紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

和みのルーム

2008-01-29 17:24:27 | おでかけ
 私は「非日常」が結構好きだ。

 おばあちゃんが入院して病院にお見舞いに通うのも、リハビリで車椅子に乗せて病院まで付き添うのも、「非日常」。だから全然苦にならない。不謹慎なようだが、そんな日日が目新しくて、気分的には元気になるくらいだ。

 今回初めて「リハビリルーム」と言う場所を体験することができ、その摩訶不思議な空間にちょっと魅了されつつある。理学療法士という肩書きを持つ人間の動きのしくみを知るスペシャリストが患者一名につきそい、マッサージしたり、体操をしたり、立つ練習、歩く練習、階段を上り下りする練習をしているのだが、なんだかやたら和む。

 彼らは「こうしなさい」という人々ではない。だから受付の方には「先生」と呼ばれてはいるが、ぜんぜん「先生」らしくない。それは「この水準までなるべく早く、患者を引き上げなくちゃ」と自分の計画で患者さんを引っ張り回さないからだ。

 あくまで主役は患者さん。

 当たり前のことなのだけど、それだけのことが出来ているっていうのを目の当たりにすると、やっぱり驚く。「人に寄り添う」とか「人格を尊重する」べき仕事や場所はあまたあるけれど、やっぱり「自分の都合や立場」という立脚点からでしか「相手の人格を尊重する」ことはできないのだ。それはもちろん「寄り添っ」たり「尊重」したりにはほど遠いことなのだけれど。

 たぶん私たちは、「相手側に自然に寄り添ったり、人格を尊重したりする」のを、ほとんど見たことがないので、そんな方法があることすら知らないんじゃないかとさえ思える。 

 リハビリルームの先生方(5人くらい)は、みんなにこやかに患者さんたち(ほとんどが高齢者)と世間話をしている。リハビリに役立てようという魂胆ではなく、「早く退院して家に帰りたい?」「今の若い人は、おばあちゃんからみたら、どんな風やの?」「ふう~ん、そうなんや~」と水を向けたり、相槌を打ったり。美容師さんのトークとの違いは、ひとことも「自分のことを(まれに得意げに)しゃべらない」こと。ほぼ聴くに徹する。しかもとことんスローペース。

 また流れる時間のゆったりさ加減が、いかにも「まったり」を具体化したような空間なのだ。効率も成績も競争も無関係。「より自分主体な生活をするために、今より少しだけカラダが動くようになるための伴走者」である理学療法士の先生方。そのスローなユルさが患者でない一介の付き添い人ですら、和ませる。

 まったく意外な場所にパラダイスは出現するのである。


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