市国家が連合して王国や帝国をつくったケースもあるが、戦争や異民族の侵入がないにもかかわらず、自壊した都市国家も少なくなかった。なぜ自壊したのか。貿易の盛んな通商都市国家が、その盛期に滅んだ事例を想像してみればいいのである。

今風にいえば、商人たちが関税ゼロの理想を掲げた時から崩壊が始まる。戦争に敗れたら復興に励めばいいのだが、「関税ゼロ」を理想に掲げて滅んだ国には「国家再興」の思想がない。明治時代の政治家は、幕末に西洋列強と結ばされた不平等条約に悩まされ、日清・日露という二つの戦争に勝利して初めてその不平等条約から解放された。彼らは関税自主権が「国家主権」とほぼ同格であることを熟知していたといえる。
 
ところが、近年のわが国の政治家たちの多くは「関税ゼロ」が理想だと思っている節がある。すべての国が「関税ゼロ」になれば世界平和が実現するとでも思っているのか。この点に関しては保守も革新もないようである。
 
覇権意志の強い大国、軍事力と金融力において超越的な力を持つ国がそう主張するのは戦略的な意味で正しいというべきだろう。それが平時の覇権だからである。歴史的にいえば、たくさんの都市国家をつぶして大帝国を築いた例もあるのだが、大帝国になる意志を持たない国は、断固として「関税自主権」を保守し、それを行使しなければならない。国家というものは経済学的思惟の過剰によっても滅亡するのである。
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女性の乗った特攻機

2011-10-19 17:28:20 | 日記
理想国家日本の条件 自立国家日本 より転載です。

ねずきちの ひとりごと さんから抜粋

戦争も終わったはずの昭和20(1945)年8月19日、
ご夫婦で陸軍の練習機に乗って特攻を行った方がいました。
夫は特攻服、奥さんは白いワンピース姿だったそうです。
場所は満州北部で、特攻した先はソ連軍の戦車部隊でした。
一緒に11機の飛行機が飛び立っています。
この出撃隊は、「神州不滅特別飛行攻撃隊」といいます。
いま、東京の世田谷観音に、石碑が立っています。
http://www.setagayakannon.com/
新婚だった谷藤少尉が、どのような経緯で妻の朝子さんを特攻機に乗せることになったのかは、
いまとなっては誰にもわかりません。
けれどひとついえることは、一緒に飛び立った仲間たちは、
全員、朝子さんが一緒に逝くことを知っていた。

それは、飛行機が飛び立つ直前のことではなかったのであろうと思います。
おそらくは、前日、伊予屋で打ち合わせをしたときに、
谷藤少尉の口から、「妻も行く」という言葉が発せられ、みんなもそれを理解したのではないか、と思うのです。
であるとすれば、朝子さんと谷藤少尉の中で一緒に死のうと交わされた言葉は、その前であった。
おそらく、ただならぬ表情で帰宅した夫の様子に、
朝子さんは夫が死ぬつもりであることをするどく感じ取ったに違いありません。
そして、どうしても一緒に逝くと言い張った。
二人の間には、喧嘩もあったかもしれません。
けれど、朝子さんは、どうしても、と言って聞かなかったのだろうと思います。
そもそも、女性を特攻機に乗せるなど、前代未聞です。常識外です。

けれど、朝子さんを置いて行けば、11機が飛び立つことによって、大虎山周辺は、
守備兵力が完全に失われます。
そこにソ連兵が来たら、朝子さんはどうなるかわからない。
それならば、先に死にます。
そう言った朝子さんに、ならば一緒に死のう、と少尉は答えたのではないか。
実際、出発の日である19日の早朝、
一緒に散って行かれた岩佐少尉は、その日、許嫁とその母を失っています。
岩佐少尉は、出発の日の朝、許嫁の母娘に、別れの挨拶のために訪れたのです。
すると、許嫁は、母親と一緒に白装束を来て、いまから自刃して果てるという。
そして二人の母娘は、岩佐少尉の介錯で、見事に自決した。
朝子さんは、知っていたのです。
夫の谷藤徹夫は、同級生の二瓶少尉が、
前年の12月、レイテで特攻隊として散って行ったことを、です。
そして夫が、死に場所を求めていることも知っていた。
ソ連軍がせめて来たとき、そしてあらん限りの暴行をしているという事実に接した朝子さんは、
そのときにはなにがなんでも愛する夫と一緒に空の旅に出ようと心に決めていたに違いありません。
伊予屋に勤務していたスミ子さんは、名前がスミ子ということ以外、いまではまったく何もわかりません。

けれど、彼女は、前日の打ち合わせのときに、
谷藤少尉が奥さんを連れて行くというのなら、私も一緒に連れていってと頼み込んだ。
結局、大倉少尉が、スミ子さんを乗せています。
こうして二人の女性は、それぞれの愛する男性とともに、
一緒に飛行機に乗り込み、満州の空へと飛去りました。
11機が飛び立ったあと、小出宏元少尉は、今田達夫少尉から受け取った図嚢をそっと開けます。
そこには一通の封筒と、30cmほどの短刀が納められていた。
そして封筒の中には、和紙に墨書きされた檄文がはいっていました。
そこにはこう書いてあった。
~~~~~~~
戦い得ずして戦わざる空の勇士11名生きて捕虜の汚辱を受けるのを忍び難し
ここに神州不滅特別飛行攻撃隊を編成し昭和維新のさきがけたらんとす
~~~~~~~
大虎山を飛び立った10機は、一路、赤峰のソ連軍戦車部隊を目指します。
けれど隊員のひとりである宮川次郎少尉の飛行機は、途中でエンジントラブルに遭って墜落し、
地元民に救助され、錦県の本部に帰還後、ソ連によってシベリアに抑留されます。
残る9機が、その後どうなったのかは、杳としてつかめません。
私たちとしては、たとえ一機でもいい、見事ソ連軍戦車を粉砕していて欲しいと願わずにいられません。
この物語には、後日談があります。
出撃の際に、飛行場で墜落してしまった伴少尉、
途中で不時着した宮川少尉、第五練習航空隊の隊長であった箕輪中尉など、生き残った関係者は、
その後、全員、ソ連軍によって連れ去られ、シベリアに抑留されました。
そして伴少尉は、シベリアの収容所内で、若い命を落とされています。

彼らが抑留されている間、日本国内では、最後の特攻を敢行した11名については、
軍の正式命令に基づく特攻ではなく、自らの判断による特攻だったということで、
戦後の日本政府による正式な調査も行われず、また靖国神社への合祀も行われませんでした。

シベリアの抑留生活から帰国した箕輪元中尉らは、このことを知り、粘り強く厚生省と折衝を続け、
やっっと昭和32年になって、彼ら10名は戦没者として認められ、靖国神社もかれらを合祀しました。

そして箕輪元中尉らは、さらに募金を集め、昭和42(1962)年5月に、東京世田谷区の
世田谷観音内に、神州不滅特別攻撃隊の顕彰碑を建立します。
そしてその碑文には、「谷藤少尉の如きは、結婚間もない新妻朝子夫人を後ろに乗せて」の一文が刻まれた、

その顕彰碑が建立されたころ、朝子さんは、この時点で戸籍上はまだ生きている人として登録されていました。
朝子さんの母親である中島トヨノさんは、九州の唐津で、愛する娘さんの帰りを、このときもずっと待っていたのです。
事情を知る人が、朝子さんは徹夫さんと一緒に特攻機で旅立たれたのですよ、と話しても、
トヨノさんは、娘は生きていると、絶対に信じようとしなかった。
昭和43(1968)年箕輪元中尉が、朝子さんの
特攻出撃の日のことを詳しくしたためた死亡証明書をトヨノさんに手渡したとき、
トヨノさんは、泣き崩れたそうです。
そしてこう口走った。
「朝子が(釜山に渡る)連絡船に乗り込む時、
『徹夫さんの勤務に喜んでついていくんですよ。
一生懸命内助の功を尽くしなさい』と言って別れたんです。
まさか、特攻にまで付いて行ったなんて・・・」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1350.html


日野原重明氏の言葉から・・


人生の価値は決して長ければいいというものではない。。
短くても、、充実し、くいの無い人生かどうか。。

価値のある人生かどうか・・
燃え尽き、満足できたら幸せだと思う
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嗅覚を失うまで行方不明者を捜し続けた“小さな勇者”災害救助犬が被災地で見た「とり残された弱者」の悲哀

2011-10-19 00:40:22 | 日記
ダイヤモンド・オンライン より転載です。

――災害救助犬調教師・村田忍氏と救助犬・レイラのケース

 3月11日の震災直後に現地に入り、命がけの人命救助を行なったボランティアと犬がいる。災害救助犬調教師の村田忍さんと災害救助犬・レイラは、自衛隊とともに宮城や岩手で生存者の捜索を続けた。

 だが、それはいつしか「遺体捜索」になっていく。さらに、東京電力の原子力発電所が爆発した福島では、人間の尊厳が踏みにじられている実態を目撃していく。

 今回は、村田忍さんに取材を試みることで大震災の「生と死」に関わる真実に迫りたい。
震災直後は涙を流す人さえいなかった遺体を見つけて困った顔をする災害救助犬
「サーチ!」
 女性の声が響く。
 その数メートル前を歩く災害救助犬が、津波で破壊された家などのがれきの山に入っていく。臭いをかぎながら人を探し始めた。それを同行した自衛隊員や消防団員も見守る。
 警察犬は地面の臭いをかぎ、生存者や犯人などを探し出すのに対し、災害救助犬は空気中の臭いから生存者を発見する。
 しばらくすると、犬は皆のほうをじっと見る。背中の毛が逆立っている。災害救助犬調教師の村田忍さんは、こう語る。
「あの場所では、遺体しか見つけられなかった。レイラは、生存者を探すように訓練されている。だから遺体を見ると、『どうしたらいいの?』と相談をするためにそばに寄ってくる」

 村田さんは、レイラの顔つきやしぐさなどからメッセージを感じ取る。それは、「発見したけどどうも違うよ」といったものなのだという。遺体には、腕や足がもぎとられているものがあった。村田さんは、ゆっくりと話す。
「始めは、人のものとは思えなかった。私も自衛隊員や消防団員も、怖いとか悲しむといった感情をシャットアウトされていたように思う。もしかしたら、それが人間の防衛本能なのかもしれない。そうでないと、あの場に長くはいられない」

 がれきの中を進むと、現地の人とすれ違うことがあったが、涙を流している人はいなかったという。「泣く人が現れたのは、それから数日後。震災直後は、感情を表に出す人はほとんどいなかった」

ボランティアとして参加した人命救助遺体を嗅ぎすぎた愛犬は嗅覚を失った
 村田さんは震災翌日の3月12日、自衛隊と共に岩手県の大船渡市にレイラを連れて入った。その後も南に進み、宮古市、宮城県の気仙沼市に行った。

 人命救助に協力をしようと、ボランティアとして志願した。これまでにも、東北で起きた地震の後の救助に参加してきただけに、地元の基地にいる隊員らに知り合いがいた。

「けがをしても、そのときは自己責任。命が奪われることになっても、心の準備はできている。まして今回は、死者・行方不明者が多い。レイラが災害救助犬としての使命を終えることも、覚悟していた」

 犬の嗅覚は、嗅ぎ分ける臭いにより違いがあるものの、人間の約1000倍と言われる。遺体の臭いをたくさんかぐと、その臭いが強過ぎるために嗅覚が弱くなり、災害救助犬としては働くことができなくなるのだという。

「養護施設などで働きつつ、少しずつ貯めたおカネでドイツからレイラを買った。この子は、スイス血統のメスのシェパード。災害救助犬と呼ばれるのにふさわしいレベルに育てるまでに、時間もエネルギーも使った。だから大事な犬。だけど、それ以上に人の命はかけがえのないもの」

 私が村田さんの営む岩手県の金ヶ崎町にある牧場を訪れたのは、10月上旬。そのとき、レイラはかつての嗅覚を失っていた。

「この子にとっては、それは“死”を意味する。ここ7~8年、来るべき日に備え、念入りに訓練をしてきた。災害救助犬は体力が必要。多いときは、1日で30キロ走り込んだ。深夜の午前2時、私が車で運転し、その後をレイラがついてくる。この子はそれをやり遂げた」

 村田さんが災害救助犬に関心を持ったのは、北海道の大学に通う頃、アメリカにホームステイをしたときだった。その家の人が、災害救助犬を育てていた。村田さんは馬などの動物が好きだっただけに、一段と興味を持った。

 帰国して京都の実家にいた1995年、阪神淡路大震災が起きた。そこでスイスをはじめ、海外から来た災害救助犬の活動に魅せられた。

 それ以降は、災害救助犬などの組織に入ることなく、フリーの身で活動をしている。組織のしがらみに拘束されることがないため、被災地に入るタイミングが早い。初期出動が早いから、人を救える可能性も高くなるのだという。

「今回も警察犬などは、3月11日から数日後に現地に入った。あれでは遅い。翌日に入った私でさえ、生存者を見つけることができなかった。引き波が終わって、数時間以内に行くことができていたなら、助かった人はいたはず」

家族に迷惑をかけたくないと思い、あえて死を選んだ人もいるのでは

 村田さんは、「がれきに挟まっていた遺体は、津波が来た後もしばらくは生きていた人のものなのではないか」と、今も思っている。

 一行の使命は、自衛隊ががれきの中に道を作るために“先兵”としての役割を果たすことだった。

 まず、地元の消防団員ががれきの中を案内する。「ここに道があった」「ここには小さな川があったんだけど」そう言いながら進む彼らの後を、村田さんとレイラ、さらに自衛隊員らが続く。

 団員らが「ここに人がいるかもしれない」と言うと、村田さんの「サーチ」の指示に従い、レイラががれきの中に入っていく。遺体が見つかると、隊員はそこに旗を立てる。後から来る他の部隊が、それを収容する流れになっていた。

 村田さんは、レイラが発見した20~30ほどの遺体について分析した。

「その多くは、家の中にあった。いったんは避難したのだが、貴重品を取りに戻ったのかもしれない。膝を悪くしていて “逃げられない”と思い、家に残り、死を選んだのかもしれない。家族に迷惑をかけたくないと考えたのかもしれない。東北に住む高齢者は、そのように思い詰めることがある」

目の前の光景は理解を越えていた――。
ケガをしながらも生存者を探したレイラ

 海岸にたどり着くと、そこには遺体が数え切れないくらい打ち上げられていた。その多くは服をはぎ取られ、傷だらけだった。もはや、捜索をするような状況ではなかった。自衛隊が、無線で他の部隊と連絡を取った。

 村田さんはそのときを振り返って語る。「おそらく、震災当日に引き波で海に運ばれ、晩に沖合から海岸に向けて波で運ばれ、打ち上げられたのではないか」

 捜索を終えた夜は、小学校のグランドなどでテントを張り、寝泊りをした。翌朝早くから、隊員らと人を探し続ける。村田さんは、1週間で12キロ痩せた。隊員や団員らも食事はあまりしなかったという。

「あのときの心理状態は、普通ではなかった。目の前のことが、理解できる範囲を越えていた。精神を冷静に保つために、感情とか食欲を抑え込んでいたのかもしれない。レイラも、次第に落ち込んでいった」

 災害救助犬は、生存者を探すことが使命。しかし、1人も見つからない。遺体を発見するたびに、レイラの表情は曇っていく。村田さんはその心理を説明する。

「この子は、きっとヘコんでいたのだと思う。生存者を見つけると、私が誉める。だけど、あのときはそれができなかった」

 そんなレイラに気を使う隊員や団員が、捜索の休憩の間、家の中に隠れ、生存者のふりをする。だが、犬はそれを見抜く。村田さんは、苦笑いを少しする。

「ありがたいことだけど、この子は頭がいい。人間のその思惑を見抜く。使命感が強いから、どんどんと落ち込む」

 気仙沼市に入ると、大火事の後だったため、独特の臭いがした。それは、家や工場、車、船、重油、魚などが燃えたものだった。「レイラには、あの臭いはきつかったと思う」

 一行は捜索を続けた。車の中の遺体を見つけることもあった。それは傷もほとんどなく、生きているようだった。母親が子を抱いたままのものもあった。苦しそうな表情だったという。
 車からそれらを運び出そうとするとき、隊員が怖がることがあった。気分を悪くし、吐く者もいた。レイラはがれきで足の裏をけがしながらも、生存者を探し続けた。

「警察犬などは15分ほどしか集中力が持たない。だけど、この子は生存者を見つけるまで、あきらめない」

 しかし、生きている人はいなかった。1週間でレイラは体重が半分になった。

「人間の尊厳を踏みにじられている」立ち入り禁止区域で右往左往する遺族
 村田さんは3月下旬、単身で福島に入った。南相馬市には放射能の汚染のため、立ち入り禁止区域があったが、そこの馬や牛、ヤギ、豚、犬などを救おうとした。市内の原町区には、知人もいた。その中には津波で亡くなったり、今も行方不明になったままの人もいる。知り合いの消防団員は、10人近くが死亡した。

 それ以降、半年以上にわたり、多いときは週に4日、岩手の金ヶ崎町から車を運転し、現地に向かい、動物の救助活動を続ける。それらを自身のツイッターで情報発信もする。

「もう引けない。放射能で汚染され、たとえ将来がんになって死を迎えても、後悔はしない」

 村田さんは、東京電力の原子力発電所の爆発後に、現地で生じた問題を「人災」と言い切る。

 3月下旬、20キロ圏内の境界線に警官が立ち、そこから進めないようにしていた。住民はその前で列になり、双眼鏡で数百メートル先の家の付近を見ていた。

「ああ、うちのじいっちゃんの遺体をカラスがつっつき、食っている。遺体を引き取りに行きたい」

 警官は制止する。村田さんはその警官たちを見ると、あることに気がついた。そのほとんどが、関西の警察から応援に来た若手だった。
「住民と接するところには、福島県警の警官がいない。住民は、警官に知り合いがいる。県警本部はそれを意識し、この地に縁がない関西の警察官を配置したのではないか」

 村田さんは繰り返す。

「カラスに食いちぎられるなんて、人の尊厳を踏みにじられている」

 他の禁止区域を回ると、パトカーの中には40~50代の警官がいて、30代前半までくらいの若い警官が警備に当たっている光景が目につくという。

「20キロ圏内の境界線から数十メートルのところで、防護服を着ないまま、23歳の警官が立ち続けていた。ベテランは車両の中で寝ていた」

立場が強い者が身を守り、
弱い者が死の恐怖を味わわされる

 ある日、警察や自衛隊が昼過ぎに一斉にいなくなった。普段は夕方まではいる。村田さんは「何かが起きた」と咄嗟に感じた。数日後、新聞が原発にさらなる爆発の可能性があったことを報じた。

 村田さんは、岩手や宮城での自衛隊や警察の捜索活動は評価しながらも、福島での活動については冷めた目で見つめる。

「こんなことが、もう4回も起きている。自衛隊や警察は、危険を察知するといち早く避難する。その情報を、地元の消防団員やここに残る住民に伝えない。住民は自衛隊や警察だけでなく、政治も信用していない」

 そして、消防団員らに気を配る。団員は何も知らされることなく、腐敗が進んだ遺体の捜索を今も続ける。

「ここでは立場が強い者が身を守り、弱い者が死の恐怖を味わわされる。亡くなった人、それを助けに行くこともできない家族、若い警官、消防団員、そして動物」

 道を歩くと、犬や牛などの死骸がいくつもある。動物がこの冬を乗り越えることは、難しいかもしれないという。死体の中には、生まれたばかりの奇形の牛もあった。村田さんは言う。

「絶対におかしなことが起きている……」
“生き証人”の証言から学ぶ
防災の心得 

 村田さんの証言から私が感じ取った、今後の防災を問い直す上で検証すべき点は、主に以下の3つである。

1.初期出動を一段と早める体制を急いでつくる

 3月11日は阪神淡路大震災のときに比べると、警察、自衛隊、消防などによる人命救助や捜索の初期出動は、おおむね早くなったと言われる。

 村田さんはそれを認めつつも、「警察などは捜索活動の初期出動を一段と早くするべき」と説く。その一方で、「組織であるがゆえに、これ以上は難しいかもしれない」とも指摘する。私は、この考えを起点に防災を考えるべきと思う。

 むしろ、行政が村田さんたちのようなボランティアを支援、育成し、警察や消防、自衛隊、自治体、さらに地域の住民との間でネットワークを作れるように誘導することが必要だと思う。それが、初期出動を早めることに役立つ。

 このようなネットワークは、自然発生的には生まれ得ない。行政が仕掛けることが大切だ。行政は、ボランティアのフットワークの良さを奪うことなく支援し、初期出動を一段と早くする体制を作ることを急ぐべきだ。

 行政を動かすのは、世論である。世論を作るのでは私たちであり、その結果いかんで初期出動の今後のあり方も変わってくる。

2.「命がけのボランティア」に対する認識や評価を高める

 今回の震災では、多くのボランティアが被災地を訪れた。私も参加したが、一般のボランティアと村田さんのような命がけの行動をとる人たちは、その志や考え方、行動などが相当違う。これらの違いを踏まえることなく、「ボランティア」として同じように扱うことには無理があると思う。
 新聞やテレビ、有識者などは、その違いを認識できていないケースがある。そもそも、村田さんのような存在に関心をあまり払わない。前回の記事で紹介した消防団員も、特別職の公務員とはいえ、年間の報酬は数万円であり、ボランティアのようなものだ。

 これまた、新聞やテレビに出ている有識者は、自治体本部の消防職員と区別ができていないことがある。

 私は知事、市長、町長らが、村田さんや消防団員らの「命がけのボランティア」を様々な場で称えることが急務と考える。この人たちを認める世論を行政がリードする気概が、あってしかるべきだろう。

 そうでないと、防災力はもちろん、地域社会も衰弱していく。危険を省みず活動をする村田さんや消防団員こそ、地域社会の将来を占う貴重な存在である。地域社会を強くすれば、当然、防災力も強くなっていく。

3.原発付近の遺体の様子など、一層の情報開示を

 村田さんが指摘するとおり、爆発した福島の原発付近では、震災直後、遺体が放置されたままになっていた。3月31日には、次のような記事が共同通信社から報道機関に配信された。

「原発の20キロ圏に数百~千の遺体か、死亡後に被ばくの疑い」

《福島第1原発事故で、政府が避難指示を出している原発から約20キロの圏内に、東日本大震災で亡くなった人の遺体が数百~千体あると推定されることが31日、警察当局への取材で分かった。(中略)

 警察当局によると、高線量の放射線を浴びた遺体を収容する際、作業する部隊の隊員が二次被ばくする可能性がある。収容先となる遺体安置所などでも検視する警察官や医師、訪問する遺族らに被ばくの恐れが生じる。
 遺体は最終的に遺族か各市町村に引き渡すことになるが、火葬すると放射性物質を含んだ煙が拡散する恐れがあり、土葬の場合も土中や周辺に広がる状況が懸念される。

 警察当局は現場での除染や検視も検討しているが、関係者は「時間が経過して遺体が傷んでいるケースは、洗うことでさらに損傷が激しくなり問題だ」と指摘している。

 身元確認のため、遺体から爪だけを採取してDNA鑑定する方法もあるが、爪も除染する必要があり、かなりの手間と時間がかかるという。》

 福島県警は、震災当日から1ヵ月ほど経った4月中旬に、原発から10キロ圏内で捜索を始めた。連載第3回で紹介したように、この捜索で見つかった遺体もある。

 しかし、半年経った今もその全てが回収されたわけではない。村田さんは「たとえ見つかっても、汚染されているため遺族に返すことができないものもある」と見ている。

 今後、遺体回収の方法、さらに遺族への返還の方法を積極的に議論していくことも、重要なことではないだろうか。

 最後に、村田さんは現在、福島県の相馬野馬追(そうまのまおい)祭りをボランティアとして支援している。この祭りは毎年7月に行なわれるもので、多くの馬が参加することで知られる。国の重要無形民俗文化財にも指定されている。今回の震災で飼い主を失った馬もいるため、その飼育を現地で続けている。

 こういう無償の行為を称えることなく、被災地の復興はあり得ない。人にしろ、動物にしろ、その命を惜しみ大切にしようとするところから、私たちは再スタートするべきではないのだろうか。

 もしかすると、この国では多くの人が「命は大切」と言いながら、それを守ろうとする人たちを、実は軽く扱ってきたのではないかと思えてならない。
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瀕死の女児を見て見ぬふり 中国、道徳崩壊に批判

2011-10-19 00:23:17 | 日記
人命軽視の国ですね。
救助した女性が「売名行為」だと非難されるとは、
こんな国では、他人は鬼です。
鬼の中で生きるには、自分も鬼にならなければなりません。

堕ちた天使より 転載です。
中国広東省仏山市で女児(2)が車にひかれ、血を流して倒れているのに通り掛かった18人の人々は誰も助けようイメージ 1とせず、女児は別の車にもひかれた後に病院に搬送、意識不明の状態が続いている。現場の一部始終を収めた防犯ビデオ映像がインターネット上に出回り、「中国の経済は発展したが、道徳は失われた」などと嘆きの声が相次いでいる。

 中国紙などによると、女児が事故に遭ったのは13日夕方。映像によると現場は商店街の幅約4メートルの道路で、女児は道路を渡っていたところをワゴン車にひかれた。ワゴン車は走り去った。

 女児は路上でうずくまり、苦しんでいたが、通行人の若い男性や子連れの母親、バイクや自転車に乗った人々計18人は女児に目をやりながらも素通りし、女児は別の車にも両脚をひかれた。(共同)

18人が見て見ぬふり中国2才児ひき逃げ事件、救助した女性が「売名行為」だと非難される
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平野氏発言「津波から逃げなかったバカなやつ」

2011-10-19 00:21:11 | 日記
どうして民主党には人間以下の大臣が頻発するのだろうか?
民主党の多くは、学園紛争の市民運動家であるとか、、
彼らは、市民という言葉で汚れた体を隠した、正義面だけの悪魔ですね。


産経新聞より転載です。

怒りの被災者「母はバカだから死んだのか」

「母はバカだから死んだのか」-。平野達男震災復興担当相の「(津波から逃げなかったバカなやつがいます」という発言。前任の松本龍氏が「知恵を出さないやつは助けない」と発言して辞任してからわずか3カ月、被災地の思いを踏みにじる発言に、地元や識者からは、怒りを通り越して驚きあきれた声が上がった。

「おふくろは足腰が悪くて逃げたくても逃げられなかった。バカだから死んだの? 大臣、議員として以前に人としてありえない。辞職どころではすまされない」

 宮城県南三陸町の無職、三浦達也さん(43)は声を荒らげた。

 津波当日、母親は自宅2階にいた。「足腰が悪いから、外に逃げるより2階にいた方が安全だと思った」。しかし、母親は津波で家ごと流されて亡くなった。「なんで連れて逃げなかったの」。母親の友人に責められたこともあった。「今も悩んでつらい。あの時を知らないやつに何も言われたくない。みんな必死だった」と三浦さんは話す。

 知人の消防署員は、救助に向かう途中で亡くなった。近所の自転車店の店主は、顧客の自転車を守ろうとトラックに積んでいる最中に流された。友人は妻と3歳の子を亡くし、4カ月の子はいまも見つからない。「亡くなった2万人の遺族の前で言えるの? 唖(あ)然(ぜん)とするしかない」。三浦さんの怒りは収まらない。

 平野氏の発言があった福島県二本松市では、9月のコメの放射性物質の予備調査で国の暫定基準値ちょうどの500ベクレルのセシウムが検出され、今月6日の本調査でようやく安全が確認され、18日に初出荷が始まったばかりだった。

 市内で米穀店を営む桑原賢治さん(68)は「とんでもない発言だ。言葉が軽すぎる」と驚きを隠さない。「被災地に来てくれるのは良いが、本当に地元の気持ちが分かっているのかと思う。真剣に地元の立場に立って対策に取り組んでほしい」と話した。

 津波で壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町の水産加工工場に勤めている男性(59)は「今回の震災で感じたことは、いいことでも悪いことでも、普段の生き方や本性が言葉や行動に出てしまうということ。今回の発言も被災地について思っていることの一端がつい出てしまったのではないか」と話す。

 福島県と隣接し、津波被害で沿岸部が大きな被害を受けた茨城県北茨城市の元市議、松本健一郎さん(56)は「津波が来ると分かっていたら家でふんぞり返っている人はいないよ。逃げ遅れた人もいたのに…。被災者の立場を分かっていない」と嘆いた。

 仙台市の会社経営、安藤哲夫さん(64)は「被災者がどれほど苦しんでいて、そのような発言でどれだけ傷つくか、自分のこととして考えないからそんな軽い発言ができるのではないか」とあきれる。

 「他の国にこんな発言が伝わると思うと恥ずかしい。平野さんには『あなたがバカだ』と言いたい」と怒りを語った。

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神動画!神戸市の役人は在日朝鮮人が大好き! ①

2011-10-19 00:17:35 | 日記
堕ちた天使より転載です。

日本国民の税金が垂れ流されています。
これは日本国民必見の動画、と言っても過言ではないと思います。
ぜひご覧になって下さい。
神戸だけの問題ではなく、戦後の日本全体を象徴した光景です。

神戸市課長昇任研修の資料に記載されている内容は、全て朝鮮史観に基づくものだった。人権研修では外国人問題を扱うがその講師は過去ずっと在日朝鮮人。拉致国家である北朝
­鮮を擁護するかの内容である。そして、資料に書かれていることは韓国併合時代に日本が行ったことは全て悪虐非道であったこと、関東大震災における朝鮮人虐殺など、一方的な­事柄が列挙されている。
これら多くの問題を含む課長研修会のカリキュラムを組んだ担当に対して桜井誠、チーム関西が話を聞きに神戸市役所を訪問した。

神戸市行財政局職員部職員人材開発センター
主査 黒子裕司
Tel 078-221-3888 Fax 078-265-0175
Mail yuji_kuroko@office.city.kobe.lg.jp

神戸市市長室国際交流推進部
主査 清水文彦
Tel 078-322-5010 Fax 078-322-2382
Mail fumihiko_shimizu@office.city.kobe.lg.jp

神戸市行財政局職員部職員人材開発センター
センター長 豊島
Tel 078-221-3888

神戸市 教育委員会事務局 庶務課
〒650-8570 神戸市中央区加納町6-5-1
電話:078-322-5760 Fax:078-322-6145
メール

神戸市総合コールセンター
電話:078-333-3330 Fax:078-333-3314
8:00-21:00
なんと年中無休だとのこと。
メール

神戸市立垂水中学校
英語教師 韓裕司
〒655-0017
神戸市垂水区上高丸1丁目4番1号
TEL: 078-707-6363 FAX: 078-709-5071

【在特会・チーム関西・現代撫子倶楽部の抗議活動告知】
皆様のご協力宜しくお願い致します。
http://www.team-kansai.jp/

<チーム関西・在特会からのお知らせ>

今後予想される司法関連費用など財務面で大きな困難を抱えています。
活動にご理解いただける方で余力のある皆さまにおかれましては、是非チーム関西・在特会への暖かいご支援をお願いいたします。

【在特会へのご寄附はこちら】
http://www.zaitokukai.info/modules/about/zai/endowment.html

【チーム関西へのご寄付はこちら】

ご支援口座:ゆうちょ銀行 
コード9900 
店番448 
普通 四四八店 
2889702 チームカンサイ
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最大の格差大国は中国と北朝鮮

2011-10-19 00:12:09 | 日記
2011-10-18 やない筆勝氏、ブログ転載 です。

http://yanai7.blog.fc2.com/blog-entry-214.html

10月16日の人民網に「米国、「食費にも困る」
経済状態の人の割合が中国を上回る」という記事が掲載されています。
http://j.people.com.cn/94476/7618238.html

米世論調査会社・ギャラップが行った世論調査によると、
「過去12カ月以内に、自分又は家族が必要な食べ物を買うお金が無かったという経験が
あるか」という質問に対し、「Yes」と答えたのは、
中国人回答者のうちの6%、アメリカ人は19%であった──という記事です。

つまり、この人民網の記事は、「食費にも困る経済状態の人は、
中国人よりもアメリカ人のほうが3倍以上も多い」ということを言いたいわけですが、
本当にそうでしょうか?
「食費に困る経験をした」中国人が6%しかいなかったという調査結果は、
そもそも比較的所得の高い層を対象に実施した世論調査でしょうから、
最初からバイアスがかかっており、到底、信用することはできません。
圧倒的多数の中国人民は、未だ貧困の中にあり、中国全土で暴動が勃発していることは周知の事実です。

同じギャラップ社の世論調査では、「中国人の7割がギリギリの生活を強いられている」
という別の結果も出ています。
※参考 新唐人ニュースより
「中国人の7割がギリギリの生活」ギャラップ社世論調査より
http://www.youtube.com/watch?v=df-Ggjvyc9w

この事実を隠すために、意図的に富裕層や米国に移住した中国人を対象とした世論調査の
数値をうまく利用し、国内の不満を抑え、
中国共産党にとって<不都合な真実>は
なかったことにしようとする。
これが中国の情報操作の実態です。

    ◇

ウオール街で発生した「反格差デモ」が
東京にも波及し、
10月15日には日比谷公園や六本木でも、
「反格差社会」「脱原発」などののスローガンを
掲げる一部の人々が、デモ行進を行いました。

北朝鮮の新聞社は、この様子を「最大規模の
反資本主義闘争」と報じています。
(※10/17産経新聞)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111017/kor11101701490000-n1.htm

現在、地球上でもっとも人権が軽んじられ、
格差の拡大によって民衆が塗炭の苦しみを味わっている国は中国と北朝鮮に他なりません。
本来ならば、ウオール街や東京の「反格差デモ」を
報じている場合ではなく「自国民の差別や貧困を早くなんとかせよ!」と言いたいところです。

    ◇

格差のない社会は、結果平等の社会です。
すべての人々が平等になる社会を目指すことは、一見、正義のようにも見えますが
行き着くところは共産主義社会の「貧しさの平等」です。

「反格差」の根っこにあるのは「他人への嫉妬心」です。
他人が豊かになることが許せない、という心です。
「格差反対」「すべての人に職を」などと綺麗
ごとを掲げてはいますが、結局のところは
自分より成功した人々がねたましいだけではありませんか? 

自分が努力して成長していこうという、
積極的な思いではなく成功者を引きずり下ろして、
みんな平等に貧しくなろうという気持ち。
これが共産主義社会の考え方であり、朝日新聞に
代表される日本の左翼系ジャーナリズムが
日本全体をこの思想で覆い尽くそうとしているのです。

「格差反対デモ」から見えるものは、嫉妬心から生まれた自分勝手な願望であり、
それを「正義」や「愛」と見間違ってはなりません。

先日の「OCCUPY TOKYO」デモで「格差反対」を叫んでいた人々は、
あたかもそれを正義だと勘違いしているのかもしれませんが、
もしも本当に「格差によって苦しむ人々を助けたい」
という純粋な気持ちがあるならば、自分自身の「嫉妬心」を満たすためにではなく、
不当な差別に苦しむ北朝鮮や中国の国民のために、
そのエネルギーを使ってみてはいかがでしょうか。

中国と北朝鮮で理不尽な人権蹂躙に苦しんでいる人々が、
一日も早く真の「自由」を獲得し、貧困や圧政から解放されるように、
「OCCUPY TOKYO」の旗の下に集った方々には、
隣国の現実に目を転じていただきたいものです。


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円高の克服

2011-10-19 00:10:06 | 日記
天下御免! ○○に物申す より転載です。

 「円高是正」と政府もマスコミも盛んにいう。円高は悪いことで、円安にすればすべて解決するとでもいうのであろうか。
 いままでも何度かもう駄目だと騒いできたが、そのようなことはなかった。大丈夫であったのは騒いだ連中のおかげではないことだけは確かだ。
 若い人は知らないだろうが、小生の子供のころは1ドル360円の固定相場だった。それがニクソンショックで308円になり、それから変動相場になる。ニクソンショックのときは大騒ぎだった。ドルと金の兌換停止ということで、仕組みがまったく変わってしまった。
 次にオイルショックが起こると、マスコミは日本経済は潰れると大騒ぎした。石油がもう入ってこなくなって、産業が成り立たないといわれた。ものがなくなるということで、なぜかトイレットペーパーに殺到するという狂乱ぶりだった。
 正確で落ち着いた報道がなかったのか、風評のほうが大きかったのか。当時の石油の輸入量は減っていなかった。デフレのいまと異なり、物価はかなり上がった。
 1ドル250円ぐらいであったときにプラザ合意がおきた。1985年のことだ。このときに一気に円高になって、86年末には160円を突破した。輸出産業は大打撃を受けると大騒ぎになった。
 その後も上がり下がりはあったが、全体的に円高が進み、いまの状況に至っている。
 とにかく変動相場になってからは円高が続いているといっていいだろう。円高になると輸出産業が打撃を受けるといわれる。オイルショックでは石油というもっとも重要な原料が上がるのだから、製造原価が上がり輸出に打撃だといわれた。
 それでマスコミや経済学者は日本経済が失速するといい続けてきた。残念ながら彼らのいうとおりにはなっていない。彼らのいうことを聞かないところが成功している。
 わが国は貿易収支も金融収支も大幅な黒字だし、技術貿易の黒字も増え続けている。昔と異なり、お金が集まるようになっているので円高になるのは当然といえるのではないか。
 これは円高やオイルショックに対して研究・開発投資を行った産業が強くなり克服してきた結果だ。わが国からお金が逃げていくことになれば円安になるだろうが、それが求められている状況なのか。
 研究・開発による産業強化しか対策はないだろう。金融をいじって何とかしようとした結果が米国や欧州のいまの状況ではないか。
 円高を是正するのではなくて克服することを考えれば、研究・技術開発による産業強化しかないだろうし、いままでやってきてできることだ。それで一層強くなるはずだ。
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