現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

マイケル・ボンド「くまのパディントン」

2024-07-23 08:51:43 | 作品論

 1958年にイギリスで書かれた動物ファンタジーの古典です。
 日本版は1967年に出ていて、私の手元に今あるのは1982年12月5日23刷ですので、かなりのベストセラーです。
 読んだことのない人でも、ペギー・フォートナムの描いたパディントンの絵は、日本でもいろいろなところで使われているのでおなじみのことでしょう。
 南米の「暗黒の地ペルー」(こんなところには、当時のイギリス人の差別意識が残っています。ペルーでは翻訳されていないのでしょうか?)からやってきた小さなクマ、パディントン(ロンドンのパディントン駅で拾われたのでそう名付けられています)が、中流家庭のブラウン家(当時は中流家庭でも、イギリスではお手伝いさんがいたのですね。もっとも庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の1969年の日本の中流家庭にもお手伝いさんは出てきます)の兄妹の下に、末っ子として迎えられ、いろいろな騒動を起こす物語です。
 パディントンは典型的な末っ子キャラで、好奇心旺盛ないたずらっ子をして設定されていて、イギリス伝統の動物ファンタジーの手法を使って楽しく描かれています。
 パディントンの引き起こすいろいろな騒動には、過度にモラリッシュで寛容さに欠ける現在の日本では許されないようなものも多々含まれています。
 こういった育ってきた環境の違いによって引き起こされる「事件」に対して、周囲が寛容さを示すだけでなく彼らに愛情を持てるということは、多様性が求められる今後の日本社会にとっても必要だと思います。
 「ばっかなクマ」というのは、「クマのプーさん」がへまをしたときにクリストファー・ロビンがいつも愛情をこめて思うことですが、パディントンもまさに「ばっかなクマ」として周囲の人たちに愛されているのです。
 ところで、この「くまのパディントン」はシリーズ化されていて、私が学生だった1970年代(今とは比較にならないほどたくさんの内外の児童文学が出版されていました)に、大学の児童文学研究会の仲間たちと三大動物ファンタジー・シリーズ(他はマージェリー・シャープの「ミス・ビアンカ・シリーズ」(その記事を参照してください)とジャン・ド・ブリュノフの「ぞうさんババール・シリーズ」)と呼んで愛読していました。
 それから五十年もたってしまいましたが、これらの本が今でもロングセラーとして読み続けられていることをうれしく思っています。

くまのパディントン
クリエーター情報なし
福音館書店
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松谷みよ子「龍の子太郎」

2024-07-17 08:59:22 | 作品論

 現代児童文学の出発期の1950年代(出版は1960年)に書かれた創作童話の古典です。
 三匹のイワナを一人で食べてしまったために龍になり、その後に生まれてきた子どもを育てるのに乳の代わりに自分の目玉を与えたためにめくら(原文ママ)になった母親と生き別れになった龍の子太郎が、波乱万丈の冒険の末に、みんなと力を合わせて豊かな土地を開拓し、おかあさんも元の姿に戻すことができるというハッピーエンディングストーリーです。
 児童文学研究者の石井直人は、この作品を「作者と読者の「幸福な一致」。すなわち、作者と読者のユートピアである。」と評しています。
 つまり「龍の子太郎」は、まだ民衆の団結や社会の改革を、作者も読者も信じられた時代の児童文学の大きな成果だったのです。
 さらに言えば、日本が「戦争、飢餓、貧困」といった近代的不幸を克服できていなかった50年代や60年代前半の子どもたちにとっては、米やイワナを好きなだけ食べられる豊かさというのは、現在の子どもたちには想像できないような大きな夢だったのでしょう。
 その後、70年安保の敗北や革新勢力の分裂などを経験した1970年代には、「国内での矛盾を外国を侵略する事によって解決しようとする思想」だとか、「個々の登場人物が行動する際の契機になっている発想のディテールは、実は(解放の)正反対の献身と自己犠牲の範疇にある」などといった批判を受けた時期もありましたが、それらはこの作品の背景にある遠い昔からの民衆の願いを軽視した的外れなものでしょう。
 飽食の時代で、母と子の関係も大きく変わった現在では、読者の子どもたちは、この作品の持つ意味合いを正しく理解することは困難だと思われますが、ハラハラドキドキするストーリーや親しみやすい民話の語り口は今でも十分に楽しめます。

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龍の子太郎(新装版) (児童文学創作シリーズ)クリエーター情報なし講談社

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岩本敏男「赤い風船」

2024-07-09 08:50:29 | 作品論

 1971年出版の短編集ですが、どこにでもあるような単純な短編集ではありません。
 児童文学作家の森忠明は「児童文学の魅力 いま読む100冊ー日本編」の中で、この短編集のことを、「リアリズムあり、アフォリズム風あり、カフカ流ありの「赤い風船」は一見放縦な、何でもぶっこんだゾウスイ的短編集であるが、各篇は最後に置かれた絶品「夜の汽車」を深く旅するための、正負のフィードバック効果のようであり、そうみなすと連作短編集とも長編物語とも思えるのである。作者の不可見の念力のようなものが独特の隠し味となって全篇をつないでいる。」と定義しています。
 前半の「あいうえお」は、戦前、戦争中の作者の原体験をもとに描かれた私小説的な連作短編ですが、単なる生活童話ではなく、岩本敏男という現代詩人の眼が、貧乏、家族愛、戦争などを鮮やかに切り取っています。
 後半は中編の「赤い風船」、「ゆうれいのオマル」、「夜の汽車」が並んでいます。
 一見いわゆる無国籍童話風ですが、ナンセンス・ファンタジーあり、実存的作品あり、詩的な作品ありで、どれも一筋縄ではいかない作品です。
 この本は出版当時に、「全体に暗すぎる」、「子どもには難しぎる」、「これからを生きる子どもたちに、こんなネガティブなものを与える必要ない」などの批判を浴びました。
 しかし、一部の読者(特に大人の女性)からは熱狂的な支持を得ました。
 私の属していた大学の児童文学研究会にも、この本の全文をノートに書き写すほどのファンだった同学年の女性がいました。
 彼女は中島みゆき似の理知的な女性でしたが、その字も本人に似てきちんと整っていて美しく、彼女が写した「赤い風船」は本物の本よりも魅力的に見えました。
 私は悪筆で有名で、サークル内では「あいつだけにはガリを切らせるな」と言われていて、いつも私の汚い字で書かれた原稿は、彼女の美しい字でガリ版印刷(パソコンはもちろんワープロもコピー機もない時代だったので、皆に読んでもらうためにはガリ版用紙に一文字一文字書きうつして謄写版印刷するしかなかったのです)してもらっていたので、彼女には頭が上がりませんでした。
 そのため、当時はガチガチの「現代児童文学論者」だった私は、内心この作品に否定的だったものの、彼女の手前サークル内では批判しないでいました。
 再読しても、これはいわゆる「現代児童文学」ではないと思います。
 文章は「散文的」でなく優れて「詩的」です。
 読者としての「子ども」もほとんど(あとがきでは作者は子どもを意識していると言っているのですが)意識されていません。
 「社会変革」の意思も感じられず、強いぺシミズムの雰囲気に満ちています。
 しいていえば、「大人の童話」といった雰囲気です。
 1970年代にも、劇作家の別役実の「淋しいおさかな」のような「大人の童話」の本(もっとも別役はこれらの童話をNHKの幼児番組のために書いたのですが、本は大人向けの装丁で出されていました)も存在したのですが、児童文学界にはほとんど無視されていたようです。
 現在ではこのような「大人の童話」のジャンルの本は、一定の読者(おそらく大人の女性が中心でしょう)を獲得しています。
 ただ、「赤い風船」は、今の読者には毒が強すぎるかもしれません。


ゆうれいがいなかったころ (偕成社の創作文学 23)
クリエーター情報なし
偕成社
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森忠明「ぼくが弟だったとき」

2024-06-11 11:22:15 | 作品論

 小学三年生のぼくには、一つ年上のおねえちゃんいます。
 おねえちゃんはしっかり者で美人ですが、ぼくはにぶくてはなたらしです。
 ぼくのパパとママは、パパの浮気とママの宗教活動のために、いつも喧嘩しています。
 ぼくはおねえちゃんに「両親がわかれたらどっちへゆく」と聞かれて、「おねえちゃんがゆくほう」と答えます。
 二人は、まだ両親が仲良かったころに行った上野動物園のことを懐かしみます。
 その後も、おねえちゃんの思い出が次々に語られていくので、なんだか読者はだんだん不安になります。
 ぼくがおねえちゃんのボーイフレンドの家の飼い犬にかまれたことで、彼とうまくいかなくなったおねえちゃん。
 両親の喧嘩に愛想を尽かして、おばあちゃんの家へプチ家出した時に、ぼくに三千円をくれたおねえちゃん。
 家出から家へもどるときに、三千円に恩着せてぼくを迎えに来させたおねえちゃん。
 ぼくと背比べをして負けてひがんでいたおねえちゃん。
 中央線の多摩川を渡る鉄橋の足を作るのに貢献したひいおじいちゃんの名前を、その石の台に彫ってくるようにぼくに命令するおねえちゃん。
 お風呂にバスクリンと間違えてお風呂掃除の液体を入れてしまったおねえちゃん。
 次々と、あまり脈絡なくおねえちゃんの思い出が語られています。
 読者の不安が的中するように、ラストでおねえちゃんは脳腫瘍にかかってあっけなく死んでしまいます。
 この作品も、作者の実体験に基づいているようで、あとがきにこのよう書いています。
「死児の齢をかぞえるのは親の役割ときまったわけではないだろう。
 おろかな弟だったぼくもまた生前の姉をなにかにつけて思い出す。
 (中略)
 町の写真館の奥には、セピアに変色した姉の一葉が今も掲示されていて、時たまガラス戸ごしにのぞき見るぼくに、いつもきまった視線を向ける。
 その目には、本道からはぐれがちな弟をあやぶむようなかげりがあるが、この物語を姉にささげることで、かげりが少しでも薄くなればいい。」
 しっかり者の姉と頼りない弟、愛する者の喪失、人のはかなさ、生の多愁といった森作品の重要なテーマが、ここでも繰り返し語られます。
 作者の実体験はおそらく1950年代のおわりごろと思われますが、出版された1985年ごろにアレンジされているために、風俗やセリフがやや時代的にちぐはぐな感じを受けます。
 これは、作品を売る時の商品性に配慮したために起こることなのですが、児童文学の世界では編集者などからこのような要求がよくなされます。
 そのため、どこの国の話か分からない無国籍童話(これも初心者のメルヘン作品には今でも多いです)ならぬ、時代がいつなのかはっきりしない無時代児童文学作品(?)がよく書かれます。
 この後、森忠明は完全に開き直って、時代設定を実体験に合わせて書くようになりますが、この作品は過渡期に書かれたようです。
 森作品に限らず、あやふやな時代設定で書くよりは、現代なら現代、作者の子供時代ならその時代と、はっきりさせて書いたほうが、特にリアリズムの作品では成功することが多いようです。

ぼくが弟だったとき (秋書房の創作童話)
クリエーター情報なし
秋書房

 

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今西祐行「はまひるがおの小さな海」そらのひつじかい所収

2024-06-05 08:59:37 | 作品論

 作者の児童文学の出発点として1956年に出版された、「そらのひつじかい」(日本児童文学者協会新人賞受賞)に収録されている作者の幼年童話の代表作の一つです。

 岬のとっぱなに、ひとりぼっちで咲くひるがおと、「ぼく」の会話でお話は始まります。
 ひるがおは、「ぼく」に「自分をつみとってくれ」と、頼みます。
 「ひるがおをつむと空がくもる」という、言い伝えがあるからです。
 嵐の夜に近くに打ち上げられ、小さな水たまり(小さな海)に取り残されて、ひるがおとすっかり仲良しになったおさかなが、太陽がつよくてにえそうになっているのを見かねて、自分を犠牲にして空を曇らせようとしたのです。
 「ぼく」は、ひるがおをつみとったりせずに、さかなをすくって海へ帰そうとします。
 でも、そうすると、ひるがおはまたひとりぼっちになってしまいます。
 「ぼく」は、浜で遊んでいた子どもたちに頼んで、ひるがおの「小さな海」に毎日海の水を入れてくれるよう頼むのでした。
 子どもたちは快諾したばかりか、えびやかにも入れて「小さな海」をにぎやかにしてくれることを約束してくれます。

 この作品も選ばれている「幼年文学名作選15」の解説で、児童文学作家で研究者でもある関英雄は、「はまひるがおと「小さな海」に息もたえだえになっている小魚の間にかよう心は、まさに今西童話の核となる「心の結びあい」の、もっとも簡明で美しい結晶です。浜であそぶ子どもたちがその「小さな海」を守るという結末、何回読み返しても心をうたれずにはいられません」と激賞しています。
 現代的にいえば、「魚を小さなところへ閉じ込めたまでは残酷だ。エビやカニも入れるなんてもってのほかだ」と、動物愛護の立場から非難されるかもしれません。
 「子どもたちはすぐに飽きてしまって、「小さな海」は干上がったに違いない」という人もいるかもしれません。
 しかし、この作品の優れた点はそういった表面的なところにあるのではありません。
 「ぼく」(少年かもしれませんし大人かもしれません)の中にある「童心」が、ひるがおや浜の子どもたちの「童心」と読者の中にある「童心」とを確かに結びあわせる、作者の童話的資質(モティーフ、視点、文体などすべてをひっくるめた作品全体。私の拙い要約では伝えることができまないのが残念です)そのものにあるのです。
 この作品が世の中に出たちょうど同じころ、「さよなら未明 -日本近代童話の本質ー」(その記事を参照してください)で、「「現代児童文学」はこうした「童話」と決別しよう」と呼びかけた児童文学者の古田足日は、数十年後のインタビュー「幼年文学の現在をめぐって」(その記事を参照してください)の中で、この作品について「魂の救済」「「童話的資質」は、子ども、人間の深層に通ずる何かを持っている」と述べて、童話伝統の持っている内容・発想の価値を、特に幼年文学の分野において認めています。
 補足しますと、作者は、早大童話会で古田足日の先輩にあたるのですが、1953年の「少年文学宣言」では彼らに批判される側の立場(坪田譲治の門下生)でした。
 当時から、古田足日は、童話的資質を持っている書き手の「童話」は評価していましたが、作者のこの作品などもその念頭にあったかもしれません。
 「童話的資質」と言ってしまうと、それから先は思考停止で分析が進まないのですが、たくさんの童話作家や童話作品に出会っていると、確かにそうとしか言えないものを感じます。

 長年、児童文学の同人誌に参加していると、初心者の人がいかにも「童話」らしい作品を提出してくることがよくあります。
 「こういうのが一番厳しいんだけどなあ」と、つい思ってしまいます。
 なぜなら、こうした作品は、修練しても身につかない本人の「童話的資質」が問われるからです。



はまひるがおの小さな海 (日本の幼年童話 15)
クリエーター情報なし
岩崎書店














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国松俊英「おかしな金曜日」

2024-06-04 10:33:35 | 作品論

 1978年に書かれた家庭崩壊を描いた作品です。
 それまで児童文学でタブーとされていた問題(性・自殺・家出・離婚など)に取り組んだ先駆的な作品のひとつです。
 主人公の小学五年生の洋一の家では、父親が一年前に家出したきり帰ってこないので母子家庭になっていました。
 その頼りの母親もある金曜日に男と姿を消してしまい、洋一は小学一年生の弟の健二と二人だけで団地の家に取り残されてしまいます。
 洋一は、周囲には母親がいなくなったことは隠して、健二と二人で何とか助け合って暮らそうとします。
 その後、同じクラスの山田メガネ(ガリ勉なので敬遠していましたが、勉強のことで家で締め付けられて洋一の家にプチ家出してから、洋一たちと仲良くなりました)、隣の席のみさ子(両親や兄弟に誕生日を祝ってもらえる恵まれた家の子ですが、うすうす洋一たちの事に気がつき同情しています)の二人には、本当の事を打ち明けます。
 とうとうお金がなくなった時に、洋一は周囲の無関心で頼りにならない大人たち(担任の教師も含まれます)には最後まで頼らずに、健二と二人で家を出て、山田メガネが調べてくれた隣町の児童相談所に向かいます。
 駅まで見送りに来てくれた山田メガネとみさ子との別れのシーンは、過度に感傷的にならず淡々と描かれていますが、これから洋一たちを待ち受けているであろう厳しい現実を考えると、「どうか二人に幸あれ」と祈らざるを得ません。
 国松も同じ気持ちなのでしょう。
 最後の一行はこう書かれています。
「電車が走っていく西の空に、雲が切れた青い空がすこしだけ見えた。」
 また、その後の二人の事が心配であろう読者たちに配慮して、事前に児童相談所に勤める野鳥好きの親切そうな大沢という人物(野鳥の会の会員でもある国松自身の分身でしょう。このあたりにはエーリヒ・ケストナーの影響が感じられます)を事前に二人に出会わせています。
 この本の文庫版の解説を書いている児童文学者の砂田弘によると、1980年現在、片親だけの家庭が約八十万戸あり、そのうちの三分の二以上が離婚家庭だったそうです。
 また、養護施設で生活している約三万人の子どもの場合も、親に死なれた子はわずかに十人に一人だけだったとのことです。
 当時でも珍しくなかったこういった家庭を失った子どもたちを描いた日本の児童文学としては、この作品が初めてだったのです。
 砂田はこの作品の第一の魅力を、「深刻な問題を描いているにもかかわらず、明るさとユーモアとスリルに富んでいること」と述べていますが、まったく同感です。
 暗くなりがちな問題を、洋一と健二のバイタリティと、山田メガネとみさ子のやさしさを軸に、終始子どもの立場にたって明るく描かれています。
 そこには、国松の子どもたちに対する確固たる信頼が感じられ、こういった子どもたち(国松自身や大沢さんのような大人たちも含めて)の人間関係が、70年代はまだあったのだなと気づかされます。
 それから三十年以上がたった2013年の日本児童文学者協会賞の村中李衣の「チャーシューの月」(その記事を参照してください)は、養護施設に暮らす子どもたちを描いています。
 そこには、洋一と同じような境遇(さらに過酷になっているかもしれません)の子どもたちが、今もたくさん(いやさらに増えているでしょう)暮らしています。
 このような問題に真正面から取り組んだ作品を、児童文学者としてこれからも生みだしていかねばならないことを痛感しています。

 

おかしな金曜日 (偕成社文庫 (2080))
クリエーター情報なし
偕成社
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K.M.ペイトン「卒業の夏」

2024-06-02 16:02:48 | 作品論

 1970年にイギリスで出版されて、1972年に日本で翻訳が出た児童文学作品です。
 1973年に大学に入学してすぐに、児童文学研究会の先輩に進められて読んで、衝撃を受けた作品でした。
 今で言えばヤングアダルト物の範疇に入るのですが、児童文学研究会で賢治やケストナーの作品の研究をしようと思っていた私には、「こういう作品も児童文学なのだ]と目を開かされた思いでした。
 主人公のペン(ペニントン)は一応中学生なのですが、一年落第しているので彼の16歳(夏には17歳になります)の春休みと彼にとっては最終学期になる夏学期(イギリスでは6月までのようです)が描かれています。
 そのころの不良の象徴である長髪(日本でもそうでした)を肩まで伸ばして、酒やタバコは日常的にやり、古い漁船を操縦したり、父親の600CCのバイクでふっとばしたりするかなり豪快な不良ですが、根は友達思いで(親友のベイツは、ペンとは対象的に内気な引っ込み思案なタイプです)心優しいところもあります。
 曲がったことが嫌いなために生き方が下手なので、いつも高圧的で禁止されている体罰(むち打ちです)も平気でする担任教師や警察に睨まれています。
 私の持っている日本の本の表紙に描かれているペンは、長身やせギスで、いかにも日本の不良って感じですが、実際には体重が90キロ以上ある筋肉の塊のような体をしていて、スポーツ万能(中学のサッカーチームのキャプテンで、地区の水泳大会では400メートル自由形で優勝します)です(その点では、アメリカで出版された本の表紙(福武文庫版ではこちらが使われています)や挿絵では、忠実にマッチョなタイプに描かれています)。
 そして、ここが作品のミソなのですが、こんな野獣タイプのくせに、ピアノは天才的な腕前なのです(本人は自分の才能に無自覚ですが)。
 教師たちや警察や他の不良たちとのいざこざとともに、ベイツ(ふだんはダメですが、酒に酔うと天才的な歌手に変身します)との音楽活動やそれを通して出会った素敵な女の子(実際に付き合ってみるとそうでもないのですが)への憧れなども、しっかりと書き込まれています。
 ラストでは、ピアノコンクールで優勝して、音楽学校の教師に認められて進路が決まったおかげで、ほぼ確定的だった少年院行きを免れます(このあたりは、訳者があとがきで書いているようにデウス・エクス・マキナ的ですが)。
 なお、この本のオリジナルのタイトルは、PENNINGTON’S SEVENTEENTH SUMMERですが、私が持っているアメリカ版のタイトルは、PENNINGTON’S LAST TERMで、同じ本なのにややこしいです (アメリカや日本のタイトルの方が内容的にはあっていますが)。
 作者のペイトンは、フランバーズ屋敷シリーズでカーネギー賞やガーディアン賞を取ったばかりで、そのころのイギリスの児童文学界では最も注目を集めていた作家でした。
 この本にも、残念ながら翻訳されていませんが、続編が二冊あります。


 

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青木茂「三太花荻先生の野球」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2024-06-01 11:17:17 | 作品論

  戦後すぐに書かれ、一躍人気を博した「三太物語」の中の一作です。
 今で言うところのエンターテインメント作品のはしりのような連作短編で、ラジオ番組、映画、更にはテレビ番組にもなりました。
  私はかすかにしか記憶がないのですが、テレビ番組では、当時子役だった渡辺篤史が三太役をやり、相手役の女の子はジュディ・オングでした。
 毎回、冒頭に「おらあ、三太だ」というセリフが入るので、子どもの頃はそれがタイトルだと思っていました。
 三太物語は、村のわんぱく小僧(当時は元気のいい男の子をこう呼びました)三太とその友達の日常を生き生きと描いて、子ども読者には親近感を持たれました。
 三太の考え方や描き方にやや大人目線なのが感じられますが、言ってみれば、「とらちゃんの日記」(その記事を参照してください)の戦後版と言えなくもありません。
 戦後の民主主義の時代を象徴するように、「とらちゃんの日記」が男の子たちだけの世界だったのに対して、女の子たちも活躍します。
 この短編では、三太物語のもう一方の主役である若い女の先生、花荻先生が初めて登場します。
 若いきれいな女の先生の登場で、この作品のエンターテインメント性はぐっと上がりましたし、物怖じしないその溌剌とした姿は、戦後の新しい女性像を反映するものでした。
 壷井栄「二十四の瞳」の大石先生が戦前の若い女性の先生のシンボルだとしたら、花荻先生は戦後の若い女性の先生の代表でしょう。
 当時、花荻先生に憧れて、小学校の教師を目指す女の子が増えたと言われたのも、素直に納得できます。
 また、三太の語りや三太と花荻先生の関係は、後藤竜二の「天使で大地はいっぱいだ」のサブの語りやサブとキリコ先生の関係にも影響を与えたと思われます。
 この作品の舞台になったのは、神奈川県津久井郡津久井町(当時はまだ村だったようです。現在は相模原市緑区の一部になっています)で、現在も道志川沿いにこの物語にちなんで名前を付けたと思われる三太旅館があります。
 話は脱線しますが、現在私が住んでいるところとは隣町なので、二十年以上前になりますが、息子たちの入っていた少年野球チームで、バーベキューと水遊びをしに、その付近へ行ったことがあります。
 当時はまだ、道志川の大きな淵があったり、そこへ飛び込める高さ4、5メートルの岩があったりして、三太たちが遊んでいたころの名残りがありました。

 




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J.D.サリンジャー「笑い男」九つの物語所収

2024-05-13 09:08:02 | 作品論

 主人公の少年にとっては、おそらく子ども時代におけるもっともショッキングな一日だったことでしょう。
 なぜなら、敬愛するコマンチ・クラブの団長と、美人で魅力的なガールフレンドとの関係が破局を迎え、同時に数か月にわたってコマンチ・クラブのメンバーに団長が語ってくれていた、オリジナルの連続冒険活劇の主人公、世界一の盗賊「笑い男」が死んで、お話が突然終わってしまったからです。
 この短編の中に、サリンジャーは自分が好きな(そして、私も含めてほとんどすべての男の子も好きな)ものをギュッと一つにまとめています。
 まず、コマンチ・クラブです。
 団長(ニューヨーク大学で法律を勉強している22歳か23歳ぐらいの学生)が、アルバイトとして親たちから報酬をもらって、放課後や週末に、二十五人の男の子たちを改造したオンボロバスに乗せて、セントラルパークなどの公園に連れて行いって、野球やアメリカン・フットボールをやらせたり、デイキャンプをしたりしてくれます。
 もちろん、雨の日には、自然博物館やメトロポリタン美術館(カニグズバーグがクローディアの家出先に選んだことで、児童文学の世界では非常に有名な場所です)へ連れて行ってくれます。
 この子どもたちの遊び相手という設定は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の主人公のホールデン・コールフィールドの「僕がほんとうになりたいもの」とピタリと重なります。
 そして、それは、私自身の「僕がほんとうになりたいもの」でもあります。
 三十年以上も前に、今は亡き児童文学作家の廣越たかしの家で行われた同人誌の忘年会(私が今までに参加した忘年会で一番楽しいものでした)で、「本当になりたいもの」を問われて、「遊びだけの塾の先生」と答えたことが今でも記憶に残っています。
 次に、団長です。
 アメリカン・フットボールではオールアメリカンの最優秀タックル(と、コマンチ団のメンバーは固く信じています)で、野球ではニューヨーク・ジャイアンツから誘われている(と、コマンチ団のメンバーは固く信じています)スポーツマンで、スポーツの試合の公正で冷静な審判で、キャンプファイヤーの火付けと火消しの名人で、彼らから見るとすごくかっこいい(実際は、がっしりしているけれど背が低くて、ルックスもイマイチのようです)「男の中の男」(サリンジャーはこうした男たちが大好きで、「ソフト・ボイルド派の曹長」(その記事を参照してください)も同タイプです。サリンジャー自身はハンサムで背が高く、ホールデン・コールフィールドと同様に女の子たちにもてたみたいなので、見かけだけに魅かれて言い寄ってくる内容のない女の子たちにうんざりしていたのかもしれません)。
 そして、団長のガールフレンドです。
 少なくとも、主人公がその後大人になるまでの間に出会った中ではベスト3に入る美人(団長の時に書いたことと矛盾していますね)で、コマンチ団と一緒に野球をした時に驚異的な長打率を記録して彼ら全員を魅了し、外見はパッとしない団長の魅力もちゃんと理解している女性です(それでも、二人が破局を迎えたのは、おそらく団長の極端に内気でおとなしい性格が災いしたのでしょう)。
 最後に、「劇中劇」ならぬ「物語中の物語」である「笑い男」には、当時の男の子たち(実際は今の男の子たちも同様です)を魅了するあらゆる要素(子どもの時に誘拐されてその顔を見ると死をまねくほど醜く改造されてしまった主人公、彼をさらったシナ人の匪賊(時代が時代だけに差別的表現をお許しください)、宿敵のフランス人の刑事とその娘の男装の麗人(当時の連続活劇映画では、洋の東西を問わずに欠かせないキャラクターです)、忠実な部下たち(斑ら狼、小人、モンゴル人の大男、目が覚めるようなヨーロッパ人とアジア人の混血娘)(これらの表現も現代から見れば、白人中心主義的で差別的ですがお許しください)、そして、残酷で美しいどんでん返しの数々)が含まれています。
 これらのすべてが一日で失われてしまったのですから、主人公が「歯の根も合わぬほど震えながらうちへ帰り、まっすぐ寝床にはいるようにと言われた」のも、まったく無理のないことなのです。

 

 

 

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森忠明「きみはサヨナラ族か」

2024-05-09 10:38:50 | 作品論

受験競争に明け暮れる学校に嫌気がさした主人公は、仮病を使って立川病院に入院し長期に学校を休むことになります。
病院で知り合った友だちの死や別れ、さらには長期欠席のための留年によるクラスの人たちとの別れなどを通して、「人生なんてサヨナラだけだ」と自覚しつつも、絵を描くことに自分のアイデンティティを見つけようと、主人公は決意します。
このあたりの芸術至上主義的な考え方は、森が師事していた寺山修司の影響がかなり感じられます。
あとがきでは、15年前(初版が1975年12月なので1960年ごろ)の自分の事を描いたと書かれていますが、この作品では出版されたころの年代にアレンジされているように感じられました。
それが、出版当時の高い評価と、多くの読者をつかむことに成功した一因になっているのではないでしょうか。
 他の森作品と同様に、異常ともいえるほどの子ども時代の鮮明な記憶(子どものころの記憶を持っているということは児童文学作家にとっては重要な資質で、特にエーリヒ・ケストナーの「わたしが子どもだったころ」や神沢利子の「いないいないばあや」(その記事を参照してください)が有名ですが、森はそれに匹敵するほどです)によって、ディテールがくっきりと描かれているのが、この作品でも大きな魅力になっています。
 ただ、現代の目で眺めてみると、小熊英二が「1968」(その記事を参照してください)で指摘していた、団塊の世代(森はその中心の年である1948年生まれ)の直面した「現代的不幸」を作品化した典型を見る思いがしました。
 彼らは、義務教育のころは戦後民主主義教育を受け、その後激烈な受験戦争に巻き込まれ、大学の大衆化に直面し、アイデンティティの喪失、生きていくリアリティの希薄化などの「現代的不幸」に直面した最初の世代でした。
 ここで「現代的不幸」とは、戦争、貧困、飢餓などの「近代的不幸」との対比で使われている用語です。
 彼ら団塊の世代の大半は、十代後半になってこの問題を自覚するようになって、全共闘世代となって学生運動に突入していきました。
 しかし、異常なまでに早熟だった森は、小学生時代にこの問題に直面していたのでしょう。
 また、この本が出版された1970年代には、小中学生でも森と同じ問題に直面するようになっていたので、少なからぬ読者に受け入れられたものと思われます(今回読んだ本は1983年11月で12刷です)。
 一方で、ネグレクト、世代間格差、少子化、虐待、貧困などのさらに新しい問題に直面している現代の子どもたちとは、すでに大きなギャップが生まれているのではないでしょうか。

追記
 作品論からは離れますが、森忠明とは一度だけ会って直接話を聞いたことがあります。
 彼の「へびいちごをめしあがれ」が出た後で、彼が「蘭」のおかあさんと共に立川を去る前ですから、おそらく1987年だったと思います。
 児童文学の同人誌の仲間たちと、「注目の書き手に会いに行こう」シリーズの第一弾として、立川まで彼に会いに行きました(実際にはこのシリーズは、第二弾として村中李衣に高田馬場で会っただけで打ち切りになってしまいましたが)。
 このシリーズの第一弾に森忠明を選んだのは、同人の一人に森の熱狂的なファンがいたためで、彼女は後に森の「グリーンアイズ」の編集を担当しました。
 待ち合わせをした喫茶店から、その後行った寿司屋(おごってもらったのがみんな一律に並寿司の盛り合わせだったのが、いかにも彼の世界っぽくていい思い出になっています)、名残惜しそうにわざわざ送ってくれた立川駅の改札口まで、間が空くのを恐れるように一人でしゃべり続けていたシャイな彼の姿が今でもはっきりと思い出されます。
 今振り返ってみると、「注目の書き手に会いに行こう」シリーズは大成功で、私は今まで会った中で、一番感受性の豊かな男性(森忠明)と一番聡明な女性(村中李衣)に出会えたことになりました。

きみはサヨナラ族か (現代・創作児童文学)
クリエーター情報なし
金の星社








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ジェームス・サーバー「たくさんのお月さま」

2024-04-16 15:50:16 | 作品論

 ヨーロッパのどこかと思われる小さな王国の、10歳のおひめさまのお話です。
 ある時、おひめさまは木いちごのパイを食べ過ぎて(この作品が書かれたのは70年以上も前ですから、かなりおしゃれですね)病気になってしまいます。
 おひめさまに甘い王さまが何でも欲しい物をあげようとお姫様に尋ねると、「お月さまがほしい」と難題を出されます。
 王さまは、賢いと思われている家来の侍従長と魔法つかいと数学者に、お月さまを取ってくるように命じますが、彼らは、いかにも賢そうに過去の実績を並べるだけで、ちっとも役に立ちません。
 困った王さまのために、道化師が直接おひめさまに「お月さまとは何か」を尋ねると、おひめさまは子どもらしい発想の「お月さま」(金でできたおひめさまの親指のつめより小さい丸い物)を教えてくれたので、金細工師に作らせて金の鎖をつけると、おひめさまは大喜びで「お月さま」を首にかけて病気もたちまち治ってしまいます。
 しかし、新たな問題が発生します。
 その夜も、お月さまが空に出てきたからです(当たり前ですけど)。
 自分が手に入れたお月さまが偽物だと気づいて、また病気になってしまうのではと心配した王さまは、今度も侍従長と魔法つかいと数学者に相談しますが、彼らからは一見賢そうで常識的な、実は陳腐なアイデアしかでてきません。
 困った王さまのために、道化師がまたおひめさまへ直接、「どうしてまた別の月が出てきたのか」を尋ねに行きます。
 その時のおひめさまの答えは?
 ここが作品の一番の魅力ですし、短いお話ですので、そこから先は図書館で本を借りて原文でお楽しみください(ヒントは本のタイトルです)。
 私の持っている本は、今江祥智の洒脱な文章と宇野安喜良のヨーロッパの雰囲気をたたえたイラストがたくさんついた小さな絵本です。
 この作品ほど、「子どもの論理」の「大人の常識」に対する勝利を鮮やかに描いた作品を、私は他に知りません。
 そして、常に「子どもの側」にたって、「子どもの論理」に基づいて創作するのが、真の児童文学者だと、今でも固く信じています。


たくさんのお月さま (1976年)
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サンリオ出版




 

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アラン・シリトー「長距離ランナーの孤独」集英社版世界の文学19所収

2024-04-12 14:35:42 | 作品論

 1959年に発表された、作者の初めての短編集の表題作です。
 前年に出版された処女作「土曜の夜と日曜の朝」(映画[サタデー・ナイト・フィーバー」(その記事を参照してください)の題名には、この作品の影響が見られます)と共に、作者の名前を一躍世界中に広めました。
 作者の登場は、イギリスにおける真の労働者階級の作家の登場であるとともに、当時社会問題化していた若者(特に労働者階級)の気持ちをストレートに代弁していたからです。
 日本とは比べ物にならないぐらい(現在では日本も格差社会になりましたが)階層社会で、出自によりその人の人生が決まってしまうことの多いイギリスにおいて、労働者階級(特にその中でも下層に位置する)の若者のやり場のない閉塞感と社会への反抗を、鮮やかな形で描いています。
 主人公の17歳の少年は、窃盗の罪で感化院(現在の少年院のようなもの)に入れられていますが、院長に長距離ランナーの資質を見出されて、感化院対抗の陸上競技大会のクロスカントリーの選手に選ばれて、特別に院外の原野での早朝練習をさせられています。
 作品の大半の部分は、その練習中における彼の頭の中での独白(生い立ち、社会の底辺にいる家族、社会への反発、非行、彼が犯した犯罪など)で構成されていますが、それと並行して、走っている原野の風景や走ることの喜びも描かれ、読者は次第に彼の閉塞感と孤独を共有するようになります。
 原野が彼を取り巻く社会、感化院が彼を縛る窮屈な社会の規範、院長たちが彼を搾取している上流階級、そして、クロスカントリーが彼の人生そのものの、比喩であることは、同じ環境にない読者にも容易に読みとることができます。
 大会のクロスカントリーでは、圧倒的にリードしていた主人公が、自分の意思でゴール前で歩みを止めて敗れます。
 これは、院長(社会の支配者層の代表)の期待通りのレースでの勝利は、断固として拒否する彼の意思のあらわれだったのです。
 そのために、残された六ヶ月の感化院での生活が、優勝した場合に院長が約束していた楽な楽しい生活ではなく、懲罰的な重労働を課せられた厳しいものであったとしても、彼は自分の意思に忠実だったのです。
 事実、過酷な生活のために彼は体調を崩してしまいますが、そのおかげで彼が感化院と同じだと考えていた徴兵を逃れられたおまけ付です。
 この作品を初めて読んだのは高校生の時で、主人公と違ってまったく恵まれた安逸な環境にいましたが、主人公の大人社会への反発には激しく共感したことを覚えています。
 また、この作品の、若者の話し言葉による一人称で書かれた文体もすごく新鮮でした。
 その時は、まだサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)を読んでいませんでしたが、実際にはこの作品の文体があの世界的ベストセラーの影響を受けていただろうことは想像に難くないです。
 ただし、こちらの作品の文体の方が、卑俗的で野趣に富んでいて(訳者によると、ノッティンガム地方の方言だそうです)、アナーキックな怒りを表すには適しています。
 それにしても、この作品の題名、「長距離ランナーの孤独」は秀逸で、人生に対する比喩であるばかりでなく、実際の長距離ランナーに対するイメージすら確定しまった感があります。
 特に、日本では、東京オリンピックのマラソンで金メダルを取ったエチオピアのアベべ選手の哲学者のような走りと風貌、同じレースで銅メダルを取り、その後次のオリンピックでの国民の期待という重圧に押しつぶされて自殺してしまった、円谷幸吉選手の孤独と無念のために、より深くそのイメージが刻み込まれています。


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大石真「チョコレート戦争」

2024-04-09 10:14:08 | 作品論

 菓子店のショーウィンドウを壊したとの濡れ衣を着せられた子どもたちが、そこに飾られていたチョコレートのお城を盗み出すことを計画します。
 この計画は、事前に店の経営者の知ることとなり、子どもたちのチョコレートのお城強奪は、かえって店の宣伝に利用されてしまいました。
 しかし、この店のあくどいやり方が市内の全小学校の学校新聞で報道されることにより、全市的な不買運動がおこり、最後は店の経営者が子どもたちに謝罪して、子どもたち側の大勝利に終わります。
 1965年初版以来、現在まで60年近くにわたって百数十刷を重ねている「現代日本児童文学」の「古典」の一つです。
 しかし、これを「現代児童文学」の代表作と見るのには、異論もあるだろうと思います。
 大石は、「幸い、それらの作品のいくつかが(注:日本児童文学者協会新人賞を受賞した1953年の「風信器」などを指します)大人の読者の好評を得て、ぼくも童話作家の仲間にくわえられましたけれど、ぼくの心の中に、かすかな疑問がないわけではなかった。(中略)ぼくは童話というものは、子どもにおもしろくなくては駄目であると考えるようになった。子どもにおもしろく、しかも、大人が読んでも、おもしろくなくては駄目であると思った。(「日本児童文学」1969年11月号)」と、「チョコレート戦争」の成功をふまえて発言しています。
 確かに、この作品では、多くの子どもの読者を獲得しました。
 偕成社の名編集者であった相原法則は、大石について以下のように述べています。
「少年ジャンプのモットーとするところの内容を、友情・努力・勝利の三つだといいます。(中略)知ってか知らずか、大石さんの作品は、まさにこの三つを取り入れています。(日本児童文学者協会編「児童文学の魅力 いま読む100冊日本編」所収)」
 大石がエンターテインメントも書ける作家として、それまで続けていた小峰書店での編集者の仕事を1966年に辞めて作家生活に専念できたのも、この作品の成功による自信からだと思われます。
 しかし、大石の言葉の後半の「大人が読んでも、おもしろくなくては駄目である」ということがこの作品で成功したかどうかについては、かなり疑問が残ります。
 例えば、水沢周は、この作品のプロット、キャラクター、さらにはディテールな点までについて、リアリティのなさを指摘して酷評しています(「現代日本児童文学作品論 日本児童文学別冊」所収)。
 「チョコレート戦争」のようなエンターテインメント作品を、純文学の切り口で評する水沢の論じ方はフェアじゃないと思いましたが、一方で大人の読者が読んで物足らないという面は、かなり当たっていると思われます。
 では、「現代日本児童文学」として、この作品がどうなのかを少し分析してみたいと思います。
 その前に、大石が自分の書いている物を「児童文学」ではなく、「童話」と称している理由にふれておきます。
 大石は、その当時の童話界のメッカだった早大童話会で、「現代日本児童文学」の理論的な出発点の一つといわれる「少年文学宣言(正しくは少年文学の旗の下に)」(その記事を参照してください)を出した鳥越信、古田足日、神宮輝夫、山中恒たちよりも数年先輩にあたる世代に属しています。
 その後、大石は「少年文学宣言」派とは袂をわかって、早大童話会の顧問で「少年文学宣言」派に(それだけではなく石井桃子たちの「子どもと文学」派からも)批判された近代童話の大御所たちの一人である坪田譲治が主宰した「びわの実学校」に同人として参加しています。
 そのために、自分の作品を「児童文学」ではなく、「童話」と称しているのです。
 それでは、「現代児童文学」の代表的な特徴(これも各派によって様々な意見があるのですが)に照らし合わせて、この作品を眺めてみましょう。
「散文性の獲得」
 「現代児童文学」では、近代童話の詩的性格を克服して、小説精神を持った散文で書かれることを目指しました。
 この点では、「チョコレート戦争」は申し分ないでしょう。
 大石の優れた特長の一つである平明で子どもにもわかりやすい文章で、作品は書かれています。
 この読みやすさが、多くの読者を獲得した大きな成功要因です。
「おもしろく、はっきりわかりやすく」
 特に「子どもと文学」派は、この点を世界基準と称して「現代児童文学」に求めました。
 「チョコレート戦争」は、このポイントもクリアしています。
 やや単純すぎるとも思われるキャラクター設定やプロット、適度に読者をハラハラさせるストーリー展開は、おもしろくてわかりやすく、確実に子どもの読者をつかみました。
「子どもへの関心」
 「現代児童文学」では、大人の道徳や常識に縛られない生き生きとした子ども像を創造する事を目指しました。
 この作品では、宣伝に利用しようとする菓子店の経営者の「大人の論理」を、全市内の子どもたちの団結による「子どもの論理」が打ち破ったかに見えます。
 そこに読者の子どもたちは、大きな達成感を感じるのでしょう。
 しかし、実は一見「子どもの論理」に見える「学校新聞」での批判は、実は大石自身の「ジャーナリズムに対する過信」という「大人の論理」が透けて見えてなりません。
「変革への意思」
 新しいもの(児童文学では主に子どもに代表される)が古きもの(大人に代表される既成の権威)を打ち破って、社会変革につながる児童文学を目指しました。
 この作品ではここが一番弱いし、大石自身がこの作品を「児童文学」ではなく「童話」と称した点でもあると思います。
 菓子店の経営者がおわびに子どもたちの学校へ毎月ケーキを届けるようになるエンディングは、大人(権威、あるいは体制側)が子ども(変革者)をたんに懐柔しているだけで、少しも社会を変革しようとしていない現状肯定的な姿に見えてなりません。
 大石は、その後、「教室205号」などの社会的な問題を取り扱った作品も発表しています。
 彼は、「童話」と「現代児童文学」の狭間で苦闘しながら、1990年に亡くなるまでの作家生活をおくったように思われます。
 前出した相原の言葉を借りると、「いい本には二種類しかない。褒められる本(相原の定義では賞を取ること)と売れる本だ。しかし、たいがいの作家は、一つの作品で両方を狙うから失敗する」
 そういう意味では、大石は、その両方のいい本を世の中に残したことになりました。
 日本児童文学者協会新人賞を取った「風信器」などが前者で、「チョコレート戦争」はもちろん後者です。
 最後に、「現代日本児童文学作家案内 日本児童文学別冊」に掲載された大石自身の言葉を紹介しましょう。
「児童文学とは何か――この問いかけが、たえず波のように私の胸におそいかかってっくる。この十年間(現代日本児童文学作家案内は1975年9月20日発行)に発表された私の作品は、すべてその問いかけへの答えだといってよい。あるときの私は児童文学を青春文学の一変種として捉え、あるときの私は暗い人生の反措定として児童文学を捉えた。だがそれでよいのだろうか。これからもたえず疑問が生まれ、その解答のかたちで私の児童文学は創り出されていくことだろう。」
 こういった「現代児童文学」とエンターテインメントの狭間における煩悶は、かつては私も含めて多くの児童文学作家に共有されていたと思いますが、現在では「売れる本」という価値観がすべてで、そのような葛藤をしている書き手は見当たりません。

チョコレート戦争 (新・名作の愛蔵版)
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マージェリー・シャープ「ミス・ビアンカ シリーズ1 くらやみ城の冒険」

2024-03-21 18:11:10 | 作品論

 この物語の世界には、「囚人友の会」という世界的なネズミたちの組織があります。
 この会のネズミたちは、囚人たちの心をなごませるために刑務所などにいき、「自尊心の高いねずみなら考えもしないような、ばかげた悪ふざけのお相手をつとめ」ることに精を出してくれています。
 さて、今回その「囚人友の会」の総会で議題に出されたのは、くらやみ城と呼ばれる監獄のことです。
 流れのはげしい川の崖っぷちに建てられ、崖のなかを掘りぬいたところに地下牢を置いているその監獄は、たとえ「囚人友の会」のネズミをもってしても、囚人のところにたどり着くことさえ困難な難攻不落の場所として有名です。
 よりによって、そこに囚われている詩人を救い出すという救出作戦が決行されることになります。
 詩人はノルウェー人であり、救出作戦のためには、通訳としてノルウェー出身のネズミが必要です。
 ネズミたちは、世界共通のネズミ語とその国の人間の言葉が使えることになっています。
 そして、そのノルウェーのネズミに「囚人友の会」の救出作戦を伝える者として名前があがったのが、ミス・ビアンカでした。
 ミス・ビアンカは大使の坊やに飼われている貴婦人のネズミで、坊やの勉強部屋の瀬戸物の塔で暮らしています。
 その大使一家が近々転勤でノルウェーに発つという情報が、「囚人友の会」にも伝わってきていました。
 つまり、ノルウェーまでもっとも早く救出計画を伝えられるのが、ミス・ビアンカだったのです。
 この本の面白さの第一にあるのは、ミス・ビアンカをはじめとするネズミたちのキャラクターが際立っている点があげられます。
 中でもミス・ビアンカは、なんといっても貴婦人ネズミです。
 渡辺茂男の訳による彼女のセリフ回しは、まるで「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンか、「エースをねらえ!」のお蝶夫人のようです(声優が同じなので、この二人のセリフ回しが一緒なのは当たり前ですが)。
 教養は高いけれど、気どり屋で、おいしい食べ物を与えられることがあたり前の生活をしてきた彼女は、ネズミたちにとっては天敵であるはずのネコに対して何の怖れもいだいていないという、まったく浮世離れしたところがあります。
 そんな世間知らずのミス・ビアンカが成りゆきとはいえ、ノルウェーまで赴いて救出計画に適任なネズミを探してくるだけでなく、自らも救出作戦にくわわって、くらやみ城までついていってしまうことになるのですから、まったく思いがけない展開です。
 ミス・ビアンカのお供をすることになる二匹のネズミたちにも、大使館の料理部屋に住むバーナードには沈着冷静な実務家、ノルウェーからミス・ビアンカに連れてこられたニルスには勇敢な船乗りといった際立った個性が与えられています。
 はたして監獄から詩人を脱出させるでしょうか?
 人間がやっても困難だと思われる難しい救出計画を、いかにしてクリアしていくのかがこの作品の醍醐味のひとつです。
 しかし、何より感心させられるのは、物語の中心人物がネズミであるという視点を常に意識していながらも、物語の進行においてミス・ビアンカ、バーナード、ニルスのそれぞれにもつ性格や特技を最大限にいかせるような工夫がなされている、という点です。
 たとえば、彼らはネズミであるがゆえに、その小柄な体格を生かして人目につくことなく移動し、人間を観察したり、移動手段である馬車のなかに潜り込んだりします。
 そうしたキャラクターの独自性という意味でもっとも顕著なのが、他ならぬミス・ビアンカです。
 バーナードの冷静さやニルスの勇気もたしかにこの冒険で必要ですが、それだけではどうにもできない窮地を切り抜けていくのに、ミス・ビアンカの女性としての魅力や機知がなにより有効に発揮されています。
 また、バーナードのミス・ビアンカへの恋心(ミス・ビアンカも騎士道精神あふれるバーナードに好意を持っています)や、バーナードとニルスのお互いを認め合った上での男同士の友情が、この作品に彩りを添えています。
 無事に囚人を救い出した後で、ニルスはノルウェーへ、そしてミス・ビアンカも大好きなバーナードと別れて、大使の赴任先のノルウェーの大使館へ戻ります。
 この作品は、1957年に発表されると、たちまち世界中でヒットした動物ファンタジーの代表作です。
 ケネス・グレアムの「楽しい川辺」やA・A・ミルンの「くまのプーさん」といった、イギリス伝統の動物ファンタジーの正統な後継者として高く評価されています。
 原作の題名はレスキュアーズ(救出者)で、日本では1967年に渡辺茂男の翻訳で「小さい勇士のものがたり」という題名で出版されました。
 私事で恐縮ですが、大学の児童文学研究会に入ったときに、最初に出席した読書会の作品が「小さい勇士のものがたり」でしたので、私にとっては思い出深い作品です。
 ちょうどそのころ(1973年ごろ)は、仲間内で三大動物ファンタジーシリーズと呼んでいた「ミス・ビアンカ」、「くまのパディントン」(その記事を参照してください)、「ぞうのババール」の翻訳が出そろったころなので、動物ファンタジーは一種のブームだったのかもしれません。
 それに、今までの動物ファンタジーの概念をくつがえす野ウサギの生態を徹底的に生かしたリチャード・アダムスの「ウォーターシップダウンのうさぎたち」も、1972年に出版されて邦訳は1975年に出ました。
 私も含めて児童文学研究会のメンバーはこの本に夢中になり、「フ・インレ」とか、「ニ・フリス」とか、「シルフレイ」といったうさぎ語を使って会話したものでした(「ウォーターシップダウンのうさぎたち」を読んでいないない人にはぜんぜんわからないでしょうが、つい書きたくなってしまいました)。
 また、日本でも斎藤敦夫の「グリックの冒険」が1970年に、「冒険者たち」が1972年に出ています。
 動物ファンタジーには、完全に擬人化されていて登場動物がイギリス紳士そのものになっている「楽しい川辺」から、生態的にはあまり擬人化していない「ウォーターシップダウンのうさぎたち」のような作品まで、さまざまな擬人化レベルがあります。
 「ミス・ビアンカ」シリーズは、その中庸に位置する擬人化度で、子どもが読むお話としてはよくバランスが取れています。
 斎藤敦夫の「冒険者たち」がトールキンの「ホビットの冒険」の影響を受けていることは有名ですが、動物ファンタジーの擬人化度の点では、この「ミス・ビアンカ」シリーズに影響を受けているように思えます。
 さて、マージェリー・シャープの「レスキュアーズ」シリーズは全部で9作品がありますが、日本では1967年から1973年にかけて4作が出版され、1987年から1988年にかけて「ミス・ビアンカ」シリーズとして7作が出版されています。
 訳者は渡辺茂男、出版社は岩波書店とまったく同じなのに、なぜか後のシリーズで邦名が変わっていて読者はこんがらがります。
 以下に、原作と翻訳の題名と出版年度を整理しておきます。
1.The Rescuers (1959)「小さい勇士のものがたり」(1967)「くらやみ城の冒険」(1987)
2.Miss Bianca (1962)「ミス・ビアンカの冒険」(1968)「ダイヤの館の冒険」(1987)
3.The Turrent (1963)「古塔のミス・ビアンカ」(1972)「ひみつの塔の冒険」(1987)
4.Miss Bianca in the Salt Mines (1966)「地底のミス・ビアンカ」(1973)「地下の湖の冒険」(1987)
5.Miss Bianca in the Orient (1970)「オリエントの冒険」(1987)
6.Miss Bianca in the Antarctic (1971)「南極の冒険」(1988)
7.Miss Bianca and the Bridesmaid (1972)「さいごの冒険」(1988)
8.Bernard the Brave (1977)
9.Bernard into Battle (1978)
 この本の大きな魅力のひとつに、ガース・ウィリアムズの挿絵があげられます。
 当時、結婚プレゼントの定番だった絵本「しろいうさぎとくろいうさぎ」(その記事を参照してください)の作者でもある彼の絵を抜きにしては、ミス・ビアンカ・シリーズの魅力は語れません。
 彼の手によるミス・ビアンカやバーナードやニルスは、最高に魅力的です。
 特に、ミス・ビアンカのかわいらしさには、当時熱狂的な男性ファンがついていたほどです。
 この挿絵は、「くまのプーさん」や「楽しい川辺」のシェパード、ケストナーの作品群のトリヤーの挿絵のように、作品世界とは切り離せなくなっています。
 残念ながら、シリーズの途中でガース・ウィリアムズが亡くなったので、5作目以降は別の人の挿絵になっています。
 そうとは知らずに、まだ翻訳が出る前に5作目以降の原書を苦労して(今のようにアマゾンで安く簡単に洋書が手に入る時代ではありませんでした)手に入れた時に、絵が違っていて非常にショックを受けました。
 なお、1977年にThe Rescuersのストーリーを中心にして、ミス・ビアンカ・シリーズはディズニーのアニメになっているので、今ペーパーバックを入手するとアニメの絵が表紙になっていてさらに大きなショックを受けます(これは「くまのプーさん」も同様です)。
 この作品は、良くも悪くも古き良き時代の英国ファンタジーの王道を行く作品です。
 ジェンダーフリーの現代では、ミス・ビアンカやバーナードのキャラクターは古臭く感じられるかもしれませんが、六十年以上も前に書かれた一種の古典として読み継がれるべき作品だと思います。


くらやみ城の冒険 (ミス・ビアンカシリーズ (1))
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ヨーン・スウェンソン「ノンニとマンニのふしぎな冒険」

2024-03-07 14:18:30 | 作品論

 1914年にアイスランドで書かれた「ノンニとマンニ」を、在アイスランド臨時代理大使だった人が翻訳して、2008年にノンニ(ヨーン・スウェンソンのニックネームでもあります)訪日70周年記念として出版された絵本です。
 私がこの本を読もうと思ったのは、幼いころの愛読書であった講談社版少年少女世界文学全集に収録されていた「ノンニの冒険」(実際は1927年に書かれた「島での冒険」の抄訳だったようです)の完訳版を読もうと思ったからです。
 残念ながらその本の完訳は日本では出版されていなかったようですが、代わりにこの新しい本にたどり着きました。
 この本自体は絵本なので短い物語(ノンニと弟のマンニが、ボートで海へ釣りに行き、釣りに夢中になっているうちに引き潮で沖に流され、通りかかったフランスの軍艦に救助されるというお話です)ですし、作者が神父から作家に転向して間もなくだったのでまだ宗教的な要素が強く、幼いころに読んだ波乱万丈の「ノンニの冒険」を期待していた自分にとっては、やや物足りない物でした。
 しかし、アイスランドで2007年に出た新しい本の挿絵が、そのままふんだんに使われた美しい絵本に仕上がっています。
 また、この本を通して、私の幼いころの友だち(?)の一人であるノンニ(ここでは登場人物の方)が故郷のアイスランドでは今でも読まれ続けていることや、ノンニ(ここでは作者の方)が1937年に来日して一年も滞在し、日本中を講演(主にキリスト教系の学校で)して回っていたことや、ノンニ(ここでは両方)のおかげでアイスランドの人たちが非常に親日的であることなどを初めて知り、とても嬉しく思いました。

ノンニとマンニのふしぎな冒険
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出帆新社
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