2007年ごろ、ヴィトンのバッグが大流行りしてそこら中のねぇちゃんが持ってたのをみなさん覚えていよう。
2012年ごろは韓流が大流行りしてTVでやたら朝鮮人が出ており、しかも多くのおばちゃんがそれを喜んで見ていたのも覚えていよう。
そう、人は他人と同じ行動をとりたがる傾向にある。
なぜか?
いちばんカンタンなリスク回避方法は「人と同じことをすること」だからだ。
たとえばふつうの人は中学校を卒業すればほとんど何の疑問も持たず高校へ進学するし、ふつうの親なら高校へ進学させようとする。
なぜか?
ふつうの人があたりまえに得られるであろう多くのものを失うことになるから、あえて高校へ進学しないという選択肢はふつうの人はとらない。
どうしてこういう判断になるのか?
人と同じことをすれば、高確率で多くの人が得られているものを自分も得られるし、
高確率で多くの人が受けるのと同じ程度のお損失で済む。
つまり人と同じことをするという判断は、自分に十分な知識のない選択肢でコストをかけずに自分だけ大負けするリスクを回避する最良の手段なのである。
もちろんそうではない場合もある。
かつてアメリカで貯蓄貸付組合(S&Lということのほうが多い)がバシバシつぶれたことがあった。
理由をちゃんと説明すると長くなるのでカンタンにいうと・・・
超長期のお金の貸してくれる人がないのに超長期でお金を人に貸していたため、あるとき金利が上がるとあっという間に逆ザヤになって債務超過になったわけだが、
それを予見して案パイを打とうとすると他人に融資を取られて商売が成り立たなかった、
・・・という、運命的に倒産を免れえないみたいな状況に当時ハマってしまったわけだ。
つまりこれはS&Lが人と同じことをすることでみんな仲良くくたばった事例である。
しかし、みんな仲良くくたばったおかげで、自分だけくたばるというリスクは回避し、人と同程度には優秀であったのだ・・・とも釈明できる。
逆の例を。
金融機関が先のS&Lと似たような状況下でサブプライムローンに多額の銭をベットしていたとき、サブプライムはみんなくたばって紙屑になるほうへ全額賭け、途中ジリジリと損失が膨らむなか耐え続け、後にリーマンショックがさく裂したことによりボロ儲けした賭博師ポールソン。
こいつの話は“史上最大のボロ儲け”で検索するとたくさん出てくるのでそちらをご覧いただきたい。
つまりこれはポールソンが人と同じことをしないことで自分だけ儲かった事例である。
(稀にこいつのことを投資の神様かのように崇め奉る記事も見るが、中国人の詐欺にひっかかってシノフォレスト株で大穴あけるなど、いろいろと波乱万丈なヤツでもあるが、まあそれはいいとして)
この違いは何か?
自分がその特定の分野で一般大衆より圧倒的に優位な知識があると自分に確信を持てるかどうかということではなかろうか。
例えば、漫画家なり小説家なりイラストレーターなりとして既に親に倍する収入を得ている高校生がいたとしよう。
この高校生は執筆活動に専念するため学校を辞めようかと思うかもしれないが、ふつうの親なら止めるだろう。
とはいっても本人からすれば、口には出さないにせよ
「クリエーターとして食っていけるだけの実績はすでに残してあるんだから、おまえら(親)が言うように人なみに高校を卒業することにメリットなんて無いんだよ」
と思うだろう。
これは高卒になれないという人とは違う選択でかぶるリスクを回避できる自信があるからだ。
(根拠がない自信だとか、そんなに甘くないだとか、旬が過ぎたらどうのとか、そういうのは置いといてだな)
これは艦これでさえ言える。
5-5を攻略しようとするとき、あなたなら空母は誰を使うか?
テンプレには、ちとちよ、加賀、大鳳となる。
これが模範解答である。
しかしわたしはそうはしない。
隼鷹、翔鶴、瑞鶴を投入する。
なぜか?
回避こそが5-5攻略の鍵だという確信に基づく判断であり、
テンプレ構成を用いなくとも戦闘機9スロット分で航空優勢は取れることを確かめてあるというリスク分析は実施済だからである。
テンプレ構成よりわたしのほうが正しいと断言するつもりはない。
だが人とは違う判断に対して自信があるからできるのだ。
ジブリの「耳をすませば」でもそんなシーンがあった。
学業をおろそかにしてでも今やるべきことがあるという娘に対し、
親は人とは違う道はつらいぞと脅かす。
まあ親なら闇雲にハイリスクな人生を送ろうとする娘を引き戻そうという判断は正しい。
ヒロインのあの歳では人とは違う道を選択してでも成功できるだけの自信もなかろう。
わたしは闇雲に人と同じ行動をとる人のことを斜に構えて見る傾向にある。
さきのヴィトンのバッグを持って歩いていたヤツらや、韓流ドラマを喜んで見ていたヤツらなど、当blogでは嘲笑の対象であった。
しかしそれは自分のほうが優位な知識があると確信を持って言えるかどうかという点について常に問われるということの裏返しでもあった。
そのことを肝に銘じておこうと思う。
2012年ごろは韓流が大流行りしてTVでやたら朝鮮人が出ており、しかも多くのおばちゃんがそれを喜んで見ていたのも覚えていよう。
そう、人は他人と同じ行動をとりたがる傾向にある。
なぜか?
いちばんカンタンなリスク回避方法は「人と同じことをすること」だからだ。
たとえばふつうの人は中学校を卒業すればほとんど何の疑問も持たず高校へ進学するし、ふつうの親なら高校へ進学させようとする。
なぜか?
ふつうの人があたりまえに得られるであろう多くのものを失うことになるから、あえて高校へ進学しないという選択肢はふつうの人はとらない。
どうしてこういう判断になるのか?
人と同じことをすれば、高確率で多くの人が得られているものを自分も得られるし、
高確率で多くの人が受けるのと同じ程度のお損失で済む。
つまり人と同じことをするという判断は、自分に十分な知識のない選択肢でコストをかけずに自分だけ大負けするリスクを回避する最良の手段なのである。
もちろんそうではない場合もある。
かつてアメリカで貯蓄貸付組合(S&Lということのほうが多い)がバシバシつぶれたことがあった。
理由をちゃんと説明すると長くなるのでカンタンにいうと・・・
超長期のお金の貸してくれる人がないのに超長期でお金を人に貸していたため、あるとき金利が上がるとあっという間に逆ザヤになって債務超過になったわけだが、
それを予見して案パイを打とうとすると他人に融資を取られて商売が成り立たなかった、
・・・という、運命的に倒産を免れえないみたいな状況に当時ハマってしまったわけだ。
つまりこれはS&Lが人と同じことをすることでみんな仲良くくたばった事例である。
しかし、みんな仲良くくたばったおかげで、自分だけくたばるというリスクは回避し、人と同程度には優秀であったのだ・・・とも釈明できる。
逆の例を。
金融機関が先のS&Lと似たような状況下でサブプライムローンに多額の銭をベットしていたとき、サブプライムはみんなくたばって紙屑になるほうへ全額賭け、途中ジリジリと損失が膨らむなか耐え続け、後にリーマンショックがさく裂したことによりボロ儲けした賭博師ポールソン。
こいつの話は“史上最大のボロ儲け”で検索するとたくさん出てくるのでそちらをご覧いただきたい。
つまりこれはポールソンが人と同じことをしないことで自分だけ儲かった事例である。
(稀にこいつのことを投資の神様かのように崇め奉る記事も見るが、中国人の詐欺にひっかかってシノフォレスト株で大穴あけるなど、いろいろと波乱万丈なヤツでもあるが、まあそれはいいとして)
この違いは何か?
自分がその特定の分野で一般大衆より圧倒的に優位な知識があると自分に確信を持てるかどうかということではなかろうか。
例えば、漫画家なり小説家なりイラストレーターなりとして既に親に倍する収入を得ている高校生がいたとしよう。
この高校生は執筆活動に専念するため学校を辞めようかと思うかもしれないが、ふつうの親なら止めるだろう。
とはいっても本人からすれば、口には出さないにせよ
「クリエーターとして食っていけるだけの実績はすでに残してあるんだから、おまえら(親)が言うように人なみに高校を卒業することにメリットなんて無いんだよ」
と思うだろう。
これは高卒になれないという人とは違う選択でかぶるリスクを回避できる自信があるからだ。
(根拠がない自信だとか、そんなに甘くないだとか、旬が過ぎたらどうのとか、そういうのは置いといてだな)
これは艦これでさえ言える。
5-5を攻略しようとするとき、あなたなら空母は誰を使うか?
テンプレには、ちとちよ、加賀、大鳳となる。
これが模範解答である。
しかしわたしはそうはしない。
隼鷹、翔鶴、瑞鶴を投入する。
なぜか?
回避こそが5-5攻略の鍵だという確信に基づく判断であり、
テンプレ構成を用いなくとも戦闘機9スロット分で航空優勢は取れることを確かめてあるというリスク分析は実施済だからである。
テンプレ構成よりわたしのほうが正しいと断言するつもりはない。
だが人とは違う判断に対して自信があるからできるのだ。
ジブリの「耳をすませば」でもそんなシーンがあった。
学業をおろそかにしてでも今やるべきことがあるという娘に対し、
親は人とは違う道はつらいぞと脅かす。
まあ親なら闇雲にハイリスクな人生を送ろうとする娘を引き戻そうという判断は正しい。
ヒロインのあの歳では人とは違う道を選択してでも成功できるだけの自信もなかろう。
わたしは闇雲に人と同じ行動をとる人のことを斜に構えて見る傾向にある。
さきのヴィトンのバッグを持って歩いていたヤツらや、韓流ドラマを喜んで見ていたヤツらなど、当blogでは嘲笑の対象であった。
しかしそれは自分のほうが優位な知識があると確信を持って言えるかどうかという点について常に問われるということの裏返しでもあった。
そのことを肝に銘じておこうと思う。