保健体育の授業で「人間は欲求に従って行動する」というふうに教えられてきました。まあ、言われてみれば確かにそうです。ネコなどの動物も、やっぱり食欲などの欲求に従って行動していることが分かります。だから人間は欲求に従って生きているのだと。
それはそうなのかもしれません。
けれども、よくよく考えてみるとそれはおかしいということが分かります。仮に自分の欲求のためには、他人を犠牲にしても構わないという極悪人がいたとしても、日常生活の中ではさまざまなことを行うでしょう、たとえ頭の中では欲求を志向することしか考えていないとしても。その人が日常行う行動の中には、欲求という観点から説明のつかない事柄も多く含まれているはずです。まあ、極悪人とか自己中心的だと周りから言われるような人は(自分もそうですけど)、周囲の評価とは裏腹に、エキサイティングなことが好きなものです。たとえ損をしてでもそうしたチャレンジをしようとしますね。
また、話は変りますが、たくさん売れる商品や爆発的にヒットする商品は、そうでない普通の商品と比べてどこが違っているのでしょうか? 普通に売れる商品、値引きしないと売れない商品というのは何かがダメなのでしょうか? いやむしろ、爆発的に売れる商品と普通に売れる商品、どちらも消費者の欲求に訴えるという点ではほとんど差がないといえるわけです。こういうことも、やっぱり心理的な何かがあるのだと思いますね。
こんなふうなさまざまな事例があるものですから、人間の行動は「欲求」によって説明することができるのだという話は、本当は正しくないわけです。じゃあなんで学校でそんなこと教えたんだ?ということになると思うんですけど、欲求によって説明できるということにしておかないと、先生が後で性教育を説明するときに困ります。性教育のために、保健体育ではそうした簡単な説明にとどまっていたのだということですね。ところが高校にちゃんとした心理学はありませんから、修正する機会がないまま大人になるということになります。いやはや、当時の文部省、性教育と心理学、どっちが大事だと思っていたんでしょうね。
さて、かくかくしかじかそういうわけで、日本という国では、人間は欲求を目指して生きるということになってしまったわけです。いつも夢に向かって邁進していないと悪口を言われちゃう。みんな毎日を楽しめばいいのにね…。
自分もよく人生について「夢はないんですか?」と聞かれますけど、「ねーよ!」としか言いようがありません。逆にこっちが聞きたいぐらい(笑)。
さて、例えば魚や動物が餌を探してうろつく行動と、実際に餌を発見してそれに向かっていく行動との間には、注意深く観察すると、明らかに違いがあります。それは脳の中で起きている反応に根本的に違いがあるとしか考えられないわけです。ところが人間の場合は頭で考えて行動するという要素が入ってきますので、どこでその区別をしていいのか分かりません。それで日本の心理学では欲求(needs)と動因(drive)をしばしば同列に扱うことになります。
自分なども永年釣りをしてきて、満腹状態のはずの魚が、何かのきっかけで餌をとろうとしてしまうことがあるということを普段見ていると、こんなふうに一緒くたにしてしまうものの見方にはすごく違和感を感じます。確かに欲求は重要だし動因をエンハンスしますけれども、欲求は欲求だし、動因は動因だと強く感じます。
例えば、服が足りないなあというニーズがあるから買い物に出掛けますが、実際に選んでレジに運ぶときには、結構店員さんとのやりとりとか大事じゃないですか。
意外と「このジーンズ生産中止なんです」みたいなことを言われると慌てて買ったりします。これは「買い逃すかもしれない」という恐れの動因が働くわけです。そして閉店間際になると倍ぐらいの値段でも思わず買ってしまったりもします。
自分が考えていることが、脳の中で起きている出来事の全てではないし、外見的にも個々人の「~のように見える」ことと、その人の脳の中で実際に起きていることの間には大きな隔たりがあるはずです。だから社会心理学のように被験者への聞き取りやメールの回答を一次資料にするというのはそもそも最初から無理があると思います。むしろ頭に電極を貼る方が科学的というものでしょう。
例えば、柿泥棒を考えてみましょう。泥棒に「どうして柿なんか盗んだんだ」と聞くと「お腹が空いたから」と答えるでしょう。彼は空腹感を何度も何度も我慢し、とうとうもう駄目だと思ったときに、ポッとおいしそうな柿が目に付いたわけです。それでいけないと思いつつも盗んでしまった。こういうのを空腹感から盗みを働いたというでしょうか? 全然、「お腹が空いたから盗んだ」のではないわけです。科学者だったら、空腹感と眼から入ってきたインパルスが出会ったときに行動する動因が生じたというふうに説明するわけです(もちろん実際はこんなに単純なはずはなく、一石二鳥の名案が浮かんだときとか、誰かが一緒にやろうと言ってくれたときに行動を起こすわけです)。
それで、ここが重要なポイントなのですが、生理的に言うと、人間の欲求(needs)というのは何千年も何万年も変らないわけですが、動因(drive)の方は時代とともに大きく移り変わっていくわけです。例えば、不作が続くと食料がなくなるんじゃないかといつも心配して行動しますから、貯蔵する技術を改良しますし、貯蔵が可能になれば今度は男達を雇って警備させるわけです。そして隣国に強大な軍隊があればいつ攻めてくるのかと心配するわけです。最近の研究によると、日本は昔コレラだとかダニだとかにだいぶ悩まされていたようで、確かに清潔に対する憧れのようなものが人々の嗜好に影響を与えていたと思います。目の病気で失明する人もずいぶんいたようです。
20世紀で言えば世界的に「すごい(great!)」というのがひとつのキーワードでした。今では逆にコンパクト志向とかロハスとか草食系男子などというように、大きいとか強いということはあんまり重要でなくなっています。19世紀だって「人は優越感を求めて行動する」と唱えていた学者がいたぐらいです。それぐらい変わります。
そんなわけで、動因(drive)というものが脳の中で働いていることが分かると、歴史が俄然面白くなります。マルクスは人間の欲求そのものが進化していくというふうに考えましたけど、当時フロイト心理学しかないわけで、動因を知らないのだから当然そういう結論しか出てこないわけです。
じゃあ、それで、どういうものが一般的に言って動因なのか?ということになるわけですけれども、ひとつがやっぱり「欲望の充足」でしょう。もともとその欲が充分にあるときに、誘惑的なものが目の前に現れると駆り立てられるように行動してしまう。そして次が「不安」と「恐怖」でしょう。魅力的な商品が目の前にあってもすぐに買おうとしないのは、買い物という行動には失敗する可能性がつきものだからです。「手に入らなくなるかもしれない」という不安と、苦労して稼いだお金を失うことに対する恐れが葛藤しているわけです。他にも「怒り」とか「習慣」、「逃避(対象から遠ざかろうとする)」などが候補として挙げられます。そして意外なことに、これらの中で「充足」だけが快感と結びついているのです。本当に予想外な結論です。ですから学校で習ったように「生き物は欲求に向けて行動する」というふうに見ていると頭が混乱してしまいます。
さて、その中で日常生活では「不安」と「恐怖」の2つが支配的なのですから、ここでは「不安」と「恐怖」に絞って見て行きましょう。
「不安」というのは未来と関連性のある情動です。そもそも未来について何も考えない生き物は不安になるはずがありません。未来といえば「予測」です。「予測」は、視覚系の発達によってもたらされた機能ではないかということが、魚などの眼を持った生き物を注意深く観察することによって推測できるのでした(前回の竹田家博物誌)。
「不安」は、自分の未来、「これからどうなるのか」について考えたときに、想定される事態がさらに次の事態を想起させるので、「その先は」「そのまた先は」というふうにどんどん膨らんでいって、考えることをやめることができなくなるような状態だと言えるでしょう。
そしてそれは、自由度が大きければ大きいほど起こりうる選択肢が増えるので、不安のほうも増大することになります。それで、「いっそのこと雁字搦めになったほうがいいや」ということになっていきます。近頃「縛られたい」という人が増えているのは、やっぱり世の中の不安が大きくなっているからだと思います。それでだんだんと同じことの繰り返しを喜ぶようになります。
不安を打ち消すには、みんなと同じことをするとか、うまくいっている人の真似をすることで、自分の不安と向き合うことをしないということが、いちばん楽な対処法なのでしょう。それと毎日決まったことを習慣として行うことでも、不安を和らげることができます(お勧めしませんが…)。
ですが、やっぱり、不安というものがどういうものなのか理解した方がいいでしょう。それは脳の仕組みから来ています。
NHK大河ドラマ「天地人」の中で、直江兼続が寺に預けられていた頃の回想シーンがありまして、そこの住職が達磨大師の言葉を引いて「不安とは人間の頭が作り出す幻想に過ぎぬ」というのですが、これを観てガーンと来ましたね。頭の中に何かそういうメカニズムがあるということです。
さて、次の「恐怖」ですけれども、ヘビやクモといった特定の視覚的パターンに対して恐怖心が生じるということはサルでも確認されている事実なのですけれども、他の恐怖のほとんどが「音」と結びついたものだということが分かります。たとえば急に机をバーンと叩くとか、突然大声で怒鳴ると、ほとんどの人はびっくりするはずです。
そしてたとえばネコが自分の前方から発せられる音に興味を示すのに対して、後ろから聞こえてくる音から遠ざかろうとすることから考えてみますと、音の発信源が、自分の視野角の範囲から外れているときに、恐怖心というものが生じるのではないかという推測ができるかと思います。そして、顔を向けて音の発信源を視覚でとらえることができたとき、その恐怖心は消え去るわけですけれども、明らかに自分の視野角に音の発信源が収まっているはずなのにも関わらず、その発信源がいったい何なのか特定することができない、という場合、生じていた恐怖心は増大していくということが言えると思います。要するに音というのはずっと聞いていれば次第に慣れるものですし、そうでなくてもその音の発信源を特定することができれば消え去るわけですから、恐怖心というものは基本的には一時的なものだということなのでしょう。特に動物の場合はそうです。
けれども人間の場合は少し違っています。たとえばストーカーにつけられているとか、お金がないとか、時間がないということに対しても人間は恐怖心を抱いてしまいます。そしてその恐怖心の源が特定できたからといって、そうしたお金や時間に対する恐れというのは、いみじくも解消するようなタイプのものではないわけです。それは当然といえば当然のわけで、人間は知恵を使って、たとえば交通事故とか火災、あるいは会社の倒産といったリスクを、お金を出して補ってもらっているわけです。そんなわけでお金というのは、宿命的にそうしたリスクを背負っているわけですから、そもそも、お金がない、赤字だということを労働だけで全部解決できるわけではないわけです。みんなが勤勉に働けば、世の中が豊かになるなどというふうな単純な話ではないわけです。
そしてお金とか時間とかストーカーというのは、後ろから迫ってくるということが共通しています。後ろから迫ってくるものは視覚系でとらえることができません。見ることができない敵を相手にするのだから当然聴覚系が担当することになります。そうすると聴覚系が混乱してオーバーコーシャスな状態を作り出すのかもしれません。
唯脳論的にまとめると、「不安」は視覚系、「恐怖」は聴覚系というふうに分類することもできるかと思います。
で、「不安」と「恐怖」、どちらも外部からの入力に伴う一過性のものではありますけれども、目を閉じても、耳を塞いでも持続しているわけです。ここが厄介なところです。つまり頭の中で増幅し持続するという性質を持っているわけです。
「不安」というのは視覚系ですからドーパミンのトニック発火のパターンにいつまでも戻れないということですし、「恐怖」は「ほら、トニック発火を遮断するぞ」という罰記憶の想起と予期と考えられます(例えば、実際に引き金を引かなくても、銃口を向けるだけで相手に心理的なダメージを与えることができる。しかも、何度でも!)。
「不安」と「恐怖」は、明らかに原因というか発端は外部にありながら、内部でその焔が燃え盛っているというところが解消しにくい理由ですし、「怒り」などよりも遥かに執拗で厄介な理由は、「増幅しつつ持続する」という点にあると思います。
それはそうなのかもしれません。
けれども、よくよく考えてみるとそれはおかしいということが分かります。仮に自分の欲求のためには、他人を犠牲にしても構わないという極悪人がいたとしても、日常生活の中ではさまざまなことを行うでしょう、たとえ頭の中では欲求を志向することしか考えていないとしても。その人が日常行う行動の中には、欲求という観点から説明のつかない事柄も多く含まれているはずです。まあ、極悪人とか自己中心的だと周りから言われるような人は(自分もそうですけど)、周囲の評価とは裏腹に、エキサイティングなことが好きなものです。たとえ損をしてでもそうしたチャレンジをしようとしますね。
また、話は変りますが、たくさん売れる商品や爆発的にヒットする商品は、そうでない普通の商品と比べてどこが違っているのでしょうか? 普通に売れる商品、値引きしないと売れない商品というのは何かがダメなのでしょうか? いやむしろ、爆発的に売れる商品と普通に売れる商品、どちらも消費者の欲求に訴えるという点ではほとんど差がないといえるわけです。こういうことも、やっぱり心理的な何かがあるのだと思いますね。
こんなふうなさまざまな事例があるものですから、人間の行動は「欲求」によって説明することができるのだという話は、本当は正しくないわけです。じゃあなんで学校でそんなこと教えたんだ?ということになると思うんですけど、欲求によって説明できるということにしておかないと、先生が後で性教育を説明するときに困ります。性教育のために、保健体育ではそうした簡単な説明にとどまっていたのだということですね。ところが高校にちゃんとした心理学はありませんから、修正する機会がないまま大人になるということになります。いやはや、当時の文部省、性教育と心理学、どっちが大事だと思っていたんでしょうね。
さて、かくかくしかじかそういうわけで、日本という国では、人間は欲求を目指して生きるということになってしまったわけです。いつも夢に向かって邁進していないと悪口を言われちゃう。みんな毎日を楽しめばいいのにね…。
自分もよく人生について「夢はないんですか?」と聞かれますけど、「ねーよ!」としか言いようがありません。逆にこっちが聞きたいぐらい(笑)。
さて、例えば魚や動物が餌を探してうろつく行動と、実際に餌を発見してそれに向かっていく行動との間には、注意深く観察すると、明らかに違いがあります。それは脳の中で起きている反応に根本的に違いがあるとしか考えられないわけです。ところが人間の場合は頭で考えて行動するという要素が入ってきますので、どこでその区別をしていいのか分かりません。それで日本の心理学では欲求(needs)と動因(drive)をしばしば同列に扱うことになります。
自分なども永年釣りをしてきて、満腹状態のはずの魚が、何かのきっかけで餌をとろうとしてしまうことがあるということを普段見ていると、こんなふうに一緒くたにしてしまうものの見方にはすごく違和感を感じます。確かに欲求は重要だし動因をエンハンスしますけれども、欲求は欲求だし、動因は動因だと強く感じます。
例えば、服が足りないなあというニーズがあるから買い物に出掛けますが、実際に選んでレジに運ぶときには、結構店員さんとのやりとりとか大事じゃないですか。
意外と「このジーンズ生産中止なんです」みたいなことを言われると慌てて買ったりします。これは「買い逃すかもしれない」という恐れの動因が働くわけです。そして閉店間際になると倍ぐらいの値段でも思わず買ってしまったりもします。
自分が考えていることが、脳の中で起きている出来事の全てではないし、外見的にも個々人の「~のように見える」ことと、その人の脳の中で実際に起きていることの間には大きな隔たりがあるはずです。だから社会心理学のように被験者への聞き取りやメールの回答を一次資料にするというのはそもそも最初から無理があると思います。むしろ頭に電極を貼る方が科学的というものでしょう。
例えば、柿泥棒を考えてみましょう。泥棒に「どうして柿なんか盗んだんだ」と聞くと「お腹が空いたから」と答えるでしょう。彼は空腹感を何度も何度も我慢し、とうとうもう駄目だと思ったときに、ポッとおいしそうな柿が目に付いたわけです。それでいけないと思いつつも盗んでしまった。こういうのを空腹感から盗みを働いたというでしょうか? 全然、「お腹が空いたから盗んだ」のではないわけです。科学者だったら、空腹感と眼から入ってきたインパルスが出会ったときに行動する動因が生じたというふうに説明するわけです(もちろん実際はこんなに単純なはずはなく、一石二鳥の名案が浮かんだときとか、誰かが一緒にやろうと言ってくれたときに行動を起こすわけです)。
それで、ここが重要なポイントなのですが、生理的に言うと、人間の欲求(needs)というのは何千年も何万年も変らないわけですが、動因(drive)の方は時代とともに大きく移り変わっていくわけです。例えば、不作が続くと食料がなくなるんじゃないかといつも心配して行動しますから、貯蔵する技術を改良しますし、貯蔵が可能になれば今度は男達を雇って警備させるわけです。そして隣国に強大な軍隊があればいつ攻めてくるのかと心配するわけです。最近の研究によると、日本は昔コレラだとかダニだとかにだいぶ悩まされていたようで、確かに清潔に対する憧れのようなものが人々の嗜好に影響を与えていたと思います。目の病気で失明する人もずいぶんいたようです。
20世紀で言えば世界的に「すごい(great!)」というのがひとつのキーワードでした。今では逆にコンパクト志向とかロハスとか草食系男子などというように、大きいとか強いということはあんまり重要でなくなっています。19世紀だって「人は優越感を求めて行動する」と唱えていた学者がいたぐらいです。それぐらい変わります。
そんなわけで、動因(drive)というものが脳の中で働いていることが分かると、歴史が俄然面白くなります。マルクスは人間の欲求そのものが進化していくというふうに考えましたけど、当時フロイト心理学しかないわけで、動因を知らないのだから当然そういう結論しか出てこないわけです。
じゃあ、それで、どういうものが一般的に言って動因なのか?ということになるわけですけれども、ひとつがやっぱり「欲望の充足」でしょう。もともとその欲が充分にあるときに、誘惑的なものが目の前に現れると駆り立てられるように行動してしまう。そして次が「不安」と「恐怖」でしょう。魅力的な商品が目の前にあってもすぐに買おうとしないのは、買い物という行動には失敗する可能性がつきものだからです。「手に入らなくなるかもしれない」という不安と、苦労して稼いだお金を失うことに対する恐れが葛藤しているわけです。他にも「怒り」とか「習慣」、「逃避(対象から遠ざかろうとする)」などが候補として挙げられます。そして意外なことに、これらの中で「充足」だけが快感と結びついているのです。本当に予想外な結論です。ですから学校で習ったように「生き物は欲求に向けて行動する」というふうに見ていると頭が混乱してしまいます。
さて、その中で日常生活では「不安」と「恐怖」の2つが支配的なのですから、ここでは「不安」と「恐怖」に絞って見て行きましょう。
「不安」というのは未来と関連性のある情動です。そもそも未来について何も考えない生き物は不安になるはずがありません。未来といえば「予測」です。「予測」は、視覚系の発達によってもたらされた機能ではないかということが、魚などの眼を持った生き物を注意深く観察することによって推測できるのでした(前回の竹田家博物誌)。
「不安」は、自分の未来、「これからどうなるのか」について考えたときに、想定される事態がさらに次の事態を想起させるので、「その先は」「そのまた先は」というふうにどんどん膨らんでいって、考えることをやめることができなくなるような状態だと言えるでしょう。
そしてそれは、自由度が大きければ大きいほど起こりうる選択肢が増えるので、不安のほうも増大することになります。それで、「いっそのこと雁字搦めになったほうがいいや」ということになっていきます。近頃「縛られたい」という人が増えているのは、やっぱり世の中の不安が大きくなっているからだと思います。それでだんだんと同じことの繰り返しを喜ぶようになります。
不安を打ち消すには、みんなと同じことをするとか、うまくいっている人の真似をすることで、自分の不安と向き合うことをしないということが、いちばん楽な対処法なのでしょう。それと毎日決まったことを習慣として行うことでも、不安を和らげることができます(お勧めしませんが…)。
ですが、やっぱり、不安というものがどういうものなのか理解した方がいいでしょう。それは脳の仕組みから来ています。
NHK大河ドラマ「天地人」の中で、直江兼続が寺に預けられていた頃の回想シーンがありまして、そこの住職が達磨大師の言葉を引いて「不安とは人間の頭が作り出す幻想に過ぎぬ」というのですが、これを観てガーンと来ましたね。頭の中に何かそういうメカニズムがあるということです。
さて、次の「恐怖」ですけれども、ヘビやクモといった特定の視覚的パターンに対して恐怖心が生じるということはサルでも確認されている事実なのですけれども、他の恐怖のほとんどが「音」と結びついたものだということが分かります。たとえば急に机をバーンと叩くとか、突然大声で怒鳴ると、ほとんどの人はびっくりするはずです。
そしてたとえばネコが自分の前方から発せられる音に興味を示すのに対して、後ろから聞こえてくる音から遠ざかろうとすることから考えてみますと、音の発信源が、自分の視野角の範囲から外れているときに、恐怖心というものが生じるのではないかという推測ができるかと思います。そして、顔を向けて音の発信源を視覚でとらえることができたとき、その恐怖心は消え去るわけですけれども、明らかに自分の視野角に音の発信源が収まっているはずなのにも関わらず、その発信源がいったい何なのか特定することができない、という場合、生じていた恐怖心は増大していくということが言えると思います。要するに音というのはずっと聞いていれば次第に慣れるものですし、そうでなくてもその音の発信源を特定することができれば消え去るわけですから、恐怖心というものは基本的には一時的なものだということなのでしょう。特に動物の場合はそうです。
けれども人間の場合は少し違っています。たとえばストーカーにつけられているとか、お金がないとか、時間がないということに対しても人間は恐怖心を抱いてしまいます。そしてその恐怖心の源が特定できたからといって、そうしたお金や時間に対する恐れというのは、いみじくも解消するようなタイプのものではないわけです。それは当然といえば当然のわけで、人間は知恵を使って、たとえば交通事故とか火災、あるいは会社の倒産といったリスクを、お金を出して補ってもらっているわけです。そんなわけでお金というのは、宿命的にそうしたリスクを背負っているわけですから、そもそも、お金がない、赤字だということを労働だけで全部解決できるわけではないわけです。みんなが勤勉に働けば、世の中が豊かになるなどというふうな単純な話ではないわけです。
そしてお金とか時間とかストーカーというのは、後ろから迫ってくるということが共通しています。後ろから迫ってくるものは視覚系でとらえることができません。見ることができない敵を相手にするのだから当然聴覚系が担当することになります。そうすると聴覚系が混乱してオーバーコーシャスな状態を作り出すのかもしれません。
唯脳論的にまとめると、「不安」は視覚系、「恐怖」は聴覚系というふうに分類することもできるかと思います。
で、「不安」と「恐怖」、どちらも外部からの入力に伴う一過性のものではありますけれども、目を閉じても、耳を塞いでも持続しているわけです。ここが厄介なところです。つまり頭の中で増幅し持続するという性質を持っているわけです。
「不安」というのは視覚系ですからドーパミンのトニック発火のパターンにいつまでも戻れないということですし、「恐怖」は「ほら、トニック発火を遮断するぞ」という罰記憶の想起と予期と考えられます(例えば、実際に引き金を引かなくても、銃口を向けるだけで相手に心理的なダメージを与えることができる。しかも、何度でも!)。
「不安」と「恐怖」は、明らかに原因というか発端は外部にありながら、内部でその焔が燃え盛っているというところが解消しにくい理由ですし、「怒り」などよりも遥かに執拗で厄介な理由は、「増幅しつつ持続する」という点にあると思います。