紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

祈りのかたち

2007-10-18 21:23:14 | 新聞
 本日の京都新聞で興味深い記事があり、休憩時間に目を通してじっくり。

 大阪市にある国立文楽劇場にて特別企画公演として、日本各地に伝わる珍しい宗教儀礼を紹介されたというのだ。その名も『祈りのかたち』という公演である。

 そのひとつが「琵琶盲僧の法要」。宮崎県延岡市の浄瑠璃寺住職、永田法順師による「五郎王子の物語」という創世説話を、琵琶の伴奏で語られるという。檀家を訪れて家内安全などを祈る「回壇法要」の際に語られるものらしい。

 ラフカディオ・ハーンの怪談、『耳なし芳一』に登場したり百人一首の蝉丸でおなじみの、ホンモノの「琵琶法師」なのである! ほんまに「琵琶法師」っていたんや!という驚きと感動にどきどきするのだが、演奏後に彼が舞台上から後継者を求める呼びかけを行ったそうなのである。

「求ム! 琵琶法師!」「いちから手ほどきいたします」とか言われれば、ふらふらと手を上げそうになるのではないか、とその場に自分がいなかったことに安堵したりするのだ。弦楽器みたいな繊細で神経使いそうな楽器は、私の手に負える訳ないのに、なんか「琵琶」というものは音色といい形といい、どうにも抗い難く魅力的なのである。
 才能あふれる後継者が現われることを、切に望む。

 次いで登場したのが長崎県平戸市・生月島の隠れキリシタンが伝えた祈り「オラショ」が登場する。隠れキリシタンのお祈りである。5人が舞台上でテンモ?span style="text-decoration:underline">合わせず各人のペースで暗唱していくというのだ。

 なんでや!? 隠れキリシタンとして結束固く心を結び息を合わせることが大切なのではないのか? そこをあえて「合わせず」というのは、なにかしら苦難の歴史の中で生きる知恵が含まれた意味があるのだろうか?

 「オラショ」はほぼ抑揚が無く祝詞のように聞こえるそうだ。すでに地元でさえ意味不明の呪文と化しているらしい。大丈夫なのか、「オラショ」?と、オラショが生き物ならば、ぜひ聞いてみたいほどだ。ラテン語やャ泣gガル語が含まれ、グレゴリオ聖歌が起源の祈りもあるらしいが、意味不明なことばを唱えることに、隠れキリシタンたちは、なんら不安はないのだろうか? 意味不明な呪文によって悪魔の封印が解かれたり、地が裂けて魔物が現われたり、妖怪が飛び出したりするテレビ番組を子ども時代に散々観て来た私には、一抹の不安がよぎるのである。

 ラストを飾るのはトリに相応しい陽気で高揚する祈り、山形県天童市仏向寺の「踊り念仏」なのであるが、残念、睡魔に取り込まれつつあるので、今日はこれまで。「踊り念仏」については、また明日じっくりと。

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