竹心の魚族に乾杯

Have you ever seen mythos?
登場する団体名、河川名は実在のものとは一切関係ございません。

まじめ過ぎることの功罪

2011年05月09日 21時09分29秒 | 竹田家博物誌
人間が「アッ!」と思うことっていろいろあると思うんですけど、「アッ!」と思うことには実は共通点が一つあります。何でしょう。それは予測とのズレです。このズレをどこかに認めると、人間は「アッ!」と思うわけです。歳をとればとるほどそうなります。これは実に不思議なことです。

人間というのはいつでもどこでも何かしらのきっかけで「アッ!」と思うものです。テーブルから物を落とした時とか、道を間違えた時とか、大事なものを忘れてしまったときとか、です。こういったものはそこらじゅうにいろいろとあるわけですが、分けても日頃、自分が熱心に心掛けているものほど、鋭く反応するのではないでしょうか。これこそが、学習システムの働きです。

実は人間は「アッ!」と思った時点ですでに、この学習システムにとらえられている(囚われている)のです。大勢の人々が一斉に取り組んでいる人間特有のゲームに、知らず知らずのうちに飲み込まれているのです。


人間の理性は、無意識の働き――つまり「これを行ってはいけないな」「駄目だな」という感覚――を既存の価値観、たとえば「いけないことをしてしまった」「もったいない」「面倒くさい」「時間の無駄」といった価値観に結びつける働きを行っています。理性というのは本人が自覚していなくてもすでに、非言語的なフィーリングを正当化したり、言語化したり、何らかの形で外部(他人)に表現する際には常に働いていると考えられます。すると理性は扁桃体の働きを意味付けし、重み付けする際、そして、外部に表現する際の双方で重要な役割をしていることになるわけです。

人間は「アッ!」と思ったりするのが当然だし、それが普通の人間らしい姿かもしれません。けれどもみんながいつもそうだからといって、それが人間本来の生き方として、望ましい姿であるとは限りません。たとえば、つい「カッ」となってしまうこと。誰でもそういうことはあるものですけど、そんなものが人間の望ましい姿だと思っている人はたぶんどこにもいないでしょう。

こうした扁桃体と理性の連携に知らず知らずのうちに支配されている人は、いつも他人の好ましくない点を見つけてあげて、指導してあげることに明け暮れます。自分が他人の間違いを指摘して、相手がそれを聞いて行動を改めると、とても気分がいいというわけです。それで自分が何かいいことに励んでいるような気分になって、自分の居場所に落着くのです。

これはその国その国の慣習の上で成員が「善い」とされる行いに取り組み、そこから外れた人は誰かから指摘される・非難されるという、ある意味でゲームのような仕組みと見なすことができると思います。
結局人間というのは様々なルールの上で成立するゲームのプレイヤーを(無意識的に)演じているのであり、各自はそれぞれが是認したルールに沿って行動しているという見方もできるわけです。そして不幸なことに、この謎が解けない限り永遠にゲームは終わらないのです。しかも物事が順調にいっている間、本人は大変な安心感・満足感を得られますから、この謎を解こうという気持ちさえも生じません。

誰もが人間の精神は自由なはずだと思っていますが、実はそれほど自由ではないわけです。


ストレスの多い現代社会の人間のドラマが、純粋に生物学的な学習システムによって営まれていたということは実に驚くべきことです。何より人間という生き物が、そもそもどういう生き物なのかをある程度把握していないと、自己を束縛しているものの姿が見えてこないというのは、あまりにも難しすぎる宿題だと思います。

職場のボス、お客様、経費や生活費、男らしく・女らしく、他人からの承認・共感、言われたことをきちんとやる、身だしなみ・化粧、人から好かれること、平和主義者と思われること、一緒にいて楽しいと言われること、憧れと称賛を受けること、TVに出ること……。こういった人を判断する基準は無数にありますけれども、自分がその審判役をやってしまっては、ますますこのゲームから抜け出せなくなるばかりです。

こうしたゲームというのは、高度に複雑化した予測能力を発達させるために必要なトレーニングとしての役目を果たしているわけですが、人間という生き物は、この予測能力が極めて高いため、設定した禁を破るということそのものに対しても、立派に恐怖というものを感じる動物であるといえます。鞭で打たれることを恐れるだけでなく、その前の段階、これをやってしまったら鞭で打たれるかもしれない、という段階ですでに戦慄を覚えてしまっているわけです。そしてその禁、タブーというのは、そもそも自分で(あるいは慣習にそのまま従って)設定したものです。


学習システムにおいて「恐怖」は、「報酬」と同様、大変大きな役割を果たしています。「報酬」だけでは、人間はこれほど見事な理解力・判断能力を身につけることはできなかったでしょう。

初めは力ある存在から咎められる、罰を受けるということに対しての恐怖であったものが、学習システムの強化により、次第に禁を侵すことそのものへの恐怖へと移り変わっていきます。
やらねばならないことをやらないこと、してはいけないことをしてしまうこと、守らねばならないことを守らないこと、こういったものに対して、無意識的に身体が反応してしまうような神経回路が、人間が大人になる頃にはすっかりでき上がってしまうのです。
やがてはそれが「禁を破る」人物への敵意と過度の憎しみへと繋がり、時には民族同士の対立にさえ発展します。

ところが人間が他の動物と異なるところは、自分で習慣化してしまった行動のギプスを自分で外すことができるという点にあると言えます。飼い猫が時折姿を見せなくなるという生物学的に興味深い行動に対しての考察は、以前にまとめました(注1)。人間はこれを自分の意志で自覚的に行うことができるわけです。今まで説明不可能とされてきた世界各地に見られる土着の風習、通過儀礼、断食などの儀式が、生物学的な側面からアプローチをすることができるかもしれないということです。

学習システムは過去の経験を元に未来を予測し、より有利に適応する方向で進化してきました。学習システムの生物学的な成立背景・存在理由から導かれる当然の帰結として、学習システムは、最終的に、システムの予測が的中する、あるいは、願望を抱いたことが実現するということを積極的に要求してくることになります。またそれは予測したことが的中しない、願ったことが思い通りにならないことに対して、何らかのエラーを返してくるということを同時に意味します。
学習システムが何らかのエラーを返してくるのであれば、当然それは何らかの不快感、あるいは焦燥感というものとして感じられるであろうことは、誰でも容易に想像できることと思います。

学習システムは生物体の「眼」という感覚器官の発達とともに高度化し、複雑化し、脳細胞を肥大化させてきました(注2)。
学習システムは「個」がより有利に外界に適応しより有利に生存することに寄与してきましたが、今やその学習システムは、全てのものが予測可能であると思い込み、全て自分の思い通りにならないと不愉快になるという、抜き差しならないところまで来ているとも言えるのです。

学習システムは「個」の発達を強く促す働きを持っていますが、行き着くところ今で行き着けば、主体であるはずの「個」そのものの存在を脅かしもするという、諸刃の剣のような性格を持ったものだということが言えるかもしれません。
素直に考えれば、学習すればするほど個体の能力は拡大し、賢くなるのが当然なはずです。ですが、未来への関心が増大し「思った通りになるのか、ならないのか」に異常なほど関心を持つまでに拡大した学習システムというのは、もはやその処理自体が計算処理能力を圧迫し始め、と同時に一方では、さらにもっと深刻な問題を生み出しさえもするわけです。それは「未来がどうなるのか」ということが本人にとってあたかも「生きるのか死ぬのか」ということよりも重要な問題であるかのように錯覚させることになるからです。対策は学習システムが完成を見る前に止めてしまう、盆栽のように芽をちょん切る、それしかありません。

さて、そうすると不幸にして学習システムに支配されてしまった人、もはやタコツボ化してしまった人というのは、意図した目的が完了するまでの間、事態の経過・推移に釘付けになるということが容易に推測できます。たとえば何かを他人に依頼する場合、「待つ」ということに多大な苦痛を覚えます。それで何かにつけて「早く、早く」ということになります。こういう人、ますます増えてはいませんか?
しかも、不幸にしてこうなってしまった人は、もはや「こうだ」と具体的に思い描くことのできることしか、やろうという意欲を持つことができないのです。結果がどうなるか予測できないことなど、恐ろしくでできません。

そうしてみると最近のお偉いさん達、特に霞が関の人達は大丈夫なのかと心配になります。確かに一人一人は善良で、真面目でいい人達なのだけど、ほんとに大丈夫なの?と。


ここまでの話で「そんなこと、絶対にありえない」という人が大部分でしょう。もちろんこれはあくまでも「最悪の場合こうなる」ということですから、誰でも確実にこうなるという話ではありません。ですので40過ぎたら男は誰でもタコツボ化する…と決まったわけではありません。文字通り「必要以上に深刻になる必要はない」(笑)。



注1 ネコの家出に関しては過去記事「ネズミが短命なのは?」
注2 学習システムと探索像に関しては過去記事「一次報酬と二次報酬」

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