もうすっかり巷でも大人気者となってしまった伊藤若冲さま。私が京都市美術館で一目惚れしてからかれこれ四半世紀が経ち、その間、何度か若冲展に遭遇する機会に恵まれた。何回観ても「かっこいい! 面白い! キュート!」とムネの中で叫んでしまう。ほとんど(昔のテレビドラマの比喩で申し訳ないが)、『寺内貫太郎一家』のばあちゃん(樹木希林)が沢田研二のャXターの前で身悶えするようなもんである。
今回の場所は相国寺の承天閣美術館で、金閣寺の襖絵、それに「釈迦三尊蔵」と「動植綵絵」の再会である。これは見逃すわけにはいかない。たんに若冲の絵を観る、という意味にとどまらないはず、と予感した。
この展覧会タイトルは
開基足利義満公600年遠忌記念
『若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会』
なのである。この展覧会のWEB頁を参考にしつつ、このタイトルの意味合いを説明したい。
伊藤若冲は相国寺の大典禅師と親交のあった江戸時代の画家で、近年奇想の画家として注目を集めているのは周知の通り。
彼は、父母永代の供養を願って釈迦、文殊、普賢の仏画三幅対と、三十幅の動植綵絵を描き、明和七年(1770)、相国寺に寄進した。これら33幅は相国寺方丈に於いて行われる伝統的な儀式である観音懺法において方丈の周りにかけられたと伝えられており、最高の仏画として描かれ、儀式に使用されてきた。
しかし明治時代、廃仏毀釈による財政の危機に瀕した相国寺を立て直すために、当時の初代管長荻野獨園禅師は伊藤若沖の描いた動植綵絵三十幅を宮内省に献じて金壱万円の下賜金を得、それを資金に境内地一万八千坪を買い戻し現在の相国寺の面目を取り戻したという。以来動植綵絵三十幅は相国寺の手を離れ宮内庁の御物となってしまった。
ところが折しも今年は、相国寺の開基、足利義満の没後六百年にあたる。この記念すべき年に、「動植綵絵」全幅を宮内庁三の丸尚蔵館より拝借し、「釈迦三尊像」と、そして相国寺とのおよそ120年ぶりの「再会」がかなった。
承天閣美術館は、昭和59年(1984)に、相国寺創建600年を記念して設立された。このときの展示室は設計段階から「いつの日か『動植綵絵』の里帰りが叶ったときに一室で展示が出来るように」と配慮して建築されたものだという。「釈迦三尊像」「動植綵絵」のための特別な空間なのである。
東側の展示ケースには「釈迦三尊像」が、南北面の展示ケースにはそれぞれ左右に「動植綵絵」15幅ずつが鰍ッられるようになっている。今回、この展示室内にはパーテーションや独立ケースなどを一切使用せず、全作品が視界に入る形での展示が行われていた。
この部屋では、むろん一枚一枚の絵をつぶさに観ても、それはそれで素晴らしいが、せっかくの機会なので、33幅を一堂に目にする意味を重視したい。
「動植綵絵」は、海の生き物たち(貝、魚、ハンマーヘッドシャークから子連れの蛸までいた!)、池の生き物たち(蓮、カエル、オタマジャクシ、イモリなど)、鳥たち(鶏、雁、鴛鴦、雉子、ガチョウ、鸚鵡、鳳凰など)の他、草木、虫たち、ヘビ、トカゲ、蜘蛛に至るまで、鮮やかに緻密に描かれている。
それらの中央に深みのある赤を基調色にした釈迦、文殊、普賢の仏画三幅が、モナリザのような不思議な表情で立っていらっしゃる。
中央に立ち会場を見渡すと目眩がしそうだった。大変混み合っていたので、絵の下半分は黒山の人だかりで観られないけれど、それでさえ「み仏は生きとし生けるもの全てを救う」というか「もうすでに救われているのだ」という若冲からのメッセージが、ど~んと伝わるようだった。33幅すべてのピースが揃う意味を感じて、鳥肌が立ちそうな感動に打たれた。やはり予感は当たったのだ。
どうかこの33幅、たびたび再会させてあげて欲しい、と心から望んでいる。もともとはすべて相国寺のものだったのだから。
今回の場所は相国寺の承天閣美術館で、金閣寺の襖絵、それに「釈迦三尊蔵」と「動植綵絵」の再会である。これは見逃すわけにはいかない。たんに若冲の絵を観る、という意味にとどまらないはず、と予感した。
この展覧会タイトルは
開基足利義満公600年遠忌記念
『若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会』
なのである。この展覧会のWEB頁を参考にしつつ、このタイトルの意味合いを説明したい。
伊藤若冲は相国寺の大典禅師と親交のあった江戸時代の画家で、近年奇想の画家として注目を集めているのは周知の通り。
彼は、父母永代の供養を願って釈迦、文殊、普賢の仏画三幅対と、三十幅の動植綵絵を描き、明和七年(1770)、相国寺に寄進した。これら33幅は相国寺方丈に於いて行われる伝統的な儀式である観音懺法において方丈の周りにかけられたと伝えられており、最高の仏画として描かれ、儀式に使用されてきた。
しかし明治時代、廃仏毀釈による財政の危機に瀕した相国寺を立て直すために、当時の初代管長荻野獨園禅師は伊藤若沖の描いた動植綵絵三十幅を宮内省に献じて金壱万円の下賜金を得、それを資金に境内地一万八千坪を買い戻し現在の相国寺の面目を取り戻したという。以来動植綵絵三十幅は相国寺の手を離れ宮内庁の御物となってしまった。
ところが折しも今年は、相国寺の開基、足利義満の没後六百年にあたる。この記念すべき年に、「動植綵絵」全幅を宮内庁三の丸尚蔵館より拝借し、「釈迦三尊像」と、そして相国寺とのおよそ120年ぶりの「再会」がかなった。
承天閣美術館は、昭和59年(1984)に、相国寺創建600年を記念して設立された。このときの展示室は設計段階から「いつの日か『動植綵絵』の里帰りが叶ったときに一室で展示が出来るように」と配慮して建築されたものだという。「釈迦三尊像」「動植綵絵」のための特別な空間なのである。
東側の展示ケースには「釈迦三尊像」が、南北面の展示ケースにはそれぞれ左右に「動植綵絵」15幅ずつが鰍ッられるようになっている。今回、この展示室内にはパーテーションや独立ケースなどを一切使用せず、全作品が視界に入る形での展示が行われていた。
この部屋では、むろん一枚一枚の絵をつぶさに観ても、それはそれで素晴らしいが、せっかくの機会なので、33幅を一堂に目にする意味を重視したい。
「動植綵絵」は、海の生き物たち(貝、魚、ハンマーヘッドシャークから子連れの蛸までいた!)、池の生き物たち(蓮、カエル、オタマジャクシ、イモリなど)、鳥たち(鶏、雁、鴛鴦、雉子、ガチョウ、鸚鵡、鳳凰など)の他、草木、虫たち、ヘビ、トカゲ、蜘蛛に至るまで、鮮やかに緻密に描かれている。
それらの中央に深みのある赤を基調色にした釈迦、文殊、普賢の仏画三幅が、モナリザのような不思議な表情で立っていらっしゃる。
中央に立ち会場を見渡すと目眩がしそうだった。大変混み合っていたので、絵の下半分は黒山の人だかりで観られないけれど、それでさえ「み仏は生きとし生けるもの全てを救う」というか「もうすでに救われているのだ」という若冲からのメッセージが、ど~んと伝わるようだった。33幅すべてのピースが揃う意味を感じて、鳥肌が立ちそうな感動に打たれた。やはり予感は当たったのだ。
どうかこの33幅、たびたび再会させてあげて欲しい、と心から望んでいる。もともとはすべて相国寺のものだったのだから。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます