京都の街を散策すると、時々面白い発見をする。
珍しいことに、時宗のお寺を見つけた。
そもそも仏教には、4つの如来信仰がある。
釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来である。
如来とは覚者を意味し、深い悟りを開いた者を指す。
空海を祖とする真言宗では、大日如来を祀る。
つまり、宇宙の根本を示す曼荼羅の中央に描く。
最澄を祖とする天台宗では、釈迦如来が中心である。
この違いは、二人が学んだ中国の宗派(寺院)が異なることによる。
天台宗は法華教を根本経典としており、のちに法然が分かれて浄土宗を開く。
彼は、阿弥陀如来を信仰した。
その後、親鸞の浄土真宗を開くのだが、ともに阿弥陀如来を信仰し「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも成仏できると教える。
この流れに位置するのが、一遍が唱えた時宗(時衆)である。
この宗派はもっと寛容で、阿弥陀如来の信仰は問わない。
ただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えてお札を祀るだけでよい。
いい加減と言えばそうだが、難しい教義を説かないので、多くの貧しい民衆が信者となった。
調べてみると、時宗の寺も結構全国にあるようだ。
こうしたお寺を訪れると、時代の流れを感じる。
最近は、救われない時代となってきた気がする。
皆が自分のことしか語らないようになり、詭弁を弄するようになってきた。
傲慢な政治家や経済評論家が増えてきて、誠実な説明や簡明な表現がおろそかにされている。
例えば「非成長産業から成長産業へ労働者を動かす政策が必要だ」という意見がある。
一見、なるほどな、と思う。
しかし、ここにジレンマがある。
(1)何が成長産業かわからない。
(2)どんな職種にでも対応できる労働者は、そんなに多くない。
(3)産業の成長速度と、労働者の順応速度は同じではない。
結局、こうして非正規労働者が増えることになる。
非正規労働者なら、置き換えが容易だからだ。
念仏さえ唱えれば誰でも成仏できるような、わかりやすい政策が必要な気がする。
わが国の産業構造を支えてきたのは、熟練した技術者が高度な製品を作り出す、中小企業という社会基盤である。
これは韓国にも、中国にもない。
「成長産業」という枠組みでは、こうした熟練工が切り捨てられる。
政治や経済を職業とする人々は、日本独特の産業構造をもっと大切にしてほしいと思う。
「労働者を動かす」には、それなりの仕組みが必要だ。
労働者はロボットではないのだから、口で言うほど簡単には動かせない。