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沖縄サンバカーニバル、名古屋サンバカーニバルへのオ・ペイシの情熱を語っています。世界一、心のこもったカーニバルを!

3日間のカーニバル

2008-02-07 | サンバ
土、日、月、と3日間続いたカーニバルを終え、今、やっと一息ついています。
 1日目は、13年間、オ・ペイシで続けているサンパウロの1部リーグのチーム「モシダージ・アレグレ」。オ・ペイシの原点であるこのチームは、今年も素晴らしいパレードを行い、総合得点では1位だったものの、得点のつけ方で、惜しくも2位になりました。

 2日目は、「沖縄 守礼之邦」をテーマとした、2部リーグのチーム「プローバ・ジ・フォーゴ」。このチームには、今年初めて出場したものの、オ・ペイシでは選曲会に参加し、曲が採用され、私は、バテリア(打楽器隊)の前で踊るダンサーとして、招待を受けました。このため、9月からの全体練習は、沖縄サンバカーニバルで、一時帰国で2回休んだ以外は、すべての練習に参加しました。
 バテリアの前、しかも、コルチ(王室メンバー)よりも前で踊る、という大役をもらっただけに、我ながらよく練習したと思います。
 
 3日目は、オ・ペイシで12年間出場し続けているサントスFCの応援団、「トルシーダ・ジョーベン・ド・サントス」のパレードでした。このチームでは、私は4年連続、バテリアの前で踊るミス・シンパチアを務め、2年はプリンセーザに就いており、通算6年間、バテリアの前で踊っているのですが、今年は今までにない、最高の責任がありました。
 
前のブログで書いた通り、カーニバルの2週間前に、ハイーニャ(サンバ・クィーン)が突然、病死で亡くなり、衣装を着てバテリアの前で踊るのは、私1人になってしまいました。1人で会場を、バテリアを盛り上げなければならない、という使命に震えていました。
 しかもテーマが、プローバのように日本系ならともかく、キロンボ(黒人の逃亡奴隷)なのです。亡くなったハイーニャのカーリンは黒人でした。カーリンの分も頑張らなくては、と彼女のお葬式以来、ずっと自分に言い聞かせ、何とかこの日を迎えることができました。

※ハイーニャ・カーリンの訃報を伝えるブログが更新されていませんでした。彼女は、怪我ではなく、突然の脳卒中で、1月21日に他界しました。亡くなった日もサンバチームのフェスタで、フェイジョアーダ作りの手伝いをしており、チームに本当に貢献した人でした。
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