さいきん絵を描いて遊び始めたからわかったことだが。
いくらギャルゲー的な絵を描くとはいえ、人体の骨格や肉のつきかたは理解してそれをマネて描けなければお話にならない。
マジメに美術の道を志している人たちの重視しているデッサン力が問われることになるので、やっぱり上達に時間がかかる。
それもそのはず、いくらギャルゲー風のねぇちゃんだからとはいえ、人を模したものには違いはないからだ。
しかし!
そもそも生身のねぇちゃんの人体は大して美しくない。
その大して美しくない生身のねぇちゃんをマネて描いた成果物としてあんなにかわいいギャルゲーのねぇちゃんの絵ができるというのは、考えてみれば大変不思議なものである。
あえて言おう。
人体は美しくない。
それは冷静に観察してみればわかる。
生身のねぇちゃんの肉付きは、デデンとしているというか、デロンとしているというか、そんな感じになっている。
なんというかこう、野獣臭い。
生身の人体の肌は美しくないからこそ化粧する。
体表面だってフォトショ職人のお出ましがなければガッカリなグラビアに仕上がるのは常識である。
人体はアスペクト比そのものも美しくない。
何とかいう美脚が売りらしいアイドルグループの映像をチラッとネットで見てみたが、「なんだその豚足はw」としか思えないようなものだ。
だからギャルゲーのヒロインの足は長い。
眼球にしたってそうだ。
ギャルゲーのヒロインの眼の曲率を考えると、頭蓋骨と同程度の眼球がないとおかしい。
それは明らかに論理的には変なのだが、しかしそのほうが我々にとって魅力的に映る。
そのことから得られる結論は1つ。
人体を完全に写実的にコピーしたものを描いたとしても、それは我々の描きたいものではないということだ。
しかしこれは「人体の骨格や肉のつきかたを理解してそれをマネて描かねばならない」という先の結論と矛盾する。
どこかに「マネて描くべき」というものと「マネて描くべきではない」というものの境界線があるはずだ。
構造はマネるべきであり、アスペクト比はマネてはならないということなのかもしれない。
しかし、それが正確に何なのかは、わたし程度のちょい描き野郎ではわからない。
まあ少なくとも、もうちょっとは画力がついてからでないと話にならんことだけは現時点でもわかった。
いくらギャルゲー的な絵を描くとはいえ、人体の骨格や肉のつきかたは理解してそれをマネて描けなければお話にならない。
マジメに美術の道を志している人たちの重視しているデッサン力が問われることになるので、やっぱり上達に時間がかかる。
それもそのはず、いくらギャルゲー風のねぇちゃんだからとはいえ、人を模したものには違いはないからだ。
しかし!
そもそも生身のねぇちゃんの人体は大して美しくない。
その大して美しくない生身のねぇちゃんをマネて描いた成果物としてあんなにかわいいギャルゲーのねぇちゃんの絵ができるというのは、考えてみれば大変不思議なものである。
あえて言おう。
人体は美しくない。
それは冷静に観察してみればわかる。
生身のねぇちゃんの肉付きは、デデンとしているというか、デロンとしているというか、そんな感じになっている。
なんというかこう、野獣臭い。
生身の人体の肌は美しくないからこそ化粧する。
体表面だってフォトショ職人のお出ましがなければガッカリなグラビアに仕上がるのは常識である。
人体はアスペクト比そのものも美しくない。
何とかいう美脚が売りらしいアイドルグループの映像をチラッとネットで見てみたが、「なんだその豚足はw」としか思えないようなものだ。
だからギャルゲーのヒロインの足は長い。
眼球にしたってそうだ。
ギャルゲーのヒロインの眼の曲率を考えると、頭蓋骨と同程度の眼球がないとおかしい。
それは明らかに論理的には変なのだが、しかしそのほうが我々にとって魅力的に映る。
そのことから得られる結論は1つ。
人体を完全に写実的にコピーしたものを描いたとしても、それは我々の描きたいものではないということだ。
しかしこれは「人体の骨格や肉のつきかたを理解してそれをマネて描かねばならない」という先の結論と矛盾する。
どこかに「マネて描くべき」というものと「マネて描くべきではない」というものの境界線があるはずだ。
構造はマネるべきであり、アスペクト比はマネてはならないということなのかもしれない。
しかし、それが正確に何なのかは、わたし程度のちょい描き野郎ではわからない。
まあ少なくとも、もうちょっとは画力がついてからでないと話にならんことだけは現時点でもわかった。